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天声JINGO アーカイブ

2017年度4月〜

2017.4.2「天の国で一番偉い者」

 

イエスは再々弟子達に自身の受難予告をしているが、それは弟子たちの抱いているメシア像を再三に渡って打ち砕くものであったことは受難節のテキストが示している(マタイ16:23、17:12)。そこでは、弟子達が求めていた「救い」と、神の人への「救い」の間には大きな溝があることがわかる。その溝は、この世が「罪人」としてレッテルを貼った人々をイエスがこの世に引き戻そうとするところに摩擦として現れ、弟子たちを混乱させ、神殿当局者たちはイエスの暗殺計画を練るのである(マタイ26:4)。

イエスが、この世のあり方に挑戦した最たるものは「この世で最も小さい存在を中心にする」ということであろう。「最も小さい者」とイエスが言う場合は、社会にとって無価値と思われる人々、罪人とされている人々、また子どもを指していることは周知のことだろう。さて、目下当教会では3人の受洗希望者があり毎週準備の学びを続けている。中でも2人は小学生である。牧会歴49年の私にとって小学生の受洗指導は初めてだ。私が生涯渡り歩いてきた教会は9箇所であるが、いずれの教会でも小学生の受洗者は記憶にない。ということは「子ども」を決してないがしろにしているのではないけれども、やはり「子ども扱い」であって、ほんとうに天国で一番偉い者の姿としての「子ども」を受け入れていない教会だったのだと気づかされ愕然とする思いである。それは私たちの世界でも同じことではないだろうか。1989年国連で「児童の権利に関する条約」が制定された。当時幼児教育関係機関での勉強会が盛んになされたが、今では尻すぼみ状態だ。特に14条の「宗教の自由」権は、子どもたちの宗教的感性や心の発達を求めるような環境を整えることを保証しているものの、実際に子どもたちが自発的に求めるための、具体的な促進策については書かれておらず、未だに行政も社会もまったく無関心である。むしろそれとは相反する、お上からの押し付けとの批判もある文科省の新しい「教育指導要領」では、道徳教育は愛国心を中心におき、成績まで点数でつけようというのだから、全く「児童の権利に関する条約」の精神とは反していると思う。それだけに今回、当教会における小学生の自発的受洗への意志表示は、教会の姿勢が改められる「天の声」として聴くことができまいか。

 

2017.4.9「受難週の主を想う」

 

先週この欄で、私は今まで一度も小学生の授洗の経験が無いと書いたが、実は17年ぐらい前に前任教会で一人小学5年の女児が居たことが判明し思い出したのだが、受洗準備会でどのような指導をしたかは思い出せないでいる。彼女はもう成人して母親と一緒に教会で無くてはならない存在となっている。私のような年齢になると記憶で物事を書くのは実に危険だということを痛感させられた次第だ。しかし同類の事はこれからも続出だろうから、気づいた方は遠慮なく指摘して欲しい。

「子どもの人権」がいかに軽んじられているかは、最近マスコミでも取り上げている。学校の担任や部活などの指導者の生徒たちへの態度で、こどもたちが「死にたい」とまで追い詰められているような事例があまりにも多いとの報道がある。イエスが問題としている「子ども・これらの小さい存在」というのは、小さい存在の中でも最も小さくされている存在ではないだろうか。3日の信濃毎日新聞の総合面の—憲法ルネサンス11—「冤罪の理不尽 権力の恐ろしさ」で、無期懲役刑に処せられた3人が「獄友」というドキュメンタリー映画の撮影で顔を合わせた時の記事があった。そのうちの一人狭山事件の石川一雄(78歳)さんは私の顔馴染みの方である。神奈川教区時代に何度かお招きしたことがある。彼は最初から被差別部落民ということで逮捕され、警察の甘言を信じさせられ、数々の証拠をでっち上げられ、死刑判決まで受けて仮釈放されるまで37年7ケ月獄中に置かれた人だ。

被差別部落民は、穢多とか非人と呼ばれ人間扱いされなかった時代が長く、今日でもその影響は色濃く残っている。イエスが「これらの小さい者」といわれて愛された人々はこのような人々であったのだと思う。

十字架への道を歩まれているイエスを遠巻きにしてしか見られないイエスの弟子たちの姿は、今の我々の姿でもあると深く自覚したい。

 

2017.4.16「イースター」

 

イースターおめでとう。最近巷ではイースター・セールなどと「イースター」が売れ始めていることは結構なことだが、イースターの本意を知ってもらうために教会は何が出来るかが課題となると思う。我々が主の「復活のいのち」に預かるということは、具体的にはどういうことなのか改めて考えさせられる。それを考える時に最近の憂うる世相の一つから考えたい。

それは、3.11の原発震災による被災者、特に被災児童たちへのいじめ問題である。「放射能が付くから近づくな」「おまえらのせいで原発が爆発した」などと言われたという事例や、横浜市の小学校で、受け持ちの教師から避難児童が「菌」と言われて登校拒否にとの報道もあった。子どもたちだけでなく一般にも誤解や無理解からとんでもない偏見差別が生まれている。心ない政治家や大人たちが、厄介な存在を切り捨てようとしている姿勢が『小さい存在のいのち』を否定することにつながっている」とは、12日の信濃毎日新聞の社説である。私はこの社説を読んで、この切り捨てられていく「小さい存在」の立場からイースターを受け止めるなら、この世が厄介な存在として切り捨てようとしている「小さな存在」を受け入れる新しい「いのち」の世界を「小さい存在」と共に生きるということではないかと思った。 何故なら復活の主が、小さい存在を生みだし、切り捨てる悪の最終的切り札である「死の力」を飲み込んで打ち砕き、「復活のいのち」への道を敷いて下さったからだ。「復活のいのち」の世界は神の国でのいのちである。この世に生かされながら、神の国のいのちの現実に預かることができるのだ。英語で復活日を「イースター」というが、イーストは東である。一説ではあるが、東は太陽の昇る方向だ。クリスマスには東方から3人の学者が家畜小屋の嬰児をメシアとして礼拝しに来ている。イースターにはイースター・エッグが付き物であるが、共に「新しいいのち」を象徴していることは確かだ。主の復活ハレルヤと心からの喜びをもって小さい存在とイースターを祝い続けたい。

 

2017.4.23「子どもを受け入れる社会に」

 

今回のイースター礼拝は実に恵まれた礼拝であったと思う。小学生2名と高校生1名の洗礼と1名の準会員の受入式があったからだ。参列者の皆さんは子どもたちの所信表明に感動を示していた。私も同感である。実は彼らに前もって文章を書いて提出してもらっていた。それは添削するつもりだったからだ。でもほとんどオリジナルのままで済んだ。子どもたちはそれなりに作文に苦労したようだが、それにしても実に率直に、そしてみごとに気持ちと思いをまとめあげていると思ったからだ。主イエスが「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14)で人々を窘めている理由がわかったような気がする。この子どもたちに、この社会が何故原発推進やあくなき軍拡競争に莫大な経費をかけ推進するのか、純真な彼らに私は説明出来ないのである。一旦事故が起ったり、戦争ともなれば、町ごと破壊され、多くの難民が生まれ、多くの子どもたちをはじめ一般民間人が傷ついたり死んだり、飢えたりする様子を、彼らはテレビを通して目の当たりにするだろう。そこにどうやって平和への希望を見出せるのだろうか。大人でもそうではないだろうか。 今月10日に「沖縄・福島・軽井沢連帯春を迎える集い」に参加した。沖縄国際大学名誉教授鎌田隆さんは、在沖米軍沖縄基地への圧倒的な県民のNO!に全く耳を貸さず、県政を無視して辺野古基地建設を強行する民主主義と法を無視する現政権への怒りをとつとつした口調で語られた。また福島県年金者組合の後藤勝彦さんは、今なお放射能被害が拡大している現実を多くの資料をもちいて語られた。そして両者とも、沖縄県民や、原発被災者たちの民主勢力がまとまりを見せてきたことの意義と希望を語られていた。軽井沢でもオスプレイの不気味な羽音が響くようになったし、放射線量も減っていないとのこと。子どものように率直に、そして何よりも子どものような素直さで物事を受け止めよとの主の声をそこに聞いたような気がした。

 

2017.4.30「下から目線の神様」

 

25日に発地市庭会議室で開催された、金沢市在住の水野スウさんの優しい憲法の話を聞きに行った。彼女は憲法と同じ70歳だが、35年間自宅で「紅茶の時間」を主宰し続けてきた方だ。最初は子育て談義みたいなかたちで始めて盛況だったそうだが、やがて人生に疲れたような方々が多く集うようになったとのこと。彼女の想いは一人の人間の価値、とりわけ弱っている人、何かに傷ついている人々に寄り添い共に元気が与えられていくことを目指してきたというそういう趣旨の「紅茶の時間」というお茶会だった。そこには「下からの目線」という姿勢のかけがえのなさが、現行憲法の13条の「基本的人権の尊重」に明記され、9条の「戦争放棄」の根拠になっていると説かれていた。まさに聖書の説く主イエスの教説と業を見ているような思いであった。今私たちが読んでいる先週の聖書を学ぶ会での第3イザヤ書57章14以下でも「低きに降る神」の強調がなされていて、そこに神が「唇の実りを創造」(57:19)してくださるのだと。つまり打ち砕かれた魂に、神を賛美する喜びの唇があたえられるとの力強いメッセージを聴いたのだった。

しかるに最近、特に安倍政権内の閣僚たちの発言(暴言)には唖然とさせられている。ある新聞には問題発言をした6名の閣僚の顔写真がリストアップされている。そこには単なる失言などというものではなく、嘘や差別発言、自己弁護、それらを上塗りするような擁護発言など羅列されていた。特に辞任に追い込まれた全復興相の原発事故での自主避難者は自己責任で生きろとか、事故が東北でよかったという発言はいくら謝っても、辞任しても根強い本音が、彼のみならず多くの現保守系代議士たちに潜んでいることは容易に察することができる。また米軍辺野古への巨大軍事基地建設の法を無視した政府の強行姿勢は、明らかに現行憲法を無視し犯す「上から目線」の権力者の驕り昂ぶりである。私も時々おまえは「上から目線」といってお叱りを受けることがあるので他人事ではない。心して御言葉に学びたい。

 

2017.5.14「心騒ぐ今日この頃」

 

最近、どうも動機が皆目分からない殺人事件が多いように思える。直近では松戸市での小3女児の殺害事件である。なんと同小学校の元保護者会長が犯人とのこと。今では犯罪捜査は欠かすことの出来ないほど市民権を得て活躍しているのが「防犯カメラ」であろう。凶悪な刑事事件になるような犯罪捜査には大いに役立って欲しいと思うが・・・。今、安倍総理が無理やり国会で通そうとしているのが悪名高い「共謀罪」である。国会での法務大臣の答弁は「一般人を対象にしたものではない」という言葉をくり返すだけで一向に要領を得ない。このまま強行採決されたらと思うとぞっとする。昨年発覚した大分警察署の盗聴事件は、この「共謀罪」の先取りをしたものであると報道されていた。なぜならそこでは憲法の保障している「基本的人権」(11条)が侵されているからである。「基本的人権」はいうまでもなく、人一人の存在とその内面を最優先にして大切にすることである。それは聖書の人間観を充分に満たしているから、キリスト教会はそれが侵されることに特に敏感でなければならないと信じる。しかし国会で安倍総理は、この「基本的人権」を実現するために戦争の放棄を高らかに詠った憲法9条を、骨抜きにする戦争法案(集団的自衛権等)をすでに強行採決した。そして今度は9条の�項�項は残した上で�項に自衛隊の存在を足して3年後には改憲すると言い出す始末である。数年前の憲法審査会で、自民党推薦の参考人のほとんどが集団的自衛権は違憲だと結論付けた話は有名だが、おかまいなしの総理と政府である。 北朝鮮からの日本へのミサイル攻撃への不安に煽られて、軽井沢町と安中市が碓氷峠の旧トンネルを避難場所にする協議を始めたらしい、いろいろと心騒がされる社会情勢である。

主イエスの受難への予告に接して不安にかられる弟子たちに主は、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と励ましている。安易に煽られる不安に付和雷同しないように注意せねばと思う。

 

2017.5.21「オル友増える」

 

4月23日(日)夜のEテレの番組「クラシック音楽館」で、鈴木雅明のドイツ・オルガン紀行の放映があったので2時間たっぷりと見入った。

フライベルグ大聖堂のジルバーマン製作のフランス風のオルガンは400年前のバッハの時代からのもので、他のアルテンブルグ、ナウムブルグのオルガンなどの古楽器も紹介しつつ、バッハのオルガン曲14曲を弾きながらの話に引きずり込まれてしまった。途中からだったので録画できず残念であった。それにしても400年間、現在までその響きを保っているパイプオルガンとはなんと素晴らしい楽器なのだろうと改めて感じさせられた。

先週我が教会のライルオルガンの3年間で2回に分けた解体整備が終わったばかりだ。本日はそのリニューアルされた響が我が教会ホープの木村協子姉によって披露されることになった。このオルガンは故守臣師が、ライル社にバッハを一番表現できるものをと注文したものであると聞いている。制作から25年目である。約4,000万円だったそうだが、オーバーホールの経費約400万円は2度に分けねば調達できなかった。パイプオルガンは恒久的なものだから最初は高価に見えるが、長い目で見れば格安であるとよく言われているが、なかなか経費のかかる代物にはちがいないことを思い知らされたのである。ヨーロッパの歴史的、文化的スケールとは比べものにはならないが、日本の教会ではやはり荷が重く感じられるのはいたし方ないかもしれない。だが、我が教会のライルオルガンがもし75年後にも健在であるとしたら、その時こそ日本の教会にとってパイプオルガンがかけがえのない宣教のパートナーであるという市民権を得ることができるのかなと想像にふけるのであった。

今回東京調布市にある仙川教会にもライルオルガンが設置された。6月18日の会堂献堂式とオルガン奉献式のご案内と、今後もよろしくとの大串肇牧師の一筆があった。増えゆく「オル友」として共に「主の名を賛美する」教会の使命を息長く果たしていくスクラムに厚みが加わったと思うのであった。

 

2017.5.28「賛美の原動力」

 

毎週金曜日午後定期的に聖書を学ぶ会が継続されている。今年になってから参加者が増え担当する私もやりがいが増すのだが、それにしても学べば学ぶほど聖書は生きた神の言葉であることを認めざるを得ない。先々週はイザヤ書59章であった。イスラエルの民がバビロン捕囚から解放された後も真の救いが実現しないことへの焦燥感と、横行する社会的不正が時代的背景である。今の私たちも何か困難に見舞われると神がどこかに行ってしまったように思ったことはないだろうか。また社会的不安が増すほど「正義の神」の無力を嘆くことはないだろうか。予言者は、神の救いが遠のいている責任は決して神にあるのではない、我々人間の罪が、神の正義や恵の業の行使を妨げているのだと言い、その実態をあますとこなく暴いている。3節〜4節で「おまえたちの手は血で、指は悪によって汚れ 唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り、労苦をはらみ、災いを産む。」と。

折しもその日昼のニュースは、国会の衆議院法務委員会であの「共謀罪」法案の与党による一方的な強行採決であった。権力者の不正や権益のための嘘や真実隠しを、数の論理で押し通すやり方を暴いている聖書の言葉は、そのまま現代の私たちへの生きた言葉として突き刺さってくる思いであった。

しかも聖書の神の言葉は深い。16節では「主は〜執り成す人がいないのを驚かれた」とご自分の民の不信仰と体たらくを嘆かれている。今の自分たちはどうなのだろうか。主は民の罪を指摘し嘆くだけではない。16節後半では主ご自身が直接介入されることが力強く予言されている。その予言は主イエスによって成就された。その恵の業に預かっているキリスト者の群れである教会が「執り成す者」として召されていることを強く促される。主を賛美する教会は、復活の主と共にこの世を執り成すことによって湧き出る喜びに満たされるからであると思う。

 

2017.6.4「山口キリスト教の旅報告1」

 

先週「山口キリスト教の旅」に参加してきた。団長が三浦修牧師で、旅行社は聖地旅行などでお馴染みのトラベルプラン、随行員はヘブル語の達人吉見崇一さんであった。ツアー成立のための人数確保のため最初から参加を当てにされていた私であったが、オルガンのオーバーホールの日程が間際まで定まらなかったので、参加は危うかった。幸いにもそちらが20日までになったことと、ひどかった風邪喘息もなんとか収まりぎりぎりで参加できた。

三浦牧師は、私の一年先輩である。お連れ合いの病気のために去年引退し、光島洋子姉と同じ新生会に入居されている。6月18日の聖日には当教会で、私の留守中の宣教をしていただくことになっている。彼は萩出身であり、また同ツアー2回目であることから、さすがに一般のコースにはない見所が満載で、特にキリシタン殉教の場所を多くの案内してくれた。

私が今回参加した理由の一つは、私が駆け出しの頃(1968年から)倉敷から11年間何度も山口市の地方裁判所に足を運んだことがあったのだが、観光は一つもしていなかったからである。その裁判とは、一つ目は「仁保事件」だ。仁保村での一家6人殺しで死刑が確定した被告の無罪を信じ、救援のための再審闘争をしていた当時山口親愛教会林健二牧師の支援のためであった。結果は無罪を勝ち取る事ができた。それに続いて二つ目は、同教会員中谷康子さんの夫の「殉職自衛官護国神社合祀拒否訴訟」の支援であった。1970年代は学園闘争の最中、キリスト教会でも教会改革への若い力からの問いかけの時代でもあった。私も既成教会の可能性に疑問をもち悶々としていたこともあって、一人の冤罪による死刑囚の救出のためにすべてを投げ打って尽くされていた林健二牧師に接して、これからの教会の展望に光を見出したといっても過言ではなく、今日に至る私の牧師としての出発点に導かれたと思っている。この話を二日目の朝の出発前の礼拝で、参加者の方々にさせてもらった次第である。

 

2017.6.18「山口キリスト教の旅報告2」

 

いろいろ行事が入って4日の報告�から時間が経ってしまったが続けさせてもらう。このツアーへの参加者は全国から19名。西日本方面から8名、東日本方面から11名。去年の欧州の旅参加者も私と添乗員の吉見さんを入れて6名。東日本からの参加者は羽田空港から山口宇部空港へ直行して現地で関西組と合流。宇部空港のエントランスはまるで薔薇園、甘い香りと彩りで歓迎され気分上々。4日間サンデン観光バスの貸切バスで回った。ガイドは数年前の第一回目のツアーでお世話になった坂田嬢。クリスチャンではないがキリシタン関係のガイドに滅法強いお方だ。

最初の見学は「ザビエル記念公園」とザビエル記念聖堂。ザビエルは布教の場を求めて1551年に2度目の来日をし、政情の安定していた山口を訪れ、大内義隆に布教の許しを求めた。大内は許可するとともに、ザビエルの住まいとして廃寺であった大道寺を与えた。1889年フランス人のピリオン神父が大道寺の跡地を探求し、現在の公園の地をその地と確信して、有志によびかけて購入したものだそうだ。

なんとザビエルはここでの2ヶ月間の布教で、500名の信者を得たという。彼はその時点で一緒にきたトルレス神父に後をまかせて、豊後に赴いて2度と山口には来なかったそうだ。 戦国の時代にわずか2ヶ月で500名が信者となったというのはどういうことなのかと思い巡らしながらの旅となった。わたしは今まで、大名がキリシタンになれば、一族郎党はもとより、領民もキリシタンに余儀なく改宗させられたのかと思っていたが、必ずしもそうではないようだ。時代は戦国時代、覇権争いによる悲惨さの渦巻くなかで、人々の「永世の世界へのあこがれ」がどんなに今を生き抜く力となったか、転ぶことなど毛頭もなく殉教していったキリシタンの歴史がそのことを確かに証言しているようだった。

それにしてもあの使徒パウロをうわまるほどの世界宣教を短期間でなしたザビエルという人の偉大さを肌で感じた旅の始めであった。

 

2017.6.25「山口キリスト教の旅報告3」

 

先聖日は倉敷市児島地区にある琴浦教会創立65周年記念礼拝に呼ばれて行った。同教会は私の主任牧師として招聘された初陣教会だ。教会創立時には高校生であったメンバーのほとんどがご健在で、そのまま教会を背負ってこられてきた。私が離任してからの38年間のギャップがいきなりつながったような不思議な感覚であった。一方駆けつけてくれた彼らの子供達は、当時小学生だったしんちゃんがもう52歳だとか、妹のみきちゃんにも大学生の息子さんがおられた。そんな姿をみると、やがて近い将来去りゆく者の心境が透けて見えてくる。彼らの両親世代は私よりみな年上、教会の行く末に不安をずいぶんお持ちのようであったが、彼らは児島の地に生まれ育った人ばかり、あるいは結婚して移入された方もそこにどっしりと根付いておられる。そんな姿に接してみて思ったのは、65年という年月はキリスト教2,000年の歴史の中では産声をあげたばかりではないか、ザビエルのキリシタン時代から数えたら456年だが、教会としてはかなりの断絶があるので遡れない。明治に鎖国令が解かれて最初に設立されたカトリッック教会は横浜の聖心教会(後の山手教会)で、設立が1862年なので155年、プロテスタント教会の最初は横浜海岸通教会で設立は1872年なので145年である。それにしてもまだ人間の成長過程になぞらえるとよちよち歩きの時代だと思う。だから後世のことは心配せずに、幼児のように、今を喜び楽しみ、感謝と賛美の日々を送ったらよろしいというようなことを言って励ましたのだが、実は私自身がこの教会によって育てられたのであり、今回も大いに励まされたのであった。そこで生まれ育ち一生そこで生きる方々が、あの独特な児島弁をポンポン発しながら語り合っている姿の中には、確かに聖霊(神の息)によって生かされている者の喜びと感謝による賛美の声がこだましていた。そのような余韻にひたりながら帰路についたのであった。

山口の旅報告が岡山の旅報告になってしまい申しわけない。次回はなんとか繋げたいと思う。

 

2017.7.2「山口キリスト教の旅報告4」

 

5月23日(火)新山口駅前で西日本からの参加者と合流した総勢19名は、ザビエル記念公園、ザビエル聖堂、常栄寺・雪舟公園、瑠璃光寺五重塔と巡った。ザビエル聖堂は文字通りのザビエル渡来の記念館であり、キリシタン迫害の歴史博物館でもあった。初代の記念聖堂はスペインのナバーラ州近郊にあるザビエル城を模して1952年に建立されたもので、私も倉敷時代に一度前を通って見たことがある。その聖堂は1991年に焼失し現在の聖堂は1998年に再建されたものだが、デザインは一変して神の幕屋をイメージした超現代的なものであった。二本の高い尖塔があるがそれはザビエルのみならず神との強い絆を象徴するとの説明であった。地階は全部キリシタン関係の展示場。その中でも隠れキリシタンの里「紫福(しぶき)」という展示に目を惹かれた。そこは萩市にあり3日目に訪れた場所である。16世紀後半大内義隆の頃、山口にはザビエルによって多くの信者がいたが、1557年になり彼が去った後、毛利元就によるキリシタン弾圧が始まり、仁保村から数百人の信者が紫福に移住して難を逃れた。その人達の独特の墓碑が残っている場所なのだが、「紫福」の名の由来は、この地の住民が背後の鍋山を「至福の山」と呼んでいたから、「しふく」から「しぶき」となったのではないかとの説もあるそうだ。「至福」といえば、同志社大学の神学生であった私は、ドイツ語の授業でSeligkeitをキリスト教ではどう訳すか?と、京大からの講師に聞かれたことがある。私はとっさに「至福」?と答えたことを覚えているのだが、もし「至福」という言葉に当時もキリスト教臭さがあったのなら、隠れキリシタンがそれをもじって「紫福(しぶく)」と言って、天国に通じる聖なる場所としたのではないか、などと想像しながらの見物だった。ここは1999年に整備され、道路には「キリシタン至福の里」と看板が出ているが駐車場はなく、そこから狭い山道に入っていかねばならず、今でも訪れる人は稀なようだ。添乗員の吉見さんがこだわって組み入れた場所だけのことはあった。

 

2017.7.19「山口キリスト教の旅報告5」

 

山口キリスト教の旅報告を続ける。山口市内の見学の後市内のホテルに宿泊。2日目午前中は澤山保羅宅、服部章蔵宅、成瀬公園、秋芳洞の見学をした。澤山保羅(ポウロ)については是非詳しく報告したい。何故なら彼は日本人で最初の牧師であり、会衆派の伝統的信仰をもつ私たちの教会のルーツに繋がっているからだ。澤山保羅は、1854年にこの地で生まれ馬之助と命名された。彼は吉敷の憲章館で漢学、三原・今治で陽明学を学んだが、英学に転じキリシタンの禁教下、神戸に出て宣教師グリーンに英語と聖書を学んだ。1873年アメリカに留学、在米中に日本と日本人を救うものはキリスト教以外にないと決意し、神学を学び、使徒パウロを敬愛し、名を保羅と改めた。5年後に帰国し、日本で最初の牧師となり、大阪で浪花教会を設立、1878年同郷の成瀬仁蔵らとともに梅花女学校を設立、女子高等教育の端緒を開いた。1887年34歳で没したが、新島襄、押川方義とともに近代日本キリスト教の三傑という(以上澤山保羅の家跡の看板より抜粋)。

次に成瀬仁蔵(1858〜1919)である。彼は澤山と同郷で日本初の女子総合大学である日本女子大を創設した。NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」に登場したことで、目下古里を売り出す絶好の機会と吉敷地域の活性化が検討されているようだ。彼は毛利家で右筆役であった成瀬小左衛門の長男として生まれ、維新後の1876 年小学校の教員をしていたが、帰国した澤山保羅に出会って共感しキリスト教徒となった。当初は梅花で澤山を手伝っていたが、1890年に米国に渡り女子教育を学び6年後に東京目白に日本女子大学を創設した。「あさが来た」に成瀬が登場することを受け成瀬の伝記を書いた平和生さんは、関西の女傑といわれた主人公のモデル広岡浅子は、成瀬なしにはありえなかったし、彼女は晩年洗礼を受けたと述べている。彼らは日本と日本人の救いのためにキリスト教により頼み女子教育に邁進したが、現在日本では都民ファとか日本ファがもてはやされているが、果たして澤山や成瀬の思いはいかに?

 

2017.7.23「山口キリスト教の旅報告6」

 

 先週澤山保羅について報告した中で、彼は日本で最初の牧師となったと述べたが、現地でのそのような説明を聞きながら、私の脳裏に浮かんだのは、奥野昌綱が日本で最初の牧師ではなかったかであった。今回少し調べてみたところ、澤山は1877年1月に受按。奥野は1877年10月に他に2名と共に受按であったので、やはり日本で最初は澤山で正解だった。奥野はヘボンやバラの影響を受け横浜バンドの一員となり、ヘボンの日本語指南もつとめ、日本基督一致教会の麹町(高輪)教会の初代牧師となったのだが、何故私が奥野のことが脳裏にあったかというと、私が1979年〜1989年まで務めた群馬県藤岡市にある緑野(みどの)教会に、奥野80歳の時に書いた大きな額があったからである。それは「滎雲充堂」という堂々とした書であった。緑野教会の会堂新築に当たって、埃にまみれていた同額を表装し直して、新しい会堂の右前の板壁に掛けて現在に至っているからである。この記事を書くに当たって同教会の現任藤田基道牧師に電話で確認したのだが、未だにその額がどうして組合教会だった緑野教会(1889年立)にあるのかその由来については不明だそうだ。いづれにしてもこの時代に日本中で堰を切ったようにキリスト教献身者が続出し、教会が次々と出来ていった時代とその社会の熱い息遣いが伝わってくるのであった。

 先週は澤山保羅と成瀬仁蔵を紹介したが、もう一人服部章蔵(1848〜1916)宅を訪ねた。彼も吉敷の生まれで、藩校憲章館に学ぶが、上京して米国長老派宣教師D.タムソンの塾に学び、授洗。後にタムソン塾が東京一致神学校に発展解消し、服部は在籍中に日本基督一致教会の牧師となる(1882年)。女子教育を目指し山口光塩英学校を創設。後に広島の広陵女学校と合併して山口英和女学校となり、さらに長崎の梅香女学校と合併し、下関で梅光女学院として開設、現在に至る。(以上随行員吉見資料から)

 先週18日早朝に日野原重明さんが105歳で逝去された。彼は教団の玉川平安教会員だが、宣教者としてとくに子育てへの伝道心に燃えていた。彼も山口出身と聞いて山口の底力を思わされた。

 

2017.9.3「山口キリスト教の旅報告 最終回」

 

 29日早朝警戒警報なるものが、初めていきなり出されて北海道から長野の広範囲に避難が呼びかけられたが、まるで戦時中の空襲警報である。北朝鮮の振る舞いは非難されるべきであろうが、これに乗じて、軍備や戦時体制強化を拡大していく政府の在り方に戦慄を覚えた。警報から1時間にわたるミサイル報道を、明らかに政府が仕組んだ「やらせ」と思った人は大勢いたようだ。それに煽られて一層北朝鮮に恐れをなし、憎しみを増幅させていく人々が増えていくとしたら、日本社会の暗黒時代の再現はそう遠くないと不安は募るばかりだ。

 さて、今回より天声JINGO再開だが、私の山口キリスト教の旅の報告は7回目となる。4日間の旅のまだ二日目だが今回で終わらせていただく。二日目は続いて秋芳洞見学、昼食後に童謡詩人金子みすず記念館(長門市仙崎)を見学し一路萩へ。三日目予定はキリシタン殉教者記念公園、東光寺、松下村塾、萩博物館だが、ここでは萩カトリック萩教会の司祭の説明、実際に巡ってみた至福の里などが強く印象に残った。ザビエルの布教で多くの信者が生まれ山口には日本で最初の教会堂が建てられたが、毛利時代の吉利支丹禁制政策(1602)により、山口を追放された宣教師たちは、現在の福栄村紫福に滞在し、布教活動を行い、多数の信者たちがこの地に移り住んでいたと言われている。明治元年にも再び起こったキリスト教信者への迫害により、浦上四番崩れといわれている長崎の浦上村の信者3,000人以上が流罪となり、このうち萩に298人、津和野に153人が送られた。萩では岩国屋敷、津和野では乙女峠の光琳寺に収容された信者たちへ改宗が強要され、飢えや拷問により80人近くが殉教したという。多くの改宗しなかった信者たちもこの地でひっそりと暮らし、萩・津和野には彼らの墓などの遺物が多く発見され残されている。

 これらの遺跡を見学して、それ以後の日本の軍国主義国家体制の中で起こった宗教弾圧の歴史を想起せざるを得なかったし、冒頭で述べた現況下では、キリシタン時代と同じように信仰が試されるのかも知れない。

 

2017.9.10「ユビラーテ」

 

 先月22日〜24日に「ユビラーテ奏楽者の会軽井沢研修会」が開催された。私は父が召されてから合唱参加をしている。ところが今回、この研修会がこの場所にこだわっているというか惹かれてやまない理由がはっきりとしたので、そのことを今年の研修会報告という形で話させてもらう。

 まず「ユビラーテ」という会の名称は、これはラテン語で「喜べ、踊れ」といった意味で、イザヤ書35:1「荒れ野よ、荒地よ、喜び踊れ」や詩編96:11の「天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ」に由来していて、これは礼拝者の姿勢でもあり素晴らしいネーミングだと思う。今年の研修会のテーマは「キリエ、永遠の父なる神」。主宰者木田みな子姉は、テーマについて事前にお手紙で、「現代の日本と世界、又自然界の危機的な嘆かわしい状況を慮ったもので、創造主への叫びなのです。」と述べておられた。このテーマに沿って、15名の奏楽者は選曲し練習を重ね、合唱も選曲されて21名の合唱参加者は特訓を受け最後の日の「賛美礼拝」へと盛り上げて行った。合唱を指導された細川祐介氏が、賛美礼拝を終えたその場で感涙にむせばれた姿が印象的であった。それはすべての参加者の「満たされた思い」でもあったと思う。散会に際し、特に初めての参加者から「この追分教会の置かれている環境に3日間身を置き、他の場所で感じたことのない不思議な感動があったと」いう趣旨の発言が多くあり、一同もそれに頷いていた。最後に私に発言が求められ、咄嗟に故守臣師が軽井沢の辺境の地と言われていたこの追分という場所を選んだ時のいきさつを思い起こし、話をさせてもらった。簡単に言うと、彼がここで感じ取った「風」に引きつけられたという話だ。まるで復活の主が弟子たちを辺境の地ガリラヤで待っていたという、マルコとマタイ福音書の記事がオーバーラップされる出来事だと私は思っていたからだ。ヘブル語で「風」は「ルーアッハ」で、「神の息」「聖霊」を意味する。そしてそれがパイプオルガンに通じると話したところ、「不思議な感じ」を受けたと述べられた参加者たちは、それでその理由が分かったような気がするとおっしゃっていた。いつもここに居る私たちは慣れっこになってしまい不感症になっているとしたら、まことに主に申し訳ないと思う次第である。そのような場所だからこそこの教会の創設早々から今まで、木田みな子師が使い続けてこられた理由があるのだ。そのことが今になって分かったような気がした夏の出来事であった。