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天声JINGO アーカイブ

2017年度10月〜

2017.10.1「鬼っ子いじめの陰で」

 米国と北朝鮮の舌戦は世界中を巻きこみ、北朝鮮の核兵器開発問題にまで発展し、日本では今にも北朝鮮が戦争をしかけてくるのではないかと大騒ぎをしている。北朝鮮の過激な行動は目に余る。先日は敗戦後初めて、日本列島半分に及ぶJアラートが2回も発令された。そして今までにない巨額の防衛費をかけて迎撃システムを世界で初めて米国から購入するようだ。私は敗戦後に使っていた10円紙幣(国会議事堂)を今でも大事に持っている。その紙幣のデザインは日本が米国の鎖に縛られ、檻に閉じ込められているとう屈辱的なものだ。1947年には新憲法が制定され、新生日本として出発したはずだ。しかしこの紙幣は1955年まで印刷されていた。米国への隷属関係は現在にまで続いているようだ。私は新憲法の人権思想と戦争放棄の平和主義は、キリストの愛の内実でもあると受け止めてきた。だが実際には「日米安全保障条約」が自国の憲法よりも優先させていることは、現在までの沖縄における軍事基地問題に顕著である。それ以上に私たちが注視すべきことは、世の覇権争いの影で苦しむ人々のことではないだろうか。鬼っ子として嫌われている北朝鮮ではあるが、大半の民衆は貧しく飢えている人々であることを忘れてはならない。日本でも土地を収奪され続け、横暴な米軍支配のみならず、日本政府により力で押さえつけられ、命の危険にさらされている人々を忘れてはいけない。そのように沖縄県民に犠牲を強いている日本政府の姿は、貧しい人々をどこまでも見殺しにしていく北朝鮮の権力者たちと大差ないと思う。日本の一般国民の上にも、米軍の戦闘機やオスプレイなどが日常的に自由に飛び回っていて、北朝鮮のミサイル発射実験による危険よりもはるかにリスクが多く大きくなっている現実を見逃してはいまいか?

 小さく弱く貧しくされていく人々に寄り添った「教会=主にある群れ」として、主に倣うものであることの内実が強く求められている時代だと思う。

 

2017.10.15「負の遺産に学ぶ」

 11日(水)「軽井沢9条の会」で、草津温泉にあるハンセン病施設栗生楽泉園を訪ねた。私も含め15名の参加者のほとんどが同施設訪問は初めてで、同施設の存在そのものを知らなかった方もいた。同施設内にはカトリック教会と聖公会の教会はあるが、プロテスタント教会はないので関係も情報も薄かったのかもしれない。それより我々の関心の無さのほうが問題なのだろう。私は1968年から11年間東中国教区(岡山県と鳥取県)におり、国立の邑久光明園にあったわが教団の「光明園家族教会」の信者の方々との出会いがあったので、ある程度日本におけるハンセン病差別の歴史は学んでいたが、それだけのことであった。現在も毎年開催されている東日本同信伝道会主催の高校生ユースキャンプ(献身修養会)が、軽井沢のエマオ山荘で開催されていた頃には一日の栗生楽泉園見学がプログラムされていたが、スタッフではなかった私はついていったことはなかった。今回、現地について真っ先に、私の顔を覚えていて下さった方にお目にかかってびっくり仰天。10年位前に当教会の夏の礼拝コンサートに来られたハンセン病回復者で詩人の桜井哲夫さん(2011年没)と一緒にこられた看護師の方であった。

 今回の訪問は「西吾妻9条の会」との交流も兼ねていて、一緒に現在の楽泉園自治会長藤田三四郎さんのお話を聞き、資料館を見学した。また、ここ独特の施設であった「重監房(1938〜1947使用)」は、患者の中の犯罪者を収監する牢獄で、今なお謎とされている部分が多いと言う。それでも明らかにされた事が2014年に開設された「重監房資料館」に展示されていた。

 ハンセン病は1943年にアメリカでプロミンという薬の効果が発見され、日本でも普及し、1949年以降は治る病気となったにもかかわらず、「らい予防法」が廃止されたのは1996年であった。このことは、我々の社会の人権意識の低さを思い知らされるものである。「重監房資料館」が、それを負の遺産として後世に伝え、ハンセン病をめぐる差別と偏見の解消を目指す普及啓発の拠点となるという理念は、憲法9条の会の目指す理念とそのまま軌を一にするものであると思ったのである。

 

2017.10.22「見えない存在によって」

 私は何時の頃からか、松居友主宰の「ミンダナオ子ども図書館(MCL)」を応援している。MCLは、読み聞かせを中心に、スカラシップ、医療、保育所建設、植林を行っている現地NGO・非政府組織である。今月16日の「MCLたより」に心打たれたのでその要旨を松居友の文章に沿って紹介する。

 「MCLには、特に小さな子たちが多い。父親や母親、両親がいなくなって、村や親戚に取り残された子たちだが、決して重苦しい施設ではなく、開放的な施設であるが、なぜだろうかとよく訪問者から質問される・・・。考えられる理由の一つは、多様性だろう。子どもたちは、それぞれが厳しい状況から来ているのだが、孤児だけではなく、親のいる子でも、学校が遠い子、極貧で親が養いきれない子、宗教も部族も実に多様だ。それに、彼らの目的は、学校に行き、ここから社会に巣立っていく事だから、収容されていると言う感じがない。周囲に、塀もない。実に温かいコミュニティーが生きている。最近よく思うのだが、個人も大切だし、それを統合するような全体も大切なのだが、それだけでは、個人主義か全体主義かと言う事になる。本来は、個人と全体の間にある見えざる空間が存在し、それがコミュニティーと呼ばれるものだと思う。祈りで考えると、人と神(唯一の創造神)の間に、愛というコミュニケーションが存在するようなもので、その見えざる中間の存在は、「見えない」ゆえに、最も意識されにくいものなのだろう。これは、この世の世界にも当てはまることで人と自然だけではだめで、その中間に、「見えない」関係が宿り、それを太古から人は精霊と呼んだ。ミンダナオの人々が、愛を維持していけるメンタリティーを持ち続けているのは、クリスチャンもイスラムも、マノボ族のような先住民族につながる精霊の感覚を持っているからだと感じるときがある。精霊は、神と人の関係では、聖霊になる。カトリックで良かったとふと思うときがある。それは, 父と子と聖霊が一つの愛に統合される世界観を感じるときだ。MCLは、もちろんカトリック教徒は逆に少数派なのだが、カトリックの意味を普遍的ととらえるならば、MCLは普遍的であるが故に、おおらかで、のびのびとしているのだと思う。」と。我々の「教会」もそうありたいと願った。

 

2017.10.29「不信心のすすめ」

 先週行われた衆議院選挙の結果にびっくりした。与党の有勢は想像していたが、解散前より有勢になるとは。特に安倍総理の嘘や方便、権力を傘にきた勝手横暴への批判票がもっとあると信じていたので、いくら変化や革命を好まない、あるいは政権からの生活の締め付けを嫌う保守的国民とはいえ、あまりにも寛容すぎるのではとの思いからの驚きであった。イエス・キリストは、罪を犯した兄弟を「〜七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)と教えているが、日本国民は生まれながらにしてクリスチャン的なのかな?と疑いたくなったのである。しかしそのように権力に寛容であり従順な国民であっても、富と権力は容赦なく弱く貧しい者を搾取し、すこしの罪も許してくれいのが現実である。寛容とか赦しの精神からではなく、恐怖心からの保身的反応としての保守化であり、それが社会的、文化的に染み込んでいるのではないかと思うのであった。そういう私は、「お前はいいよな、好き勝手なことを言って、権力者や国民を批判してすませられるのだから」と言われそうである。しかし私は上段に構えて日本国民を蔑む気は毛頭ないし、むしろ自分も同類だと思っている。

 今、毎週金曜午後の「聖書を学ぶ会」では「ローマの信徒への手紙」を読んでいる。先週は信仰の父といわれているアブラハムを通して「信仰による義」を使徒パウロが立証している箇所であった(4:1〜12)。 神はアブラムを多くの国民の父とすること、そしてカナンの地を子々孫々にいたるまで永久の所有地として与えること、そして実子がいなかった100歳のアブラハムと90歳の妻サラに世継ぎを与えると約束する。この約束にアブラハムもサラも心の中で笑ったとある。アブラハムはすでに妻サラの奴隷ハガルに世継ぎを産ませている。それにもかかわらず、神はアブアハムと契約を結び、彼を「義」としているのである(創世記17〜18章)。 何故か? パウロは、信仰とは行為、働きがなくとも「不信心な者を義とされる方を信じる」ことだというのだ(ロマ4:5) 。この場合、自分自身の「不信心」の認識が核となるのだ。不信心だからこそ、神の言葉の前に身をさらし、ひたすら神によって赦されていること、「義」とされていことに感謝を献げ続ける者でありたい。

 

2017.11.12「終末に生かされて」

 イエスさまは「終末」の兆候を共観福音書で具体的に述べている(マタイ24:3-14、マルコ13:3-13、ルカ21:7-19)。それによると、キリストを名乗る者が大勢出現する、戦争の騒ぎ、地震、飢饉、迫害などが決まって起こると言っておられる。現在の世界ではどうだろうか。確かに、統一原理やオウム真理教などカルト宗教ブームは依然として根強く広がりを見せている。戦争騒ぎも、テロとの戦いや独裁政権内の武力衝突など、複雑に絡み合いながら果てしない。日本も自衛隊の集団的自衛権の行使を可能にし、さらに軍隊として戦争が出来る国にしようとしている。また世界各地の紛争地帯では、武力行使や飢饉、紛争による難民が多くなり、世界の飢餓状態の深刻度は増している。72年間直接戦争をしてこなかった日本も、大地震などの自然災害を度々経験している。さらに核被災など新たな脅威の下にもおかれている。そして迫害は様々な形をとって迫っている。例えば長時間労働による過労死問題や、富の独占化による経済格差、貧しく弱い立場の人々はますます搾取され使い捨てられている。力のある者の横暴は、マスコミ操作や沖縄のようなあからさまな警察権力による封じ込めとなって現れている。憲法の保障する最も基本的な人権条項である、奴隷的拘束及び苦役からの自由、思想及び良心の自由、信教の自由、学問の自由、信仰の自由、集会・結社・表現の自由、通信の秘密などを脅かすとんでもない法律「共謀罪」などまでが作られている。これらはイエスさまの言う「終末」の徴とぴったりと一致するのではないだろうか。そうだとすると、今はまさに「終末」の時なのである。いや、75年間戦争をしてこなかった日本人にとってあまりピンとこないかも知れないが、世界レベルでは、イエスさまの時代から「終末」の時が続いているということができる。

 イエスさまのこの話は、もともと「神殿崩壊」(マルコ13:1-2)の予言から始まっていることが興味深い。弟子たちが見た神殿、その立派さへの感嘆の虚しさを突いているのである。今のわたしたちにとって「日本基督教団」は、信者の数とか、組織の一体感とか、見た目の立派さを求めすぎてはいないだろうか。自戒を込めてそう思うが、「終末」は聖書では完全な救いの前触れである。だが、どんな悲惨な目にあおうとも「最後まで耐え忍ぶものは救われる」との主の言葉を待ち望み、また伝達する主の教会の本来の姿にこそ目を留めたい。

 

017.11.19「収穫の主を」

 神奈川県座間市のアパートで9人の15歳〜26歳の女性の遺体が見つかった事件に心が痛む。加害者の異常な行動も理解し難いのだが、それよりも気になるのは、いずれの被害者も自殺願望の持ち主だったことと、その相談相手がインターネット上のツイッターというシステムで、見ず知らずの相手であったという点である。そこに深刻な社会的な問題が潜んでいると思う。

 殺された9人それぞれの自殺願望の背景は、これから詳しくマスコミや、いわゆる専門家?という人々が解明していくことだろうが、将来への理想と希望に満ち溢れているはずの彼女らを絶望の淵においやっているこの世の「闇」を徹底的に解明してほしいものである。

 それにしても今の我々の社会の「人権意識」の欠如というか低下というか、そのような憂うべき現象があちらこちらに見受けられ心配でならない。例えば様々ないじめ問題は論じられ対策もほどこされているが、一向に改善しない。他にも人権が無視されるようなところには、必ず弱い立場の人々の「命」が関わってくることは論をまたないだろう。それだけに、それらの人々が逃げ込めるところや、寄り添う人や機関が身近にないということは、なんと冷たい世の中だろうと思う。そして、実はわたしたちキリスト教会はその役目を真っ先に果たさねばならいのだが、そのように機能しているだろうかと自省が促される。聖書では、弱く、小さく、貧しくされている人々に寄り添い癒される方としてイエス様を救い主として信じているのだから、その主のもとに、癒しを求めている人々を誘う使命が教会にあることをもっともっと強くもたねばと思う。

 来週の聖日は収穫感謝日だ。私たちの教会では特別な行事は計画していないが、「また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』(マタイ9:36-38)という主イエス・キリストの言葉によく聴き従いたい。

 

2017.11.26「子供と天国」

 「子供の聖書の学び」を毎週水曜日午後4時半から開催している。先週はマタイによる福音書18章1節からだった。 冒頭で「天の国で一番偉い者はだれか」との弟子たちの問いにイエスが答えた場面である。その答えは「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(18:3〜4)であった。 Mちゃんは嬉しそうな顔をしながらもなにかとまどいがちであった。私はついでに、お母さんに何だかんだと文句をいわれた時には、「子供が天の国で一番偉いのだ」とイエス様が言っているよと言ってみな、と薦めたのであった。

 さて、「自分を低くして」という生き方はわかるような気がするのだが、「子供のようになる」とはどういうことなのか。今の日本の社会では考えにくいかもしれないが、イエスが「子供」といった場合、徹底した人の弱さ、未熟さ、貧しさに置かれている人々、無人権状態にある人々をさすと考えられるからだ。「人権」という観点から見るとどうだろう。「児童の権利に関する条約」が1989年11月20日に第44回国連総会において採択され、日本は1990年9月21日にこの条約に署名し、1994年4月22日に批准した。しかし、いじめや体罰等々の問題にさらされている現実の前で、この条約がどれだけ教育現場、家庭や社会に浸透し実践されているのか疑問を感じる。私たちが、この条約文と照らし合わせて自己吟味してみれば、自分自身の人権意識の程度を計り知ることができると思う。そこには、子供の生命の保護、体罰の徹底した禁止、いじめや校内暴力などからの保護などは勿論のこと、意見表明、表現の自由、思想良心及び宗教の自由、結社及び集会の自由などの権利、そして干渉又は攻撃に対する保護などに関する54条に渡る項目がある。この「子供の権利条約」は我が国の現憲法における一連の人権・権利条項に沿っていると思う。そのように子供たちを受け入れることは主イエスを受け入れることであり、そこに天の国があると主イエスは教えられているのだ。

 

2017.12.10「アドベント」

 先週よりアドベント。アドベントとは「到来」を意味するラテン語。ギリシャ語のエピファニー(顕現)と同義語。待降節、降臨節などとも言われている。何を待ち望むのか? いうまでもなく人間世界への「神ご自身の到来」である。その待望はイスラエルのバビロン捕囚時代に遡るが、クリスマス以後は、キリストの「再臨」を意味する語ともなっている。ローマ・カトリック教会ではクリスマス前の断食の期間でもあり、新しい年の始まりでもあった。従って我々人間の誕生日を祝うこととは根本的に違う。神が私の前に顕れるのであるから、当然そこには主イエスの「タラントン」の譬話しのように、「今の私」が問われる場でもある(マタイ25:14〜30)。私たちはどんな思いを持ってクリスマスを待ち望んでいるのだろうか。審判者の前に立つ畏れと緊張を持っているだろうか。審判といっても、2000年前に救い主の到来は実現し、私たち人間はだれでも等しく、神子によって値なくして贖われ救いへと導き入れられたのだから、子供たちが胸を含まらせてクリスマスを待ち望んでいるように、文句なしに感謝と喜びをもって主の前に出る日々を得ているはずである。だが現実の世の中は非常に暗い。「平和」とはどんどんかけ離れていき、国々の敵愾心が煽られ、互いの隔ての壁がどんどん築かれている。では私たち一人一人はどうであろうか。主を喜び主の栄光を賛美するべく歩み出る私たち自身はいかに? この私のすべてを贖い赦してくださった主の前に、ああ、ほんとうにありがとうとの心からの感謝をもって歩み出ているだろうか。気が付いたら主なる神への不平不満という罪の虜になってはいまいか。どうしても「仲間を赦せない家来のたとえ」(マタイ18:21〜35)のような自分が気になってしょうがない。そんな私たちだからこそ、預言者の口を通して神は「私の民よ、心してわたしに聞け」(イザヤ51:4)と言葉かけをしてくださっているのだ。私たちは自分の思いを先立てて主なる神に語りかけるのではなく、神の言葉にひたすら聴くことを心がけたいアドベントである。

 

2017.12.17「希望の光が」

 2017年ももう残り僅かになってきたが、この年も最後の最後まで暗い希望のない事件、出来事がメジロ押しという感が拭えない。国内では沖縄の米軍基地問題、原発問題、政治家や大企業の不正や疑惑問題、北朝鮮をめぐる軍事問題等々があり、世界では深刻な難民問題、特に最近はミャンマーの民主化指導者だったスー・チー国家顧問兼外相の下でロヒンギャが史上最悪の人道危機に見舞われているし、パレスチナ問題も米大統領のエルサレムのイスラエル首都宣言で、今までの和平へのプロセスが悉く壊され、武力衝突の泥沼化への懸念が高まっている等々である。そんな中でも「希望の光」がさっと射し始めたニュースに少しは救われた思いだ。それは広島・長崎の被爆者と連携し、核兵器禁止条約の採択に尽力してノーベル平和賞を受けた非政府組織「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)にである。その協力者でカナダ在住のサーロー節子さん(85)が、被爆者として初めて授賞式で演説をされた。「核廃絶禁止条約」は7日に国連本部で採択されたが、この日までの核廃絶への彼女の長い道のりのドキュメンタリーを私はテレビで見た。なんと彼女は72年間核廃絶を求めて戦い続けてきたのだ。その彼女は「核廃絶禁止条約」は「終わりの始まり」だという。日本でも13日に広島高裁で「四国電力伊方原発3号機の運転差し止め訴訟」に原告勝訴の判決が下されたことは、かすかな光が見えた思いであった。わたしは「核兵器」廃絶はもとより「原発」も福島第一原発事故が証明しているように廃止すべきであると思っている。チェルノブイリ4号機の事故が物語っているように、「核」そのものが黙示録の四つの生き物(黙示録6:1)ではないかと思っている。「チェルノブイリ」は旧約聖書に再三出てくる「ニガヨモギ」(申命記29:17、箴言5:4、エレミヤ書9:14、アモス書5:7、黙示録8:11)である。多くの人々を死においやる毒草だ。日本は世界史上唯一の被爆国である。つい先だっての福島第一原発事故でも多くの犠牲者を出し続けていて、まだその後始末も緒についたばかりではないか。日本は実におかしい、恥ずかしい。でも、かすかな「希望の光」が差し込んできているのも確かだ。

 

2017.12.25「エルサレム考」

 米国トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認めたことにより、パレスチナだけでなく世界中が大騒ぎになっている。今回の大統領の唐突ともいえるこの表明の背景には、彼の支持基盤である米国の白人キリスト福音派(旧新問わず)の圧力が大きいと報道されている。白人福音派というのは、聖書を逐語霊感的に読む傾向の強い信仰者だ。つまり神がパレスチナ(カナン)の地をユダヤ人に「約束の地」として与えたと文字通り信じている信仰者だ。何をやっても不人気な大統領の権力支持基盤へのサーヴィスとしての今回の宣言は、世界中から猛反発を受けているが、私が懸念するのは、すべてのキリスト教会の認識がみな同じだと思われることだ。私たちの聖書の読み方は決して逐語霊感説によるものではない。確かにパレスチナは聖書の舞台となった具体的な場所であり、「エルサレム」は主の十字架と復活の舞台であった。しかし聖書は単なる歴史書ではない。この世の現実の只中にあるが、そこで繰り広げられている神と人との関係の歴史として受けと止めていくことが大切なことなのだ。

 「エルサレム」は主の受難の場であった。最初「エルサレム」の人々は主を「ダビデの子にホサナ」と、ローマ帝国からの独立を指導する王として大歓迎をして迎え入れた。しかし、主イエスは何事も起こさず、自分は「ダビデの子」ではないことを主張し(マタイ22:45)、神殿とことごとく対立し、敵をも「隣人」として愛せよ(マタイ22:38〜39)と教え、「エルサレム」を激しく嘆いたのだ(マタイ23:37)。それ故に理不尽にもこの地で極刑に処せられたのである。

 このことから「エルサレム」とは、この世の地位と名声と富と武力を求め、「神の子」を排斥する事の代名詞なのである。そして忘れてならないのは、そのような「エルサレム」だからこそ主の「復活」により神の救いの成就した神の都「エルサレム」でもあったのだ。今日のパレスチナにおける「エルサレム」は、神のご自愛に満ちた、すべての国や民族が和睦し共存する場所であってこそ、聖書のまっとうな「エルサレム」であると思う。

 

2017.12.31「クリスマスの羊飼い」

 クリスマス・イブ礼拝の宣教では、ルカによる福音書のクリスマスシーンで、唯一神の子の誕生を祝うことのできた被差別者である「羊飼いたち」(ルカ2:8〜20)が、現在日本社会で同じように切り捨て続けられている沖縄の人々にオーバーラップして見えたと述べた。そのことをもう少し詳しく述べさせてもらう。12月7日宜野湾市野嵩にあるバプテスト教会付属緑ヶ丘保育園に、米軍ヘリからの部品落下事故があった。同園父母会からの「事故の原因究明及び再発防止・原因究明までの飛行禁止・普天間基地に離発着する米軍のヘリの保育園上の飛行禁止を要望する緊急署名」の要請が、キリスト教保育連盟を通して16日に届き、17日の礼拝後に呼びかけ当教会でも37筆の署名協力を得た。この要請には早速全国の教会や関連団体から計1万2千筆の署名が寄せられ、11日に翁長知事に嘆願書と共に提出されたと報道されていた。 問題は、保育園の事故後13日に普天間第二小学校に落下した米軍ヘリの窓の時もそうなのだが、日本本土からの心無い誹謗中傷する電話が殺到している点である。神谷武宏園長は、彼らは「歴史も知らずに」中傷していると嘆いているが、単に歴史を知らない人々によるヘイトとして済ますわけにはいかない深刻な問題が含まれている事を見逃してはならない。従来からの辺野古の新基地建設工事での度重なる無法 (たとえば、全国から派遣された機動隊による基地反対派の排除)や、県民や名護市民を敵視し様々な圧力をかけ続けている安倍政権。また、作家の百田尚樹に代表されるような、県民運動と県内マスコミへの手段を選ばない誹謗、人権侵害の暴言。ある報道では、そこには日本最大の改憲・右翼団体「日本会議」関係者の動きがあると報告されている。日本社会の権力者と彼らによってコントロールされている政治家や市民たちが、こぞって沖縄県民を日本社会から排除している構造が見えてくる。このような社会からの仕打ちを受けながらも、それに耐え、争っている人々に、あのルカ福音書に登場する「救い主」を拝みに行く「羊飼いたち」の姿がオーバーラップされて見えるのは私だけだろうか。

 

2018.1.7「主の光の中を歩もう」

 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ書2 章4〜5)

これは旧約聖書の預言者イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たものとして力強く宣言したものである。聖書の民が長い歴史の中で苦しみ続けた結果として神の最も望んでおられることを知ったということであり、これ以後この幻は聖書では一貫してイエス・キリストの降誕へと繋がっていくのである。

 新年初頭の祈りは、やはり「平和」の一言に尽きる。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」(憲法9条)

 イザヤの幻が、人類がその長い歴史に学んだ普遍的真理であるとすれば、今日私たちの歴史においても妥当なものである。第二次世界大戦という悲惨な戦争の苦しみを味わい尽くした結果、日本のみならず、世界中が希求した「終末の平和」という幻を、神の意志として受け入れたものであると私は信じるものである。そして、イザヤの幻は「ヤコブの家よ、主の栄光の中を歩もう。」で結ばれている。「主の栄光の光」はクリスマスに輝いている。一人の無力、無欲、何も持たない新生児の姿に輝いたのでなかったか。現日本国憲法の人権思想は、すべての国民のものとして第3章の11条「基本的人権」、13条「個人の尊重」、第14条の「法の下の平等」などに明記され、誰一人としてその命をおろそかにされてはいけないとの普遍的価値観がその底には脈々と流れ「主の栄光の光」に輝いているのである。新しい主の年の幕開けではあるが、この「主の栄光」は暗雲に包まれていると言わざるを得ないだけに、私たち「ヤコブの家の者たち」は、暗雲を取り除く祈りと努力を日々新たにしていこうではないか。

 

2018.1.14「隣人を愛せよ」

最近現カンボジアの独裁政権についてBSのワールドニュースで報道されていた。軍による独裁政権側の閣僚の一人が、我々の求める平和は「人権より経済第一」と言った言葉に対して、NHKの批判的な報道であった。「人権より経済第一主義」を大声でいうこと自体にショックを覚えるが、よく考えてみると我々日本の社会でも同じ状態ではなかと思うのである。

私は元旦早々から身体の調子がおかしく、5日の夜から熱が出て咳き込みがひどくなり、とうとう先週一杯牧師館に閉じ篭っていた。おかげで新聞やテレビづけであったのだが、明るいニュースより非人道的な暗いニュースのほうが圧倒的に多かったことに、喉だけでなく胸がひどく疼く思いであった。その中でも、沖縄における米軍ヘリ事故が相変わらず次から次に起こっていて、沖縄住民切り捨ての現実はその深刻さが増している。また韓国の文大統領の「従軍慰安婦」問題における真の解決のためには「日本が心を込めた謝罪を行い、再び同じことが起きないよう国際社会と共に努力するとき、おばあさんたちは許すことができる」と言っているが、日本人はこれを真摯に受け止めねばならないと思う。私も2015年の「日韓合意」は、当事者ぬきの両政府の都合による解決であって、被害者および、韓国民は「心からの謝罪」とは全く受けとめられるとは思っていなかっただけに、今回は良いチャンスではないかと思う。むしろ率先して記念碑(少女像や記念館)を設置維持すべきではないだろうか。その他日本の内政における、年金問題、労働条件問題、生活保護費問題、等々においても弱者切り捨ての非人道性が懸念されるのであった。

新約聖書の教えの中核は「愛」である。主イエスは、最も重要な掟として「〜主なる神を愛すること」と「〜同じように隣人を愛すること」をあげている(ルカ10:25〜37)。今流行りの「自国第一主義」は、隣の国々を排することに通じるし、自国の民であっても「価値なき者を生み出して」排除する非人道性を有することは、今の米国を見てもそうだし、米国追従主義の日本社会そのものではないだろうか。教会は「隣り人を愛せよ」のスローガンを高々と掲げる時ではないだろうか。

 

2018.1.21「年のはじめに」

先週は出席者が少なく寂しい聖日礼拝であったが、初めてお見えの若いご夫婦が列席されていた。そして彼らの今年の抱負を聞くことが出来た。当教会の新年お茶会で抱負を語り合おうという企てがおじゃんになった事に加え、まだ風邪の影響が残っていて、おまけに当日朝パンを切っていて右手の人差し指の爪の間をスパッと切ってしまったのでその疼きも加わり、冷たく沈んでいた私の心にちょっと暖かさが戻った気分であった。彼らの新年の抱負とは、なんと今年は二人して出来るだけ礼拝出席を心がけるとのことであった。礼拝はマルコ福音書の主イエスの受洗の場面で、同福音書の主要テーマについての話しだったので、その見慣れない若いカップルの顔をみながら、話が分かるかな?と心配しながら話していたので、彼らが教会に初めてではないことを知りホットしたのであった。

年の初めに、福音書の中で一番最初に著された聖書で、しかも主イエスの宣教のはじめのパフォーマンスをヨハネからの受洗をもって始めているマルコの信仰告白は年頭にふさわしいものであるので、軽くここに要点(さわり)を述べさせていだこう。

主イエスが、他のすべての罪人の列に加わり悔い改めの洗礼を受けたのは、そこにインマヌエル神我らと共に居ましたもう神の姿を顕すためであった。共存するということは、一緒にいようとする相手とまったく同じ地平に立つということなのだ。罪人であるならその罪人の罪を、弱さ、貧しさであるなら、ご自分も全く同じ弱さや貧しさを具体的に負うということなのだ。マルコではクリスマス物語は一切ない。主イエスは30歳になって初めて登場するのである。30年間は辺境の地、罪人の地、暗黒の地と言われていたガリラヤ地方の、それまた小さな、なんの特徴もないナザレという村で、畑も持てない、おもに農機具等の修理を請け負う大工として、母マリアと多くの兄弟の面倒を見て来た生涯であったのだ。30年はほぼ一生だ。「救い主」に会いたいと思うなら、自分自身の貧しく弱く、何も誇るものを持たない平々凡々たる、だれからも注目されることもない、そのような自分自身の日常の生活の中で、主は見つけることができるのだ。そのことが「福音」のはじめであるとマルコは証しているのだ。多くという数に囚われ、19名の礼拝出席を寂しがった自分の罪の深さを思い知らされた先週の聖日であった。

 

2018.1.28「壁」

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のようにご自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(マルコ1:9〜11)

この聖書は14日の宣教のテキストであった。話を繰り返すつもりはないが、一点だけ「天が裂けて〜」という下りだけ、どうしてももう一度確認させていただきたい。当日は私がインフルエンザのため、マスクをしてガウンを着て箱入りティッシュを抱えて、咳に襲われながらの宣教であったので、そこまで展開させたかどうか不確だったからである。

主イエスの洗礼は普通の罪人と同列でのものであったのだが、決定的にちがったのは、彼が水の中から上がったときに起こった出来事であった。それは聖書における救済史の決定的瞬間であったからだ。創造主によって造られた人間は神の息を吹き入れられて生きるものとされ、被造物すべてを委ねられたのだが、罪が入り込んで失楽園の憂き目にあった。それ以来、神と人との間には超えがたい溝が出来てしまった。「天が裂けて」とは、その厚い壁が裂けて、超えがたい溝が取り払われたという出来事なのだ。「霊が鳩のように下って」くるのを人々は目撃したばかりでなく、主イエスにおいて神の声を直接聞くことができたのだから決定的出来事なのだ。

「壁の崩壊」といえば、1989年11月9日の「ベルリンの壁崩壊」は記憶に新しいが、神の国と人間世界との間の「壁」の崩壊は、それ以後の人間世界の分断から統一へ、戦争から平和への揺るぎない指針となったのである。闇の世界から光の世界へ、死の世界から命の世界へという道がはっきりと備えられた出来事であったのだ。この新約聖書の使信からすると、パレスチナとの間に壁をつくることや、メキシコの間に壁を造ることがいかに、福音がしめす道に逆らっているか明らかなことであるのだ。

 

2018.2.4「棄民か」

先月末31日の夜、札幌にある自立支援住宅で火災が発生し、48歳から85歳の生活保護を受けていた男女11人が焼死した、という報道が2日の信毎に詳しく述べられていた。“またか” 私の心は凍りつく思いでやりきれなさに包まれた。それは行政の福祉の質の低劣さが露わにされているからであった。生活保護受給者への「自立支援」という名のもとの国の福祉政策の受け皿はほとんど民間の善意による施設で、ギリギリの運営しか出来ない実態が浮き彫りにされている。行政は更に今回の火災の施設側の責任追求に加え、高齢で自炊もできず介護を要する人々への食事の提供をも違法として責任を問おうとしている事も明らかになった。これは明らかに福祉の名の下に棄民政策と成り下がっている行政府の、非人道的姿勢が証明されているのではないかと強く感じたからだ。

それでなくとも安倍政権は、生活保護費受給者の生活扶助費を今年の10月から3年かけて最大5%引き下げる方針を出している。なんと2004年以降の度重なる改定で、70歳以上の単身世帯はすでに生活扶助費が2割以上も引き下げられてきているとの報道もある。まさに棄民政策そのもので、今回の火災による11名の死亡は、その政策の結果と言っても過言ではないと思う。現在国会では衆議院予算委員会での審議の最中だが、その中で、国保加入者の中で非正規雇用労働者や高齢者が増え、保険料負担が出来ない低賃金、低年金者の年金滞納に対して容赦ない差し押さえが行われ、その数が29万8千件(2015年度)に達していることが明らかにされた。一方防衛費は聖域のごとく湯水のように注ぎ込まれていく。米国の迎撃実験で失敗している145億円もする迎撃ミサイル「SM3ブロック2A」の購入を予定している。戦争はあらゆるものの破壊行為であり、領土や資源の強奪行為であり、そのためには他国民のみならず自国民の多大な生命と生活を奪う行為でもある。

先週子どもの聖研はマタイ23章のイエスが、律法学者とファリサイ派の人々とエルサレムへの痛烈な非難をされている場面だったが、我々キリストの教会と信者も、主に非難されないように心すべき時代ではないかと自省させられるのであった。

 

2018.2.11「2.11考」

2月11日を我が国では1966年に「建国記念の日」としたが、我が教団ではこの日を認めず、「信教の自由を守る日」として各地で集会を続けてきている。それは事実上、かつての「紀元節」の復活とみなしたからである。「紀元節」は明治政府が1872年に、天皇制絶対主義の国体形成のために、神話上の神武天皇の即位式の日(根拠なし)を元祖として、現天皇の神格化を計ったものだからだ。それは「富国強兵」政策を進めていくためのものであった。今の2.11は、当時から右傾化政治勢力の布石の大きなステップだったのだ。靖国神社の国家護持法案の再三の失敗から、実をとる戦法として総理や閣僚のヤスクニ参拝、天皇の代替わりの大嘗祭の実施など、すべてはこの国の天皇制の復活と軍国化への一連の大きな流れの中にあることは論をまたないだろう。すでに現政権は、自衛隊の集団的自衛権の行使を容認し、戦争放棄条項である憲法9条を骨抜きにしてきた。天皇に主権を付与し、国民には国家への忠誠を義務化するような憲法改定の構想をもっている事も明白だろう。

私は、「信教の自由を守る日」の最大の意義は、「偶像崇拝」との戦いであると思っている。今の明仁天皇が生前退位を唱えて実現へと漕ぎ着けているが、そこには、前天皇が「現人神」から「人間宣言」したことの内実化への問題提起が含有されていると思っている。その具体的なこととして、天皇の「神格化の払拭」と天皇の「人権」を認めることであると思う。天皇制絶対主義のもとでの軍国家から、主権在民の民主主義のもと、戦争をしないそれまでとは全く違った国家に生まれ変わったのだから、この現憲法の制定の時を「建国記念日」とすべきではないだろうかとかねがねから言ってきている。

しかしながらである。もともと八百万の神々の組長みたいな神話上の架空の神が神武天皇なのだから、そんな「偶像神」と張り合うつもりは毛頭ない。「信教の自由」の侵害(迫害)があったとしても、私たちの神は、唯一の創造神であり、その神は、私たちのイエス・キリストにおいて顕現されている、無力な小さき存在と共生する「愛」の神なのだ。そこにしっかりと立ち続ける決意を新たにする日として、この日を迎えたい。

 

2018.2.18「信仰告白の事態」

先週坂城栄光教会で開催された北信分区社会部主催の2.11集会で、所沢みくに教会員で、憲法学者の稲(いね)正樹先生(1949年生)の「改憲問題と教会・キリスト者」と題した講演を聞いた。先生は14頁にもなるレジュメを用意され、1時間半の大学の講義並の講演であった。礼拝の30分の宣教でも長いと言っている人にとっては地獄のような苦しみを味わったと思うが、私にとってはあっという間に過ぎ去った1時間半であった。それは安倍政権の暴走ぶりが眼に余る昨今の状況の中で、いよいよ憲法の改悪への政治的日程が見え始め、危機感が私の中でも大きく膨らんでいたからだろう。稲氏の講演では「安倍改憲のねらいと問題点」について、特に9条3項に自衛隊を明記するという「加憲」論への反論が多くをしめていたが、最後のまとめで言われたことは、現憲法を守るという姿勢ではなくて、憲法の完全実施を求めて運動を進めてくこと、憲法に違反している現実を、憲法が考えている方向に沿って変革するために戦っていくという姿勢をもっと前に出していくことの必要性でした。そして特に今回はキリスト者の集まりでもある事を踏まえて強調して言われたことは、「信仰告白の事態」ということでした。それは、同盟基督教団の朝岡勝牧師の言葉「主イエスを唯一の救い主と言い表す私たちの信仰告白が脅かされ、揺るがされるような危機的な事態の中で、かえってそのような時だからこそ、自分が何を信じ、何によって生かされているかを明確に告白する決定的な姿勢を表すこと」を引用して語られました。もし自分がそのような「信仰告白の事態」になったらどうするのか。「信仰告白」とは偶像崇拝との戦いであり、その偶像が国家的権力であった場合には、その偶像の前で、�観客席からグランドにおりる。�平和を作る態度を決める。�恐れず、隠れず、沈黙しない。�聖霊の助けを求め、福音を宣べつたえる。それがわたしたちにできることであり、すべきことであるとしめくくられました。「2.11信教の自由を守る日」については、11日の週報の「天声JINGO」で、究めて偶像崇拝の問題であると述べたところであったので、今回の稲講演でその意を強くされた次第であった。

 

2018.2.25「福音のはじめ」

現在私は教団の聖書日課に従って宣教テキストを選んでいる。これは私が16年前(2002年4月)にこの教会に赴任した時からの習慣を踏襲しているのである。私が赴任した時は、主任牧師が望月賢一郎師で、もう一人引退牧師であった父がいて、実質的には牧師三人体制であった。宣教も父と望月師が月一回、専任牧師となった私も宣教と教務すべてを担当したので、3人の牧師の宣教のテーマやテキストが重ならないように、この聖書日課を採用したからだ。

今は去年10月29日から「マルコによる福音書」が続いている。「マルコによる福音書」はローマ人がマルコ(ペテロとパウロに関わりのある人物)に、ペテロの説教を収録して欲しいと要望した事によるもので、最も早くはAD50年代の執筆と推定されている。先週の箇所は1章12〜13節で、イエスが洗礼を受けたすぐあとに、荒れ野でサタンの誘惑を受ける場面であった。マタイとルカの平行記事はドラマチックに描かれているのだが、マルコはごく簡素だ。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」と。会衆の中には、今日の宣教は短いのではと期待した人もいたと思うが、期待した人にはがっかりさせてしまったようだ。この部分は、いよいよイエスの公生涯(宣教活動)の始まる前の叙唱の位置にある。14節でバプテスマのヨハネとバトンタッチして宣教活動を始めるのであるが、何をもってバトンタッチしたかというと、そのことがこの誘惑の場面に凝縮されているのである。つまり旧約聖書全体が凝縮されているのだ。荒れ野での生活は、霊の導きであり、40という数字は、ひとつの時代が過ぎ去る時間であり、人生の長さに匹敵する。「荒れ野」は太古からこの地上の姿であり、人の人生そのものだ。まさに予言者の予言の成就として、野獣と天使の共存する場所で、メシアの時代の始まりの叙唱としてのファンファーレが鳴り響いているのだ。猛獣を退治するのではなく、猛獣を受け入れ共存する道を探るところにのみ「神の国」が近いことを知ることができるという主の言葉を信じて従いたい。

 

2018.3.4「恩師の葬送で」

先週26日の朝、同信伝道会から訃報のメールが入った。このところ毎日のように訃報が入る。今度は誰か? 恐る恐る開いて覗き込む。田井中純作牧師!何故かホットする。94歳と11ヶ月であったからだ。年齢もそうなのだが、あの笑顔で天に凱旋といったイメージが強いお方であったからだ。私が神学校を出てすぐに招いてくれたのが倉敷教会で、田井中純作牧師であった。

1968年の春のことだった。4年間伝道師としてお世話になった。5年目は同市内の琴浦教会に招聘され単身赴任したが、その年の秋に田井中牧師司式により結婚式を挙げた。妻の彩子は倉敷教会付属の竹中幼稚園に勤めていて、やはり並々ならぬお世話になっていた。彼は33年間牧会して引退(1994年4月)、滋賀県の五箇荘に居を構えたが、お連れ合いの寿賀子さんが体調を崩され、その後彦根の長女みこちゃん(美都子さん)の家で最期まで看取られることになった。私はそのころまだ大津教会にいたので、五個荘時代度々伺った。いつもダジャレの連発で笑顔と笑い声は絶えない。私はよく“じんごってる”と言われたほどダジャレを連発してきたが、田井中牧師はその師匠でもある。彼の説教は長くて有名だったが、それも私の師匠かも? 現在私が執り行っている結婚式の司式の仕方も彼が師匠だ。なんといっても倉敷教会で33年間も牧会したということは、倉敷教会の歴史の中では驚異的な数字である。確かに112年間の歴代牧師には名だたる者が並んでいるが、在職期間は概して短いのが特徴的な教会であったからだ。今回の葬式にも、私が在任していたころの青年仲間が20数名集っていたので、さながら同窓会であった。京阪神はもちろん、東京、福島などからも駆けつけた人が多かった。考えてみれば高校生から実業青年まで、実に種々雑多な若者が寝ても覚めても自由に出入りできただけでなく、皆にとって心地よい居場所であったことを思い起こすのであった。

 田井中牧師夫妻は凸凹夫婦であったが、先輩ぶることなく(私よりの20歳先輩)自由に振舞わせてくれた4年間であった。しかしその頃、教団では万博問題や、東京神学大学問題で大荒れの時代でもあった。私にとっても、既存の教会に失望し自信を失いかけていた時でもあった。そんな思いで倉敷の街をさ迷い歩いていた時に、出会った一人の教会員のおばちゃんが一言だけ「先生がんばってね」と。何も打ち明けていないのにと不思議に思った。しかしその一言が今の私につながっているのだと主の不思議な配慮を想起し、感謝に満たされたのが先日の彦根教会へのとんぼ返りの旅であった。

 

2018.3.18「イエスの変身から」

 キリストの教会の教会たる「核心」は神の言葉に「聞き従う」ことであることを、先週の礼拝のテキストから示された。山の上は礼拝する場所であり、そこで主が光り輝く栄光の姿に変身した。イエスの弟子たちは、大いに感激し、それをいつまでも温存すべくエリヤとモーセとイエスのための小屋を建てようと申し出る(マルコ9:2〜5)。だがイエスは弟子たちを促してそこから山を降り始める。降りて行く先は光り輝く山上とは真逆の、暗闇に覆われた下界である。しかし、そこは神が創造し「極めて良かった」ものだ。主はそこで失われていく「命」を回復するためにひたすら降りていくのだ。弟子たちは主の意図を計りかねながらもついていくのであった。彼らはそれからも主を信じきれないばかりか裏切り続けるのであるが、主の十字架と復活に出会って初めて、あの山の上と下の世界が繋がっていることを知り、そこでの至福を得るのであった。使徒パウロも、徹底した反キリストから復活の主の言葉かけに浴し従ったが故に、救われた者の至福を得て、四面楚歌の迫害の只中を生き抜けたのであった。

 神が創造したすべての被造物が傷つき呻いているこの世の姿は、現在の私たちの姿でもある。神の子である主イエスが、そこからこの世へと降りていく姿はまだ続いているのだ。主の弟子として選ばれた「教会」は主の後に従ってこその「教会」ではないだろうか。「最も小さく」された者たちの「命」の回復は、全ての人々の「命」の回復へと繋がっていくのは道理であろう。逆に「最も小さくされた者」が疎かにされる社会は、社会全体が死へと崩れていくのである。

 はたして我々日本における教会はどうであったのだろうか。現在はどうなのか? 最も身近なわたしたち軽井沢追分教会のあるべき姿を祈り求めてくために、新年度からこの点について少し勉強してみることを、2月25日の教会総会の宣教計画案の冒頭で書かせてもらった。「教会」とは、連なる一人一人であることを自覚するためにも欠かせない視点ではないだろうか。

 

2018.3.25「偉くなりたい人は」

極寒の時期は礼拝出席者が少なくなるのはいたしかたないことだ。そこでこの天声JINGOでは、先週の宣教のポイントにひっかけたことを言うように心がけているこの頃である。先週のテキストでは、イエスは弟子たちに「何をしてほしいのか。」と問う。弟子たちは「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もうひとりを左に座らせて下さい。」と答える。彼らは明らかに、イエスの「栄光」をこの世の王権とみていて、イエスの示す「栄光」とは全く噛み合っていない。弟子たちはこれまでさんざんイエスの講義を受けてきたし、イエスと律法学者やファリサイ派の人々とのやりとり、そして数々の奇跡も目の当たりにしてきている。それにもかかわらず彼らにとってはイエスの栄光はこの世の権力の奪取であった。そんな彼らにイエスは「〜偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43〜44)と、上昇志向ではなく下降思考を勧めている。私たちも、この弟子たちと同様に、この世の権力で象徴される何かを与えてくれる救いをイエスに求めてはいだろうか?主イエスが私たちに求めているものは「仕える」者となることなのだ。

森友学園への国有地売却問題が参議院予算委員会で議論されている。政府担当者や担当のお役人などへの厳しい質疑だ。ちょうど財務省の太田充理財局長とのやりとりをテレビで見たが、宮仕えする役人の典型的な姿を見た思いであった。そこには上昇志向ではあっても、宮仕えする者の苦渋の姿も顕だった。イエスは権力を求める弟子たちに、最初「〜私が飲む盃を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」と問うているが、今目の前に「苦い盃」を飲まされ続けている役人の姿を見、そして先日、実際にこのことのために自殺をした役人のことを思うと、彼らが仕えるほど私たちはキリストと人々に「仕える」者であろうかと恥じ入った次第である。しかし、キリストの求める「仕える者」は、接する人々の「信仰を高める」ためであり、単なる奴隷的自己保身の奉仕者ではないことをテキストから教えられたのである。