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天声JINGO アーカイブ

2017年度10月〜

2017.10.1「鬼っ子いじめの陰で」

 米国と北朝鮮の舌戦は世界中を巻きこみ、北朝鮮の核兵器開発問題にまで発展し、日本では今にも北朝鮮が戦争をしかけてくるのではないかと大騒ぎをしている。北朝鮮の過激な行動は目に余る。先日は敗戦後初めて、日本列島半分に及ぶJアラートが2回も発令された。そして今までにない巨額の防衛費をかけて迎撃システムを世界で初めて米国から購入するようだ。私は敗戦後に使っていた10円紙幣(国会議事堂)を今でも大事に持っている。その紙幣のデザインは日本が米国の鎖に縛られ、檻に閉じ込められているとう屈辱的なものだ。1947年には新憲法が制定され、新生日本として出発したはずだ。しかしこの紙幣は1955年まで印刷されていた。米国への隷属関係は現在にまで続いているようだ。私は新憲法の人権思想と戦争放棄の平和主義は、キリストの愛の内実でもあると受け止めてきた。だが実際には「日米安全保障条約」が自国の憲法よりも優先させていることは、現在までの沖縄における軍事基地問題に顕著である。それ以上に私たちが注視すべきことは、世の覇権争いの影で苦しむ人々のことではないだろうか。鬼っ子として嫌われている北朝鮮ではあるが、大半の民衆は貧しく飢えている人々であることを忘れてはならない。日本でも土地を収奪され続け、横暴な米軍支配のみならず、日本政府により力で押さえつけられ、命の危険にさらされている人々を忘れてはいけない。そのように沖縄県民に犠牲を強いている日本政府の姿は、貧しい人々をどこまでも見殺しにしていく北朝鮮の権力者たちと大差ないと思う。日本の一般国民の上にも、米軍の戦闘機やオスプレイなどが日常的に自由に飛び回っていて、北朝鮮のミサイル発射実験による危険よりもはるかにリスクが多く大きくなっている現実を見逃してはいまいか?

 小さく弱く貧しくされていく人々に寄り添った「教会=主にある群れ」として、主に倣うものであることの内実が強く求められている時代だと思う。

 

2017.10.15「負の遺産に学ぶ」

 11日(水)「軽井沢9条の会」で、草津温泉にあるハンセン病施設栗生楽泉園を訪ねた。私も含め15名の参加者のほとんどが同施設訪問は初めてで、同施設の存在そのものを知らなかった方もいた。同施設内にはカトリック教会と聖公会の教会はあるが、プロテスタント教会はないので関係も情報も薄かったのかもしれない。それより我々の関心の無さのほうが問題なのだろう。私は1968年から11年間東中国教区(岡山県と鳥取県)におり、国立の邑久光明園にあったわが教団の「光明園家族教会」の信者の方々との出会いがあったので、ある程度日本におけるハンセン病差別の歴史は学んでいたが、それだけのことであった。現在も毎年開催されている東日本同信伝道会主催の高校生ユースキャンプ(献身修養会)が、軽井沢のエマオ山荘で開催されていた頃には一日の栗生楽泉園見学がプログラムされていたが、スタッフではなかった私はついていったことはなかった。今回、現地について真っ先に、私の顔を覚えていて下さった方にお目にかかってびっくり仰天。10年位前に当教会の夏の礼拝コンサートに来られたハンセン病回復者で詩人の桜井哲夫さん(2011年没)と一緒にこられた看護師の方であった。

 今回の訪問は「西吾妻9条の会」との交流も兼ねていて、一緒に現在の楽泉園自治会長藤田三四郎さんのお話を聞き、資料館を見学した。また、ここ独特の施設であった「重監房(1938〜1947使用)」は、患者の中の犯罪者を収監する牢獄で、今なお謎とされている部分が多いと言う。それでも明らかにされた事が2014年に開設された「重監房資料館」に展示されていた。

 ハンセン病は1943年にアメリカでプロミンという薬の効果が発見され、日本でも普及し、1949年以降は治る病気となったにもかかわらず、「らい予防法」が廃止されたのは1996年であった。このことは、我々の社会の人権意識の低さを思い知らされるものである。「重監房資料館」が、それを負の遺産として後世に伝え、ハンセン病をめぐる差別と偏見の解消を目指す普及啓発の拠点となるという理念は、憲法9条の会の目指す理念とそのまま軌を一にするものであると思ったのである。

 

2017.10.22「見えない存在によって」

 私は何時の頃からか、松居友主宰の「ミンダナオ子ども図書館(MCL)」を応援している。MCLは、読み聞かせを中心に、スカラシップ、医療、保育所建設、植林を行っている現地NGO・非政府組織である。今月16日の「MCLたより」に心打たれたのでその要旨を松居友の文章に沿って紹介する。

 「MCLには、特に小さな子たちが多い。父親や母親、両親がいなくなって、村や親戚に取り残された子たちだが、決して重苦しい施設ではなく、開放的な施設であるが、なぜだろうかとよく訪問者から質問される・・・。考えられる理由の一つは、多様性だろう。子どもたちは、それぞれが厳しい状況から来ているのだが、孤児だけではなく、親のいる子でも、学校が遠い子、極貧で親が養いきれない子、宗教も部族も実に多様だ。それに、彼らの目的は、学校に行き、ここから社会に巣立っていく事だから、収容されていると言う感じがない。周囲に、塀もない。実に温かいコミュニティーが生きている。最近よく思うのだが、個人も大切だし、それを統合するような全体も大切なのだが、それだけでは、個人主義か全体主義かと言う事になる。本来は、個人と全体の間にある見えざる空間が存在し、それがコミュニティーと呼ばれるものだと思う。祈りで考えると、人と神(唯一の創造神)の間に、愛というコミュニケーションが存在するようなもので、その見えざる中間の存在は、「見えない」ゆえに、最も意識されにくいものなのだろう。これは、この世の世界にも当てはまることで人と自然だけではだめで、その中間に、「見えない」関係が宿り、それを太古から人は精霊と呼んだ。ミンダナオの人々が、愛を維持していけるメンタリティーを持ち続けているのは、クリスチャンもイスラムも、マノボ族のような先住民族につながる精霊の感覚を持っているからだと感じるときがある。精霊は、神と人の関係では、聖霊になる。カトリックで良かったとふと思うときがある。それは, 父と子と聖霊が一つの愛に統合される世界観を感じるときだ。MCLは、もちろんカトリック教徒は逆に少数派なのだが、カトリックの意味を普遍的ととらえるならば、MCLは普遍的であるが故に、おおらかで、のびのびとしているのだと思う。」と。我々の「教会」もそうありたいと願った。

 

2017.10.29「不信心のすすめ」

 先週行われた衆議院選挙の結果にびっくりした。与党の有勢は想像していたが、解散前より有勢になるとは。特に安倍総理の嘘や方便、権力を傘にきた勝手横暴への批判票がもっとあると信じていたので、いくら変化や革命を好まない、あるいは政権からの生活の締め付けを嫌う保守的国民とはいえ、あまりにも寛容すぎるのではとの思いからの驚きであった。イエス・キリストは、罪を犯した兄弟を「〜七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)と教えているが、日本国民は生まれながらにしてクリスチャン的なのかな?と疑いたくなったのである。しかしそのように権力に寛容であり従順な国民であっても、富と権力は容赦なく弱く貧しい者を搾取し、すこしの罪も許してくれいのが現実である。寛容とか赦しの精神からではなく、恐怖心からの保身的反応としての保守化であり、それが社会的、文化的に染み込んでいるのではないかと思うのであった。そういう私は、「お前はいいよな、好き勝手なことを言って、権力者や国民を批判してすませられるのだから」と言われそうである。しかし私は上段に構えて日本国民を蔑む気は毛頭ないし、むしろ自分も同類だと思っている。

 今、毎週金曜午後の「聖書を学ぶ会」では「ローマの信徒への手紙」を読んでいる。先週は信仰の父といわれているアブラハムを通して「信仰による義」を使徒パウロが立証している箇所であった(4:1〜12)。 神はアブラムを多くの国民の父とすること、そしてカナンの地を子々孫々にいたるまで永久の所有地として与えること、そして実子がいなかった100歳のアブラハムと90歳の妻サラに世継ぎを与えると約束する。この約束にアブラハムもサラも心の中で笑ったとある。アブラハムはすでに妻サラの奴隷ハガルに世継ぎを産ませている。それにもかかわらず、神はアブアハムと契約を結び、彼を「義」としているのである(創世記17〜18章)。 何故か? パウロは、信仰とは行為、働きがなくとも「不信心な者を義とされる方を信じる」ことだというのだ(ロマ4:5) 。この場合、自分自身の「不信心」の認識が核となるのだ。不信心だからこそ、神の言葉の前に身をさらし、ひたすら神によって赦されていること、「義」とされていことに感謝を献げ続ける者でありたい。

 

2017.11.12「終末に生かされて」

 イエスさまは「終末」の兆候を共観福音書で具体的に述べている(マタイ24:3-14、マルコ13:3-13、ルカ21:7-19)。それによると、キリストを名乗る者が大勢出現する、戦争の騒ぎ、地震、飢饉、迫害などが決まって起こると言っておられる。現在の世界ではどうだろうか。確かに、統一原理やオウム真理教などカルト宗教ブームは依然として根強く広がりを見せている。戦争騒ぎも、テロとの戦いや独裁政権内の武力衝突など、複雑に絡み合いながら果てしない。日本も自衛隊の集団的自衛権の行使を可能にし、さらに軍隊として戦争が出来る国にしようとしている。また世界各地の紛争地帯では、武力行使や飢饉、紛争による難民が多くなり、世界の飢餓状態の深刻度は増している。72年間直接戦争をしてこなかった日本も、大地震などの自然災害を度々経験している。さらに核被災など新たな脅威の下にもおかれている。そして迫害は様々な形をとって迫っている。例えば長時間労働による過労死問題や、富の独占化による経済格差、貧しく弱い立場の人々はますます搾取され使い捨てられている。力のある者の横暴は、マスコミ操作や沖縄のようなあからさまな警察権力による封じ込めとなって現れている。憲法の保障する最も基本的な人権条項である、奴隷的拘束及び苦役からの自由、思想及び良心の自由、信教の自由、学問の自由、信仰の自由、集会・結社・表現の自由、通信の秘密などを脅かすとんでもない法律「共謀罪」などまでが作られている。これらはイエスさまの言う「終末」の徴とぴったりと一致するのではないだろうか。そうだとすると、今はまさに「終末」の時なのである。いや、75年間戦争をしてこなかった日本人にとってあまりピンとこないかも知れないが、世界レベルでは、イエスさまの時代から「終末」の時が続いているということができる。

 イエスさまのこの話は、もともと「神殿崩壊」(マルコ13:1-2)の予言から始まっていることが興味深い。弟子たちが見た神殿、その立派さへの感嘆の虚しさを突いているのである。今のわたしたちにとって「日本基督教団」は、信者の数とか、組織の一体感とか、見た目の立派さを求めすぎてはいないだろうか。自戒を込めてそう思うが、「終末」は聖書では完全な救いの前触れである。だが、どんな悲惨な目にあおうとも「最後まで耐え忍ぶものは救われる」との主の言葉を待ち望み、また伝達する主の教会の本来の姿にこそ目を留めたい。