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天声JINGO アーカイブ

2015年度4月〜

2015.4.5「イースター」

 主の復活の場面、ヨハネ福音書の物語は劇的で感動的だ。昔、牧師の集いで行った、この場面のロールプレイを今でも思い出す。登場人物は、マグダラのマリア、ペテロともう一人の弟子、それに復活した主イエスだ。特にマリアと主とのやりとり、ロールプレイは役になりきることが肝要なのだ。男性牧師がマリア役を演じることにより、復活の主との出会いをより理解できるのだ。

 マリアと主とのやりとりの場面で、マリアは最初、彼女の聴いた声が主の声だとは気づかなかった。しかし主が3度目に「マリアよ」と名前で呼びかけられた時に、彼女はやっと気づき「ラボニ」と叫ぶくだりは圧巻である。

 私も同じような経験をしたことがある。高校3年生の夏、東日本高校生献身キャンプでのことだった。このキャンプは、今でも続いている旧組合教会(会衆派)の同信伝道会が主催するもので、直接的、間接的に伝道する若者の育成を目的としている。当時は盛んに行われていたのだ。

 それは妙高高原池の平での、早朝メディテーションの時であった。朝霧のたちこめる中、霧のかなたの天を見上げて、一人で祈っていた。高校3年の夏である。自分のこれからの進路について「ああでもない、こうでもない」と、まるで雲をつかむような思いであった。そんな時に「壬午、あなたは神学校へ行きなさい」と、天からの声を聞いた気がした。その声を聞いたとたんに、一切の迷いが消し飛んで、気持ちがすっとした。

 しかし、その後、事はすんなり進んだわけではなかった。第一に神学校受験については、担任からも「やめとけ、やめとけ」と一笑に付されてしまったくらい実力が伴っていなかったのだ。受験も散々であったが、それでも神学校は受入れてくれた。その後も卒業の時に迷い、伝道師時代に迷った。その度に、あの妙高高原での主の声は、自分を支えてくれたのだ。そして今、はっきりと「あの時確かに復活の主と出会ったのだ」と、思う今年のイースターである。

 

2015.4.12「アーモンドの枝」

 金曜日の定期集会「聖書を学ぶ会」では、次週の礼拝で歌う讃美歌を歌い(練習)、主の祈りを唱え、今は旧約の出エジプト記を一章ずつ輪読してから、その章のキーポイントを私が解説して祈り、終えている。先週は37章だった。出エジプト記は40章までなので、もう最後の部分なのだが実に面白くない部分だ。それは神殿と付随する神具一つ一つの設計図の説明で、あまりにも細部に至るものだからだ。37章は、掟の箱、購いの座、燭台、香をたく祭壇の作り方についてである。私はどう解説してよいのか戸惑ったのだが、その中で燭台の七本のローソクを立てる支柱に「アーモンドの形をした萼と節と花弁を付け」(19)とある言葉に注目した。それは、預言者エレミヤが召命を受けた時の、主とのやりとりの中にアーモンドの枝が登場していることを思い出したからだ。

 エレミヤ記1:11〜12に、「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が目えるか。』わたしは答えた。『アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。』主はわたしに言われた。『あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。』」とあるくだりだ。アーモンドは、冬枯れの中でいち早く芽を出し、つぼみをつけ花を咲かせるので、日本でいえば梅の木のようなものだろう。エレミヤは神の言葉など忘れ去られたような現実の中で、今も生き続けて見張っている神の姿を見、人が聞かなくなった神の言葉を聞き、勇気を持って人々に語るために召された預言者なのだ。礼拝のときに灯される燭台にアーモンドがデザインされているのは、まさに、礼拝者がそれを常に見ることによって、己の使命を忘れずに、その本分を全うするためのものだったのだ。

 こ預言者的使命は、今日、私たち教会が担っているのであり、アーモンドの枝は、今日主イエスの十字架に完結しているのだ。世の人々には、見えない神とその言葉を告げ知らせ、聴いてもらう事は容易ではない。しかし、それを全うするべく教会は、礼拝へと招かれて居るというメッセージをここに聴いた次第である。主の十字架を見上げる時、冬枯れのような現代社会に、どのような神の言葉を取り次ぐことが出来るのか、心したい。

 

2015.4.19「神のアーメン」

 「人権の尊重」は民主社会にとっては当たり前の理念となっているし、憲法にも銘記され、それに基づいてあらゆる法律が組み立てられている。特に「憲法」での規定は、為政者たちへの縛りであることは誰しもが認識していることであろう。しかし為政者たちはしばしば、「国民は権利、権利!とばかり主張し、義務を忘れている」と言ってうそぶいている。私が何故そんなことを言うかというと、私が牧師として政治や社会の問題に言及することの動機についてはっきりとさせておきたいからだ。生きとし生けるものの「いのち」を脅かし軽んじるものに対して、キリストの教会は祭司的働きばかりでなく、預言者的働き、王的働きを全うするためにあると信じているからである。聖書の神は神殿(教会)に閉じ込められてしまうような偏狭なお方ではない。自由に何処でも顕われ働かれるお方である。事実私も「教会」以外でこの神の言葉を聞くことが多い。しかし、それが神の言葉であるかどうかをどうやって見極めることが出来るのか、という疑問をみなさんはお持ちだろう。神の言葉の見極め方の一番確かな方法は、人の「いのち」が問題視されるこの世のあり方に目を向けることだと思う。そこに神の言葉は充満していると感じている。特に小さく弱い「いのち」が尊重されるようなこの世の働きや人々の思いには神の言葉、「アーメン」が聞こえる。逆に「いのち」が粗末にされる局面では、神の嘆き、悲しみ、苦しみ、呻きが聞こえる。また「いのち」を粗末にする側への厳しい叱責の言葉も聞こえるのだ。

 例えば、先週14日に、福井地裁で高浜原発再稼働を認めない決定が下されたが、裁判長はその判決文で「多数の人の生存そのものに関わる権利と、電気代の高い低いという問題を並べて論じ、当否を判断する事自体、許されない。」と述べているが、そこにも人の「いのち」への配慮を欠いた商業主義への「神の叱責のことば」が響いているのではないだろうか。今日本は統一地方選挙の季節だが、今月7日の新聞「赤旗」の記事に、私と同志社神学部で同期であった榎本榮次という友人牧師の顔写真が出ていてびっくりした。大津市で街頭演説をした時の記事で、「日本共産党に期待します」という小さいコラムだ。彼の主張は戦争する国造りにまっしぐらな現政権を止めるためには、共産党に伸びてもらうことが一番だというものである。牧師たるものが一定の政党を支持することはあまりないのだが今回はちがう。もう黙ってはいられない時が来たのだと思う。そういう私も軽井沢町では共産党町議の支持表明をし、写真入りで彼のポスターに掲載されているのだが、貧しく弱い一人の「いのち」に寄り添う理念と政策をぶれずに打ち出している以上、そこに神の言葉、神の「アーメン」を聞くことができるからだ。「アーメン」とはギリシャ語で「本当に、確かに」という意味で、肯定、是認、同意などを意味する言葉です。皆さんは如何?

 

2015.4.26「罪の懺悔を起点に」

 軽井沢町の町議選が21日より始まった。私は共産党の土屋浄候補(三期目)の出陣式の応援演説に駆けつけた。私が特定の候補者を公然と応援するのは今回が初めてだ。彼は10年前に3人の牧師とともに憲法9条の会設立メンバーとなった。しかし、それ以来の付き合いという理由だけで応援したのではない。 

 現在日本は、安倍政権によって「戦争しない国」から「戦争する国」へ変貌しつつあり、危機的状況に突き進んでいるからだ。日本国憲法9条は、イエス・キリストの究極的「平和主義」に最も近い「法」である。この憲法9条を骨抜きにして来た自民党政治の歴史を、安倍政権はまさに総仕上げをしようとしている。これに真正面から対決しているのが共産党だからだ。第二の理由は、社会的弱者を、まるで小さな野良犬の如く見下す安倍首相の、トリクルダウンなる経済政策にも共産党は真っ向から対決してくれているからだ。最も小さい存在を中心に据えるところに神の国の姿があるとは、主イエスの基本的教えである。

 我が日本キリスト教団は、1967年3月26日に、当時の教団総会議長鈴木正久の名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を内外に示した。その内容は、戦時下における国策に乗って合同をし、本来平和への「見張りの役目」をすべき教会が戦争に加担した罪の懺悔をし、特にアジア諸国へゆるしを乞うものである。

 教団とその教会はこの「戦責告白」により敷かれた宣教の道筋を歩んできたと理解している。つまり「戦責告白」は「信仰告白」の中核である「イエスは主なり」の具体的内実として大きな意味を持ってきたのだ。その点では、国の政策にしても教団の宣教にしても、未来への道筋を見失わないための「起点」として、過去の過ちをきちんと踏まえ続けていかねばならないはずなのだ。だからこそ、教会外であっても軌を一つにできる時は、そこに勇気をもって寄り添っていきたいのだ。

 

2015.5.10「憲法記念日に想う」

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ福音書5:9) これはイエス様が人々に教えられた「幸福」についての7番目の教えです。先週5月3日は日本国憲法記念日でした。私は日本国憲法の平和主義はまさにイエス様のこの教えに適っていると信じています。事実日本は1945年の敗戦から70年間、どの国とも戦争をせずに過ごすことを、曲がりなりにも実現してきました。平和の概念は様々ですが、少なくとも「戦争をしないこと」という概念だけ取り上げても、神の子と呼ばれるに相応しい歩みをしてきたのではないでしょうか。

 現在自民党安倍政権は日本を、国土防衛のみならず、世界中に出ていって戦争のできる国に作り替えつつあります。世界3大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)は戦争を否定し、人の命の大切さを説いています。旧約聖書のモーセの十戒にも「殺してはならない」(出エジプト20:13)と厳しく規定されています。「聖戦」といわれているものは、神の愛の戦い、人の命を守る戦いのことであって、決して殺し合う戦争を意味しているものではありません。イエス様はまた「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ福音書26:52)といって弟子たちを強く戒めておられます。

 そういった観点から、人類普遍の原理と謳われている憲法前文と、その崇高な精神を具現化しようとする9条の戦争放棄条項は、聖書の説く神の愛の精神と軌を一にするものであります。

 この平和憲法を大切に保持することは、ご自分を殺そうとしている人々の救いを神に祈りもとめながら殺されていったイエス様に、聞き従う道にも重なると信じているものです。

 キリスト教会はもう内に閉じこもっていることをやめて、国全体に主によって開かれ浸透していることを自覚したいと思います。

 

2015.5.17「聖霊により」

 先週12日に軽井沢憲法9条の会の5月例会で、埼玉県東松山市にある、原爆の図で有名な丸木美術館の鑑賞に行って来ました。画家故丸木位里・故丸木俊夫妻の有名な原爆の図がお目当てでした。初めて訪れた私は、原爆の図の前に立った時、なんとも表現し難いのですが、想像をはるかに超えた、無数の人々がその存在を否定され、生が絶たれていく時の、叫びにもならないような、呻きにもならないような、醜い断末魔の絵なのですが、無で覆われたような妙な静寂の世界というか、そんな感じに包まれました。位里さんは被爆3日目に東京から広島入りし、つぶさに被爆した人々の様々な姿を目撃されました。広島は画家の故郷であり、家族が被爆、被爆死しています。彼らが原爆の図を描き始めたのはそれから3年後だったそうです。彼らにとって単に家族や知人友人を失ったということだけでなく、広大な地域を消滅させ破壊した原爆と、それを使った人間の、とてつもなく大きな魔性の前での喪失感による3年間の沈黙であったのかも知れません。しかし彼らはいつまでもそのままではいませんでした。彼らに残されたすべきことは、彼らの仕方で証言することしかなかったのではないでしょうか。彼らは原爆の図を描くことで、歴史の中で語り続けているのです。忘れてはいけない、忘れてはいけないと自らを戒めながら、人がそれをどう評価するかしないかは問題ではなく、彼らに残された生き方はこれを語り続けることだったのです。

 美術館に入場する前、駐車場の奥に一つの碑がありました。何の碑なのか?と近づいて見ると、なんとそれは関東大震災の後に起こった朝鮮人虐殺の記念碑でした。東京を中心に関東周辺で起こった大虐殺の記憶です。展示絵画は、原爆の図(12点)だけでなく、南京虐殺、アウシュビッツ、水俣、三里塚、沖縄(9点)、足尾銅山、天安門事件、原発、チェルブイリなどがあり、びっくりしました。

 私はここに二度も主イエスを失った喪失感に落ち込んでいた弟子たちが、「主イエスの十字架の死」を語り続けることしかなかった、その姿を見たような気がしました。

 

2015.5.31「祈り考」

 軽井沢には10の教会があり、牧師司祭会が隔月で行われている。教派を超えた教職者たちの交わりの会である。年に一度だけ、イースターの朝に合同の礼拝が輪番で続けられている。先週の牧師司祭会は軽井沢南教会で開催された。私の近況報告に妻の病気のことを話したところ、すぐさまそのために祈りがなされた。また、29日夕方、思いがけない訪問者があった。私の駆け出しの頃東中国教区の倉敷教会伝道師だった時に、鳥取の西伯法勝寺教会の牧師であった稲垣馨牧師夫妻が、いきなり訪ねてこられた。今はもう引退されておられるのだが、当教会の裏手に最近造られたツリーハウスの制作者が、偶然彼のご次男との事で、見に来られた帰りにお寄りくださったのだ。先生との再会は東中国教区以来なので、なんと39年ぶりになる。その彼が私の妻が病気だと聞いて、その場で祈ってくれた。牧師は人のためにいくらでも祈っているが、自分のために祈ってもらうことはあまりないので本当に嬉しかった。

 私たちの「祈り」は、単なる社交辞令ではないところにある種の「力」を持っているのだなあと、しみじみ思い知らされたのである。そんな思いの中で、自分の普段の祈りにそんな「力」が伴っているのかどうか反省を迫られたのである。

 そこで思い起こすのは、主イエスが弟子たちにかく祈れと教えた主の祈り(ルカ福音書11章)の中の「わたしたちの罪を赦して下さい、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」という祈りだった。某政治家を非難する祈りは盛んにしていても、自分自身の罪の意識はまことに稀薄であることに気づかされるのであった。また、主イエスの十字架上の7言のひとつ、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ福音書23:34)も今の自分には祈れない祈りであることだ。「自分をお赦し下さい」と祈るより遥かにハードルの高い祈りだからだ。しかしこの祈りなくして聖霊の働いてくださる「力」ある祈りにはならないのだろうなと、自分の不甲斐ない祈りの姿への思いは広がる一方であった。

 

2015.6.7「開かれた合同教会考�」

 ちょっと早いが、6月24日は我が日本キリスト教団創記念日だが、今、その合同教会たる教団のあり方が激しく問われている。「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる宣言」文が、北村慈郎牧師支援会総会で提起され、今後はこのようなかたちの運動へと発展させていくこととなり、全国の教会に賛同者を求めている。

 この運動は、北村慈郎牧師がオープン聖餐式をした咎で教団の牧師職を剥奪されたことから出発している。そもそも紅葉坂教会では、北村牧師の就任前、約10年をかけて聖餐について議論と検討を積み重ね、教会としてこの決議をしていたのである。各個教会の主体性を一番に重んじて招聘制度をとる我が教団が、そこに招聘された牧師を教憲教規違反者として処罰、しかも生活権のみならず、牧師への召命観すら否定し奪う「免職処分」を下したのである。この現教団執行体制による処分は、各個教会の主体性を最大限に尊重するための招聘制度を、上から押さえつける強権主義へと変貌させたことを意味していると思う。免職処分執行の前年秋に開かれた教団総会で、北村牧師への免職処分は否決されたにも関わらず、処分がおこなわれたのだ。この強権体質は、その後の教団運営において民主的な会議制を無視し、一切の議論を受け付けずにごり押しするやり方へとエスカレートしていった。今回の北村牧師支援会の宣言は、そのことを正す運動へと必然的に発展したものである。そもそも、地域において各個教会が真剣にとりくんでいる宣教の課題と姿勢に聞くことなく、一方的にブレーキをかけるようなことを教団がしていいのだろうか。

 『聖餐—イエスのいのちを生きる—57人の発言』という本が2008年に信教出版社から発刊された。当教会の「聖書を学ぶ会」でこの本の読書会を1年半位かけて行った。私は残念ながら57人の中に参加していないが、この本を読み「主の聖餐の豊かさ」を目の当たりにしたような思いに満たされた。紅葉坂教会もその聖餐の豊かさを、地域におけるホームレスや野宿者、日雇い労働者の方々と共に享受すべく決断へと導かれたのであった。合同教会としての教団は、そのように地域社会に開かれた各個教会の伝統と主体性を重んじ、その宣教の姿勢を受け入れ後押していくのが務めなのだ。

 支援会の呼びかけ人代表の関田寛雄(神奈川教区巡回牧師)先生は、聖餐式オープン論には異議を唱える方だが、今回の免職処分とそれ以降の教団執行部の非民主的強権主義に強い懸念を抱き、この活動に参与されている。是非当教会の会員も賛同者として名を連ねて欲しいと願うものである。

 

2015.6.21「開かれた合同教会考」

 日本基督教団は1942年国策によって35の教派の教会が合同させられてできたのである。それ故、敗戦後も教団に留まることを選択し、教団を維持してきた教会は、それぞれの旧教派的伝統を保持しながら、合同教会を維持してきたのである。したがって教憲・教規も曖昧な妥協の産物的な制度のまま今日に至っているのはいたしかたない面もある。例えば二重教職制問題や聖餐論も、解決していないばかりか議論さえされていないのが現実である。

 当教会が今のような賛美する教会として、様々な教派に属する演奏者たちに支えられ、様々な教派の信者の方や、音楽愛好家、信者でない方によって支えられ成長し続けてきたのも、創設者である故守臣師、望月賢一郎師、そして現牧師である私が、ともに受け継いできた会衆派的教会の伝統によるところが大きいと言えるだろう。会衆派的教会の「聖書の神以外の何者にも縛られない自由」であり、「自主・独立の精神」によって信仰者として育まれて来たからに他ならないからである。

 この春から金曜日の「聖書を学ぶ会」では旧約聖書の『イザヤ書』を学び始めた。読み始めて最初に驚かされ、惹きつけられたのは、イザヤを召した主なる神が、イザヤに吐露している気持ちにであった。神はなんとイスラエルの民の礼拝を拒否していたのだ。

「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか。(〜略〜)こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが 誰がお前たちにこれられのものを求めたか (〜略〜)むなしい献げものを再び持って来るな。(〜略〜)新月祭、安息日、祝祭など 災いを伴う集いにわたしは耐ええない。(〜略〜)それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。」(イザヤ書1:11〜14)

 これを読んですぐざま思い起こしたのは、現教団執行部とその取り巻きたちの姿であった。口を開けば、教団の「教憲教規、教憲教規。信仰告白、信仰告白。」の一点張り、それさえ唱えていればよいという教会や教職を求めている姿である。それらのために、自由の喜びと、主に従う、貧しく小さい一人に仕える奉仕の姿勢をもつ教会が、縮こまってしまう。そんな教会はもう耐えられない、飽いたと、神に言われているように思えたのだ。

 

2015.6.28「沖縄の疼きを」

 6月もあと残すところ2日、なんと時の経つのは早いのだろう。24日にようやく一息つくことができ、溜まりに溜まった書類の整理や、メールの返信などに手を付け始めた。とはいえ、ひどい咳に悩まされ続けているので能率は一向に上がらない。したいことが思うように出来ないのでイライラが募る一方だ。このような状態なので、「天声JINGO」のテーマも定まらず、こんな書き出しになってしまった。そのうちになんとかテーマが絞れるのではと期待しながら・・・!

 やはり今国会の焦点となっている「戦争法案」のことが頭から離れない。20日の「9条の会創立10周年記念講演会」で、旧知の小中陽太郎さんにお話を伺った。話の核心は「沖縄」であった(講演要旨は本日発行の「輝く9条」をご覧下さい)。23日は沖縄戦終結の日で、沖縄では「慰霊の日」として追悼式が県などの主催で毎年営まれる。今年は沖縄戦から70年という節目の年であり、普天間基地の辺野古への移転問題が瀬戸際というタイミングでもあり、翁長知事は「政府には、固定観念に縛られず移設作業の中止を決断することを強く求める」と訴えた。しかし、安倍首相はその挨拶で、辺野古移設については一言も触れることはなかったと報道されていた。政府と沖縄の「反戦平和」への思いの温度差が、かけ離れていることが浮き彫りにされた。小中さんは講演で、沖縄が琉球時代から中国や日本の挟間にあって、常に列強への従属と虐げに耐え続けた長い歴史を負ってきた事、特に先の戦争においては日本で唯一の地上戦の地となり、その悲劇の生々しい傷の疼きはまだまだ消えてはいない事を指摘されていた。今の安倍首相のもとでは、もうどのような「金の力=政治の力」も通用しないところまで来ているのだ。首相の言う積極的平和主義は通用しないのだ。

 沖縄の教会もこのような「疼き」とは無関係ではない。この「疼き」の共有なしに沖縄の宣教はあり得ないだろう。現教団執行部体制は、沖縄教区を切り捨てることによって台頭してきた勢力だ。日本国政府の沖縄蔑視や差別と同質の無理解を払拭してもらわねばならないのだ。

 「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会」結成の宣言文の希求事項の4番目には、「沖縄教区に対する謝罪と関係回復への具体的作業を求めます」とある。私たち教団の教会は「戦争責任の告白」(1967/3/26) をしたものとして、沖縄の現実から目をそらすことは出来ないのだ。

 

2015.7.5「私達は何ものなのか?(1)」

 先月、東日本同信伝道会が箱根湯本の旅館で開催され、私と新井敬二執事が参加してきました。「同信伝道会」とは同志社大学神学部出身の牧師や信徒、旧組合教会の伝統を受け継ぐ会衆主義教会の牧師や信徒によるグループです。この教会の創始者故稲垣守臣師は同志社大学を卒業し、戦前は会衆派のクリスチャン教会牧師、戦後はその流れを汲んだ聖ヶ丘教会を渋谷に創設しました。また、故望月賢一郎師と私はその聖ヶ丘教会の出身で、かつ同志社大学神学部を卒業した牧師です。この「同信伝道会」の働きは、牧師の人事をお手伝いすることを最大の使命としています。また東日本と西日本献身キャンプ(ユース・キャンプ)も毎年継続して実施しています。私も東日本献身キャンプ出身の献身者であり、西日本献身キャンプではスタッフとして数年従事しました。その他今回のように牧師&信徒の研修交流を実施しています。

 今年度から当教会では「牧師招聘準備委員会」を設置しました。私が今すぐ牧師を止めるというからではありません。しかし、いつ引退しても、あるいは天に召されてもおかしくない年頃になってきたので、その時になって教会が牧師招聘をどうするのかあわてふためくことがないように、今から牧師招聘についての心構えとノウハウを研究しておきましょうということなのです。今回、信徒として新井敬二兄にこの研修会に参加してもらったのも、その一貫としてであります。

 日本基督教団は合同教会(特定の教派ではない)であり、旧教派の伝統をもつ教会が寄り添い合ったものですから、教団の牧師であればどこでも通用するというようなものではありません。ですから牧師招聘に関して、第一に「自分たちの教会がどのような教会であるのか」をよくわきまえておく必要があります。勿論この教会には、いろいろな旧教派的伝統の教会で育まれてきた方々も、転入会されています。その方々の信仰や信条を否定するものであってはなりませんが、ひとつだけ確かに言えることは、この教会の会衆派的遺伝子は、どのように異なった伝統のもとで育った方々であっても受容出来うる柔軟さを持っているということではないかと思います。その辺りのところから、次回は「会衆派」についてその歴史や性質を考えてみます。

 

2015.7.19「私達は何ものなのか?(2)」

「安保法案」いわゆる「戦争法案」なるものが与党の強行裁決で衆議院を通過しました。国家の最高権力者とその取り巻きが、幅広い国民の議論を無視して数の論理で事を押し切っていくことが、立憲主義に根拠を置く民主主義国家の崩壊を招く暴挙であることは、マスコミ各社や多勢の論者のおっしゃる通りだと思う。

 実は今この天声JINGOで学ぼうとしている「会衆派」のそもそもの発端も、英国国教会というこの世の権力に縛られた教会内のリバイバル運動にありました。やがてこの運動を、この世の政治権力ばかりでなく、同じ組織内での上下関係をも拒絶する教会へと発展させていったのが「会衆派」であり、今の民主主義社会の基礎ともなったのです。故にリアルタイムで我が国の政治状況を憂うるものであります。

 さて「会衆主義」については、さらっとしか言及できませんが、起源は16世紀の英国に遡ります。当時の英国国教会はローマ・カトリック教会から分離・独立して生まれた教会ですが、それでも色濃くカトリック的要素を残していました。そのため聖書に基づくより徹底した教会改革が求められ、スイスのカルヴァンの改革派の影響を受けて、ピユーリタン(清教徒)運動が起りました。当初は教会内の改革を期したものであったのですが、やがて国王が教会の首長であること、教職と信徒を質的に区別したりすることに大きな異議を持つ人々が現れました。教会は国家権力からの自由、キリスト者は神の前に万人が平等であると主張して、英国国教会から分離・独立した自由な教会をめざす人々が、このピューリタン運動の中から出て来た、これが「会衆主義」の始まりです。その中でロバート・ブラウンが国教会から離脱し、最初の「会衆主義教会」を設立しました。しかし迫害を受け彼はオランダに逃げました。また、その中から、さらなる信仰の自由を求めて新大陸を目指した人々もいました。1602年にメイフラワー号に乗って米国大陸に渡ったあの有名なピルグルム・ファーザーズ(巡礼始祖)です。彼らは現在の米国マサチューセッツ州プリマスに渡り、そこで会衆主義教会を設立して、会衆主義による教会と社会の共同体を形成しました。(会衆主義教会研究会篇—「会衆主教会について」から)—次回に続く—

 

2015.7.26「終末的生」

 今回は「私たちは何ものなのか」シリーズ�の予定でしたが、先週21日に結婚して39年と9ヶ月連れ添った妻彩子が死去したので、このシリーズは9月からの週報に掲載を延期させてもらいます。

 妻彩子の病発覚が去年の6月初旬でしたから、一年とちょっとの闘病生活となりました。今まで肉親の大病などに寄り添ったことはありませんでした。あえて言えば父の最後の数年間ですが、それも実際には妻が世話をしてくれていたので、自身が立ち会うことは今回が初めての経験でした。10時間に及ぶ手術中の待機、自宅療養中は毎日の傷口数カ所の消毒とガーゼの取り替え、数回におよぶ緊急入院への付き添い、入院中には日参しての面会と世話などを経験しました。それらのことは、今まで数多くの方の辛い体験などを聞いていたので、かなり理解をしているつもりだったのですが、実際はそんなものではありませんでした。それはどんなに辛かったか、ということでは全くありません。なんと言ったら良いのでしょうか、ああこれが終末的生とでも言うべきものかなと思い返しています。

 肝臓癌の場合、手術が出来る方へ医師はあと余命どのくらいとは宣言せず、手術の出来ない場合に宣言をするそうです。手術が出来ても余命は1年〜2年くらいだと一般的には言われています。中にはかなり回復し長らえている方々もおられるようですが、いずれにしても神のみが知る世界でしょう。

 終末的生き方、それは厳しい現実にありながら、その現実を受け入れてお互い見つめ合い寄り添い合う。それは私と本人だけでなく、子供たちも、孫たちも、そして教友のみなさん、友人知人と周囲の方々すべてがその終末的生に引き込まれるという体験でした。終末的生には、単なる悲壮感とは無縁のものがあると言う事が分かりました。あくまでも「生かされている」ことへの喜び、「生」への希望が見えてくる生きたではないかと。今まで当たり前に生きていた時にも、多分そのような生きたは備えられていたのだと思うのですが、危機的な厳しい状況に置かれた時に、生への希望と喜びへの主のみ手の業を感じ、永遠の命の光へと包まれているのだなと、牧師としては大変遅ればせながら実感させていただいた1年間だったと、妻彩子に感謝!そして寄り添って下さった方々へ感謝!

 

2015.9.6「この夏の雑感」

 

 長いようで瞬く間のこの夏であった8月一杯はこの「天声JINGO」もお休みだったので久しぶりだ。

 この夏私にとっての第一の出来事は妻の死去であった。7/ 21日のことだったが、それ以来今にいたるまで多くの方々からのお悔やみを頂き続けている。教会関係者の方々を始め、若い頃からの彼女の友人たちからのものも興味深い。今まで知らなかった故人の人物像を知ることになったからだ。「人」と言う存在は、その人生で出会った人々との計り知れない「関係性」によって生かされているのだということをあらためて実感させられた。もっともっと人との出会いを大切にせねばと反省させられている。

 次に大きかったことは、「戦争法案」を巡っての国会や、それを取り巻く一般世間での議論と、これに危機感を覚える国民的反対運動が大々的に繰り広げられてきていることだ。ここ軽井沢でも9条の会では街頭に出ての反対運動を繰り広げている。私は8/6のピースウォーク参加だけで、あとは名前だけの参加しかできずに申し訳ない思いできたのだが、毎週の礼拝コンサートの中での「宣教」で精一杯参加させてもらったつもりである。特に聖書の神は「平和の主」と呼ばれ、戦争との関係での平和だけでなく、神と人との本来的関係への回帰が、人と人との関係における平和の根源的基盤であることをみ言葉に求めたものであるが、ちゃんと伝わったかどうか?

 戦争法案の国会審議は正念場を迎えている。敗戦後70年に、もう一度ドイツの元大統領ヴァイツゼッカー(Richard Karl Freiherr von Weizsäcker)のドイツ終戦40年記念演説を噛み締めたい。その演説のエッセンスともいうべきあの有名な一文「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」(岩波ブックレット/永井清彦訳)

 多分この演説を下敷きにしてのものだと思うのだが、「真摯な人は過去を見つめ学び折にふれ悔い改めて償い、偉大な民族は過去を凝視し過去から学び、時に臨んで謝罪し償う。」という一文に最近接したで紹介させてもらう。アーメン。

 

2015.9.13「私達は何ものなのか(3)」

 

 7月5日と15日に同じタイトルで、軽井沢追分教会の教会観のルーツをシリーズで考えてきた。だが妻彩子の死去、夏の礼拝コンサートなどで途絶えていましたので続きを書こう。

 私たちの教会は、現在は日本キリスト教団という合同教会の一員となっているが、この追分教会を指導してきた故稲垣守臣師、初代の専任牧師故望月賢一郎師、そして次代の私稲垣壬午の育まれてきた信仰と教会観は、戦前までは「組合教会」と言われていた会衆主義教会の流れを組むものあったため、当教会の形成においてもその流れは受け継がれている。当教会が将来次代の牧師招聘をする時には、候補者に当教会を知っていただかねばならない、その時の準備として学ばせてもらっているわけだ。何故なら現教団の招聘制度は、牧師招聘の主体を各個教会においているからだ。各個教会の主体性を一番としている以上、現教団の体制はいわば会衆主義の影響を色濃くもっているということになると思う。

 前回�では、英国国教会から自由を求めた人々により流れがつくられてきた会衆主義教会の歴史をおさらいし、1602年にあの有名なピルグリム・ファーザーズが現在の米国マサチューセッツ州プリマスに渡り、そこで会衆主義教会を設立して教会と社会の共同体を形成したところまで述べた。 次は日本の会衆主義だ。米国の会衆主義教会が中心となり組織された海外伝道団体「アメリカン・ボード」から派遣されたグリーン宣教師夫妻が1869年に神戸で伝道を開始し、1875年に会衆主義教会として最初の摂津第一公会(現神戸教会)を設立。1875年には、同ボードの準宣教師として米国から帰国した新島襄が同志社英学校を開校。1877年にはグリーン宣教師から英語を学んだ後、米国ノースウエスタン大学で学んだ澤山保羅が帰国し、浪花公会(現浪花教会)を創立。1887年に、これらの会衆主義教会により「日本基督伝道会社」が設立。更に1886年には「日本組合基督教会」が発足し、日本における会衆主義教会宣教の道筋が整えられ、各地に組合教会が次々と誕生していった。その後、国家の戦時体制に組こまれるかたちで、1941年に他の35の諸教派と共に「日本基督教団」という合同教会を形成。それぞれの教派は解消したが、それでも会衆主義の諸教会は、その精神を脈々と受け継ぎながら、現在に至っている(「会衆主義教会研究会」篇パンフレットから)。次回は、会衆主義教会における特質について述べる。

 

2015,9.27「私達は何ものなのか(4)」

 

 戦争法案が圧倒的な国民の反対にも関わらず国会を通過し成立。しかし全国的にこの法案を無効化する運動が幅広く推進されている。「平和を造りだす」ことがキリスト者の生き方そのものでもあるので心強い限りである。しかし安倍内閣と政府は涼しい顔をして、国民の御機嫌取り的政策を次々と打ち出し、自衛隊の集団的自衛権行使政策も実施へと拍車をかけている。安倍総理のいう「積極的平和主義」は、軍事力という暴力をもって担保しようとする平和だから、「平和」の概念が全く異なる。また彼の国会運営は「数」の暴力による専制であり、民主主義の破壊とも懸念されている。

 主の教会は一信仰者の心の拠り所であるだけでなく、社会のあり方の初穂としての使命を負っていると思う。一個教会の牧師招聘問題に因んで、「私たちは何者か」という問いから、「会衆派」の教会を考えてきた。今回「会衆派教会の特質」を概観することにより、いかに、キリスト教会が、よりよき民主的な社会形成の初穂であるのかを考えてみたい。

 会衆主義の特質は、その基礎を各個教会の「自由・自治・独立」に求めることが出来ます。そのことが可能となるのは、私という人間と神との契約関係を明確にするキリスト教の信仰のかたちにあるからである。神の愛の絶対性の中に包まれて始めて人は自己肯定がなされ、そこから真の主体性が芽生えるからである。このような神との契約関係は、おのずと人を人との契約関係へと向かわせるのです。この契約関係は「愛の関係」といってもいいかもしれません。そのことは人を「礼拝共同体」へと導かれるのです。各個教会は信徒の集まりです。教職者も原則的には信徒なのです。信徒の中から職能として牧師が立てられるのです。〜ですから神以外の権威や仲介物を必要とせず、聖書によってこそ各個教会は導かれると考えます〜。宗教改革で掲げられた『聖書のみ』『信仰のみ』『恵みのみ』『キリストのみ』に基づくものです。

 そのように会衆主義は「自由・自治・独立」の精神による各個教会を基本とします。しかし孤立主義、自己主義とは異なります。そのように主体性がはっきりとしてこそ、他の教会との連帯を大切にしてきました。この伝統があるからこそ、今日のように教派性に固執せず、合同教会(教団)を形成する方向に向かったといえるのです。勿論他教派も含め各個教会を尊重し、連帯することは多様性を受入れ共存する共同体形成においてその真価を発揮出来る存在といえます。そのような会衆主義による教会形成は、今日「民主主義」といわれている社会を根底から支えるモデルと成りうると思うのであります。