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天声JINGO アーカイブ

2014年度10月〜

2014.10.5 「なんだったっけ?」

 

先週聖日の教会協議会では、いくつかの報告とともに「奉仕」ということについて話された。

我々の教会内のことだけでも様々な仕事があり、それがすべて「奉仕」の名のもとに、皆で手分けをしてこなしている。それらは、聖日の礼拝式にかかわる奉仕に限らず、庭園の整備から付属施設のメンテナンスや清掃にいたるまでいろいろある。これだけの施設を管理維持するには、現在の教会員数や年齢構成では年々難しくなりつつあり、とまどいの声が出始めている。

昔から教会は、礼拝から始まって礼拝に終わるところだと言われてきた。心静かに礼拝に臨み安息を得る。今の言い方だと、心身ともなる「癒し」を得たいという事だろう。そのためには、奉仕、奉仕といって、礼拝当番はともかく、掃除や、草刈りに加え、教会外の働きへの奉仕などしていたら、心乱れて礼拝どころでなくなってしまうし、そのために人間関係にまで心配りをせねばならないなんってまっぴらご免という気持ちも判らないではではないが、でもやはりどこか引っかかる。

奉仕は、なんでも出来る時にしたらいい、出来るところまでしたらいい、悲鳴を上げるところまで頑張らずにストップしたらいい。奉仕は、中途半端でもいい、完全じゃなくてもいい、なんでも完璧にしようとすると無理がくる。そんなことは分かっているのに、どうしても無理をしてしまう。そして悲鳴をあげることになる。

「信仰」って何だったっけ?一生懸命やっても自分に出来ないことは主が替わりにやってくれる、失敗してもそれをカバーしてくれる、そういう安心感じゃなかっただろうか。

「礼拝」って何だったっけ? 英語では「サーヴィス」。イエス様は人が楽をするために、一切の面倒くさい雑用を一身に請け負って、それが自分の生き甲斐なのだと、神への[サーヴィス]なのだと、今なお黙々と十字架の上でがんばっておられるんだったよね。奉仕とは神様に顔を向けてなされるもの。そのことを確かめあいながらの先週の教会協議会だったと思う。

 

 

2014.10.19 「みこころが」

 

今まで病気らしい病気をしたことのない妻と私であったが、今年6月初めに妻の顔が黄色くなり、悪性の胆管癌と診断された。他に転移はなく、手術が最初からの方針であったので、いわゆる「癌」という言葉で「ガツン!」といった感じではなかった。しかし黄疸値が下がるまでに4ヶ月以上もかかってしまい、この間何度か炎症による高熱に悩まされ、入退院を繰り返した。手術の予定日一週前にも炎症による高熱で緊急入院した。手術に最適と言える状態ではなかったが、予定通りに手術は強行され、6〜7時間という予定時間を大幅に超え10時間に及ぶものとなった。この10時間が、今回私が一番緊張した時間であった。そして先週13日(月)に、手術後24日目にして退院し自宅療養に入った。この間教会のみなさまには日々御祈りいただき感謝であった。祈られる側に立ってみて初めて「祈り」の力を知ったような気がした。神の国に属する者としての祝福を味わい知らせてもらったからである。

今回のことでみなさまの「お祈り」が第一の感謝であるとすると、第二の感謝はこの世的感謝である。それは健康保険制度である。とやかく問題の多い制度だが、後期高齢者への特別措置はありがたかった。今までは保険料率の高さに不満を持っていたが、今回受給する側になって、一割負担のそのありがたさが身にしみて分かった。

それにしても昨今の政府のやり方はひどすぎる。社会保障の目的税として増税がなされたのに、保険料率増、後期高齢者への特例廃止、年金増税と年金支給率減、その上更なる消費税増税が計られている現実はどうしたことなのか。

これからはいつも呪文のように唱えている「主の祈り」、「みこころが、天と同じく地にも行われますように。」の祈りに力が入りそうである。

 

2014.10.26 「道徳と信仰」

 

「道徳教育の教科化」が政府によって企てられている。私が小学校の時は「道徳」という教科は無かったと記憶している(1948年〜1954)。中学校はキリスト教主義の学校だったので、「道徳」は「聖書」の授業がそれに替わるものだと聞いていた。戦後、民主主義社会になって「道徳」は、一定の国家権力のもとにある、統制された社会における価値観だけによるものではなく、多様な宗教観や、その他の社会的価値観による幅広い捉え方、つまり多様性を認めるものだという理解は、自然と私の中に根付いてきたように思う。しかし今になって政府が「道徳」を強調し、その教科化を計ろうとしていることには違和感と危惧を覚えるのである。

「道徳」とは、“その時代と社会にとって好ましい生き方を求めるものである”と、これもうろ覚えではあるが、大学の社会学かなにかの講義で聞いたことがある。だから今政府や与党が道徳!道徳!というと実にうさん臭いのである。例えば安倍総理の一連のヤスクニ参拝、憲法の集団的自衛権の拡大解釈、防衛費の拡大等々の延長線上にみられる「道徳教育」となると、どうしても「かつて来た道」が色濃く見えて来る。この春から教育基本法の目標に「わが国と郷土を愛する態度を養う」が盛り込まれた、これもうさん臭いのだ。「わが国」=「国家権力機構」、「郷土」=「隣国との関係で守るべき国境線や領土問題」が色濃く意識されていると思うからだ。そこには人々が犠牲を強いられる(奴隷化)ことを厭わないための教育が意図されているとしか私には思えてしようがない。

戦後、聖書の人間観や他の宗教のそれに道徳教育を委ねたのは、まず「人を大切にする」という宗教の持つ価値観(信仰)に委ねたからだと思う。それは旧約聖書の天地創造物語で、神の人に対する思い入れ(1:27、2:7b)にあらわされているし、神は創造された自然界すべてを「良し」とされ、人に委ねられている。私は「道徳教育」は、一人の人を最大限に尊重し大切にする精神と、神が「良し」とされた美しい自然界を大切にし、その恩恵をいつまでも保持しようとする心を養うことであると思う。そしてそれはすぐれて信仰的営みであるのではないだろうか。そのことを否定する国家による道徳教育には要注意である。

 

2014.11.9 「現代の予言者」

 

先週水曜日の信濃毎日新聞一面で「中馬清福氏死去」のニュースに触れた。私にとって中馬さんといえば、信濃毎日新聞の主筆であり、大型コラム『考』は私の胸に一番波長の会う実に心地良い場所であった。一度は講演会などにお呼びして、直接お話を伺いたいと思っていた方だが、とても応じてもらえないというのが当時の定評であった。しかし去年、軽井沢9条の会でお呼びすることが出来た。その前の年だったと思うが、小諸9条の会が講師にお招きしたので、「それならこちらにも」と、その講演会に乗り込み交渉した結果、すんなりと受諾して下さったことを昨日のように思い起こす。

何故最近この種の講演会に応じられるようになられたのかとお伺いしたところ、自由民主党の「日本国憲法改正草案」が2012年4月27日に決定したことにより、いてもたってもいられなくなり、巷に務めて出るようにしたという旨の胸の内をお話下さった。

それほど危機感を人一倍強く持っておられたということだ。軽井沢9条の会の創立8周年の記念講演会(2014/6/8)に先立ち中馬さんは、世話人会数人との事前の打ち合わせを東京と長野の行き来の多忙ななか時間をとってくださり、軽井沢駅前の食堂で親しく語り合い、私たちの思いに添ったお話を準備されたのだ。その後も私はメールで数回やりとりをしたのだが、彼は今年3月末に主筆を退かれた。その後はすっかり姿を消されてしまい、メールへの応答もなく寂しく思っていたところにこの訃報であった。肛門部胆管癌で79才とのこと。今日的感覚でいえば、若死にである。

彼は『考』で224回にわたり、憲法改正問題を中心に、国家や民族を越えた世界の目指す道を示し続けてくれた現代の「予言者」であったと思う。それだけに内外からの圧力は相当あったと思う。しかし、そんなことはおくびにも出さずに、静かに、人の話をじっと、そして穏やかな表情で聞いてくださった姿は忘れ難い。

病死とはいえ、やはり「憲法問題」については相当の危機感を持っておられた彼は、目一杯荒れ野で呼ばわり続けたバプテスマのヨハネのような激しさを内に秘めて燃えつきた予言者であったと思うのである。

 

2014.11.16 「新島襄の教会観」

 

先週月〜火と関東同信伝道会の研修会に参加した。同会総会は二年に一度で、今回の研修会は、NHKの大河ドラマ「八重の桜」を監修した元同志社大学神学部教授の本井康博先生が講師で、「日本における会衆主義の源流」と題しての講演だった。軽井沢追分教会は、創始者稲垣守臣師も望月賢一郎師も、そして私も同志社神学部出身であり、その底に流れている信仰と教会観には共通するニューイングランドのピューリタニズムが色濃く受け継がれていることには間違いない。しかし案外その内容については曖昧であり、今回のテーマに大いに興味を持って楽しみに参加した。

本井さんの第一声は「新島の教会観といっても、彼にはそんな神学は見あたらない」であった。新島を突き動かしていたものが何であったのかを、彼の密出国の動機から掘り起こし、辿った数奇な運命に彼を方向づけた契機があったことを、資料をもとに、それも実にドラマチックに説き起こしてくださった。その大半はお伝えできないのだが、結論からいうと、まず、第一に新島は当時の日本の封建社会からの脱出(自由を求めて)を計っていたのだが、たまたま彼を拾ってくれた船長との出会いにより、連れていかれた先が米国マサチューセッツ州ボストンであったことが、自由の価値について新島に非常に深い感銘を与えたのだ。ボストンは会衆主義教会の牙城であり、自由の発祥地となり、アメリカ市民社会の民主主義の「基原」となった場所だったからだ。

帰国後新島は、日本に「自由教会」をつくりたいと記している。また教育は自由人を養成することであり、官制の教育では適わないとし、政府の要請を拒絶し、あくまでも在野の自由人として同志社英学校を設立したのだ。彼は自由教会の信条を「自治/自由/共和/平等主義」としていた。

徹底した彼の「自由主義教会」とは①主権は各個教会にあり②規則偏重を戒めフェロシップを重んじる③少数切り捨てに慎重、少数の意見はじっくり議論研究④中央集権への警戒、などを骨格とするゆるやかな組織としての教会であり、それ故に「組合教会」と名付けられたようだ。

現在の日本基督教団は、合同教会としてこのフェロシップを重んじて欲しいものである。

 

2014.11.23 「平和を実現する人々」

 

先週19日に『軽井沢を青年が守った』という、浅間山米軍演習地反対闘争の記録を記した本の出版祝賀会が、追分の和食レストラン「なが蔵」で開かれ、9条の会を代表して祝辞を述べた。著者の荒井輝充さんは追分在住、9条の会のメンバーでもある。この本はしばらく礼拝堂ロビーに展示しておいたので目にされた方もおられるだろう。

軽井沢が日本屈指の別荘地として今日あるのは、カナダ聖公会の宣教師のショー氏に由来することはよく知られていて、毎年8月1日には町を挙げての「ショー祭」も開催されている。しかし、60年前にそんな話があったことは、ほとんど知られていないだろう。もし浅間山麓が米軍基地の演習場となっていたら、今の静かな軽井沢は存在しないことは想像に難くない。

実はこの時予定された米軍演習地は、隣の妙義山一帯もセットになっていて、群馬県側でも激しい反対闘争をし、計画を撤退させている。その記念碑が、軽井沢碓井インターの高岩山麓の恩賀部落内に建立されていて、今年4月に9条の会で見学に行った。軽井沢町では演習地誘致に乗り出していたこともあり、それを跳ね返して撤退させるという事はとても難しいことであったと言う。しかし反対運動は青年団を中心に全県的に盛り上がり、ついに計画を撤退させたのである。後にも先にもない快挙であったとのことである。私は軽井沢にもこの歴史を銘記するための記念碑を建立すべきだとの思いが募っていた。今回の荒井さんの本の出版は、大きな意義をもつものであり、出版祝賀会において何人もの方々が同じ思いを吐露されていた。荒井さん自身も、「この問題は過去のものではなくて、その結果沖縄に過重な基地問題を押しつけ、今なお持続している問題として意識を喚起させていかねばならない」とスピーチされていた。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書5:9)とキリストが教えられているが、ここにもそれに相応しい人々の姿を見た気がした。そして記念の色紙にこの聖句を書かせてもらった。

皆様にも是非この本をご一読いただきたいと思う。希望者はお申し出下さい、お貸しいたします。

 

2014.11.30 「我々のアドベント」

 

イスラエルではサムエルの時に王制がしかれた。人々は近隣諸国並みに王を求めたが(サムエル記上8章)、サムエルの目には、王制は神の御心ではなく悪と映ったとある(8章6節、9節)。神はサムエルを通して、王制の弊害をことこまかく示されている(8章10〜18節)。弊害とは、①男は兵士や武器職人として徴用される。②女も王のために徴用される。③民所有の土地も没収されること。④収穫の十分の一の徴収。⑤民所有の男女奴隷や家畜も徴用される。つまり民は王の奴隷となり、それゆえに泣き叫ぶとまで警告している。それでも民は王を求めたので、神はサムエルに民の求めに応じよと不承不承許可している。

統一王国時代二代目ダビデ王の治世こそ世界に繁栄を誇ったが、ソロモン王以後は王国の分裂、列強からの侵略、そしてとうとうバビロニア捕囚という亡国の憂き目を負うのであった。そこまで落ち込んで初めて民は心の底から主の名を呼び始めたのだ。アドベントの始まりである。

かつての聖書の民のように、「普通の国」になりたいという願望は、いつの時代も、どこにでも生き続けてきた。日本も同じだ。明治政府が欧米に追いつけ追い越せの富国強兵政策で突き進んだ結果、国民は文字通りすべてを国家に収奪され(国民総動員法/1938年)、キリスト教界もむしろ自ら進んでこれに参与した。二度にわたる世界大戦では世界中が疲弊した。日本も最後は太平洋戦争で全国焦土と化し、連合国の前に無条件降伏をした。バビロン捕囚の憂き目を負ったのだ。そこまで落ち込んで初めて日本のみならず世界中が、戦争はもう二度とすまいと思ったはずだ。そこにアドベントが起こった。そこには世界中の祈りが込められていた。そして日本は世界中の期待を担って戦争をしない国造りを決意し受け入れたはずだ(現日本国憲法/1947年 11月3日公布)。

アドベントは、救い主の到来を待ち望む祈りの期間だ。その祈りにはヤスクニの戦没者のみならず、民間人犠牲者、近隣アジアのすべての戦争犠牲者、世界中の戦争犠牲者の祈りが集結していることを忘れてはいけないのだ。このアドベントは主の目にはまだ始まったばかりなのだ。私はそう思っている。

 

2014.12.14 「自由の精神」

 

私たちピューリタニズムの信仰を受けついできた会衆派教会は、そのリベラリズム(自由主義)による自主独立の精神を柱としている。日本では新島襄が、この会衆派の信仰を受け継ぎ、アメリカからもどり伝道した教会が「組合教会」と称されたという。これは先日の関東同信伝道会の総会での同志社神学部本井康博教授(「八重の桜」の監修者)の講演で聞き、11月16日の「天声JINGO」で—新島襄の教会観—と題して紹介させていただいた。

自主独立の教会観は各個教会主義の立場をとるが、それは排他的で自己中心的だとよく非難されるのだが、果たしてそうだろうか。このピューリタニズムによる自由主義は、その後米国の独立から今日にいたるまでのあらゆる分野での支柱となってきていることは周知のことだ。しかし、最近は「新自由主義」といって、自己責任論を全面に押し出した政策が際立ち、その結果貧富の差が広がり、社会保障が後退し、切り捨てられる人々が多くなってきたと言われている。そして、日本もこれに見習ってきたが故に、今日の貧者・弱者切り捨ての社会になってきたように思えてしようがない。9日の新聞報道でも、麻生太郎副総理兼財務相が、札幌での衆議院選応援演説において、少子高齢化に伴う社会保障費増に関して「高齢者が悪いというようなイメージをつくっている人が多いが、子どもを産まないのが問題だ。」と言って物議を醸している事が報道された。ここにも新自由主義によって毒された悪しき思いがもろに表出している。弱者に責任を押し付けているからだ。

ピユ―リタニズムには、真の「自主独立」の精神からうまれる真の連帯への方向性があると思う。つまりフェロシップ(組合)による連帯だ。その精神は、クリスマスそのものである。クリスマスの小さく無力な赤子の姿にこそ、神の自由な自己犠牲の完全な姿が顕されたからだ。このような信仰なしには、いかなる思想も制度も、真に生きたものにはならないばかりか、逆効果にしか作用しないということを我々はわきまえたい。

 

2014.12.21 「祝・クリスマス」

 

アドベントからクリスマスのこの時期、私たちは預言書や福音書のメシア待望とイエス・キリストの降誕記事を読み返し、今の私たちへの主なる神のメッセージを聴き取ろうとして来ました。みなさんは2014年のこの時にどんなクリスマスの物語を読む事が出来たでしょうか。私の読んだ物語をお聞き下さい。 

マタイによる福音書2章では、異邦から占星術の学者たちが、まっ先に救い主の到来を察知してユダヤにやって来ています。本来イスラエルに約束されたメシアでしたが、当のユダや人たちは全く無関心でした。学者たちの訪問によりヘロデ王は祭司や学者に調べさせ、預言をあらためて確認したのです。そして、こともあろうにそのメシアを殺そうと計ったのです。

2014年、今の私たちの時代と社会に置き換えて読んでみるとどうなるでしょうか。先ず占星術の学者たちは異邦人で、ユダヤ人からみると救いに値しないよそ者であります。そう考えると私たちの社会で切り捨てられていく人々に置き換えることが出来ないでしょうか。ルカによる福音書では、占星術の学者ではなくユダヤの羊飼いたちだけが、飼い葉桶のメシアを礼拝しています。羊飼いたちは、律法を守らない不信仰者で救われない存在とされていたそうです。現在このような人々が私たちのまわりで次から次へと生み出されているように思えます。それらの人々にとってのメシアは、「正義と平和」そのものでしょう。その「正義と平和」を踏みにじっている権力者とは誰か?嬰児虐殺は、あらゆる弱者切り捨て政策による犠牲者たちと置き換えることができるでしょう。権力者だけではありません。権力者にすり寄る民衆も沢山います。ルカによる福音書では、主イエスの出産の場所は馬槽しかなかったのです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:7)。人々は自分のことだけで精一杯であったことが知れます。今回の衆議院総選挙の結果をみても、アンケート調査結果にあるように、憲法9条改訂や集団的自衛権への関心は最も少なく、景気や福祉への関心が第一でした。自分たちのことだけで精一杯なのでしょう。かく言う自分ものこの中に居ます。 

そんな無関心と排除の中で産まれた無垢な赤ちゃんは、あの十字架上の主で、そんな私を赦してくれているのです。クリスマスのお祝いは、異邦の学者や羊飼いたちのように、「全身全霊を献げてひれ伏すしかない」のですね。

 

2014.12.28 「神はこの世を愛されている」

 

 2014年もいよいよ最後の聖日となった。キリスト教では、クリスマスから新年が始まる。太陽暦の暮れと正月とも重なっている。新年への希望を抱くには、過去となるこの1年をどう見定めるかが鍵となってくる。今年はこんな失敗をしたから、新年は!といったようになるのが自然だろう。失敗だけでなく良かったことがあれば、そこを起点として新年は更に向上を目指すといった具合だ。だから過去をどう捕らえて起点としていくかが重要なのだ。

自分自身のこの1年間を問うということと、この世の1年を問うということは不可分であると思う。何故このようなことを言うのかというと、ヨハネ福音書に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)とあるからだ。 

2014年最後の月の14日、まさにアドベントのまっ最中に、現安倍内閣が解散したことにより衆議院選挙が行われた。なんのために、どうして?と、未だにその蓋然性を多くの民衆は理解できないでいる解散選挙であった。

閣議決定した「憲法9条の解釈問題」など、国家の屋台骨となる問題を国民に問うなら納得できるのだが・・・!それにしても投票率の低さ、有権者の関心の低さをどう理解したらよいのか。しかも選挙の結果は、現政権の支持であった。安倍総理は9条解釈も支持されたと受け止め、新年明けての組閣最初の国会で、早速集団的自衛権行使の法整備から始めるとの報道がなされている。

 私たちの社会は、つい先ほどまで「平和の主のお誕生」を祝ったばかりである。しかし現実のこの世は、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」との預言者の預言とは、全く逆方向に突き進もうとしている。これが現実の世の姿なのだ。そして歴史が教えてくれているように、戦争への道は、必ず悲惨な亡びの憂き目を見るのは自明のことなのに! 

 過去の戦争の罪を、罪として認めないこの世。神はそんな世だからこそ、一人も滅びないようにと御子を世に送って、その御心を示してくれたことを心して、新年を迎えたい。

 

2015.1.4 「新戦力ゲットの正月」

 

 暮れから新年にかけて我が家では、子供たちとその家族が集まってくるのが恒例である。暮れには三女美香が子供3人と、長男真実も年末礼拝後から、次女大久一家4人は元旦から集まり、亡き父母の家に入っている長女美穂の山本一家4人などが出たり入ったり。家中に荷物やらプレゼントの本やおもちゃ、おかし、コート類などが所狭しと散乱し、孫たちはひっきりなしに動きまわり、きょう声が響き渡る上に、毎日三食の準備と片付けにとおおわらわである。  

元日には3名程欠けていたが、なんとか揃って年賀状のための写真撮影。その映像と文章の原稿を書いて、長女美穂に原画を作成してもらい、出来た原画を印刷する。ところが300枚位印刷したところでインクジェットプリンタがダウンしてしまった。このプリンタは12年前に大津教会の方から頂いたもので、8色のインクを使用していてカラー写真が奇麗な優れもの、10年以上も重宝してきたがとうとうこの正月に寿命がつきたのだ。

 昼過ぎにどさっと400枚位年賀状が届く。今までお世話になってきた倉敷教会、緑野教会、大津教会、翠ケ丘教会の会員や付属の幼稚園、保育園の園児の保護者などが主な方々だ。中にはどのような関係の方か定かでない方々も多くなり、申し訳ない思いをしながらも毎年やりとりが続いている。

 この時期になるといつも思うのは、「

Xmasカードのやりとりもだいぶしていることだし、Xmasにまとめて挨拶をして、年賀状は止めにしよう」という事。しかし、アドベント中にそれをするのは至難の業で、結局年明けになってしまうのだ。

 インクジェットプリンタはもう1台あるのだが、これは看板などの垂れ幕専用で、カラー写真はもうひとつなので、2日に初セールで開店している量販店に買いに行く。最初に目に留まったのが、今まで使っていた機種の曾孫位にあたる新発売のもの。一緒に行ってもらった、長女美穂の連れ合い、泰二郎君に値切ってもらって即購入。これはA3判カラー写真もプリント出来る優れもの。新年から教会の教務にフル回転で活躍してもらえる新戦力になりそうだ。

 

2015.1.11 平和の主の声

 

 先週のこの欄に対して、「正月早々、新しいジェットプリンタ購入のことだけで内容がない、どうなっているのか」と長女から指摘されてしまった。自分にとってこの時期に起きた頼りの機械の故障は、身動きできなくなるという一大事であったのだが、よく考えてみるといかに自分が機械の虜となっていたかを露呈した格好になり、お恥ずかしい次第であった。そこで改めて新年の所信を語らせていたく。

 12月14日の衆議院選挙で安倍首相は、最も重要な論点である憲法改訂に繋がる安全保障問題(集団的自衛権問題、普天間飛行場移転問題等々)やエネルギー問題(原発再稼働)には一切触れずにいた。そこには彼自身、広く国民一般の支持を得難いという認識が十分にあったからだと思う。選挙後、政権を維持できた結果を受けて、「自身の信念全般が支持されたと思い込んで、従来からの極右的軍国化路線を突っ走り始めた」との論評もあるが、「国民の支持を得たと思い込んだ」のではなくて、したたかな確信犯であると思う。2015年度の防衛費概算要求が過去最高の額4.98兆円と過去最大規模になったと報道されたことはその左証であろう。原発も再開に向けて拍車がかけられていることが、毎日報道されている。彼の言う「経済最優先」の具体化とは、「積極的平和主義」の内容である軍拡である。辺野古のチュラ海埋め立てや、原発安全神話の再構築にみられるような、人の命や生活だけでなく、かけがえのない自然をも犠牲にして憚らないという姿勢が如実に見えると思う。

 「あなたの敵をも赦しなさい」と戒められているキリストに従う私たちは、今こそ、世界中で唯一「戦争放棄」を明文化した現日本国憲法前文と9条に、聖書とキリストの戒めを認めるべきではないだろうか。「積極的平和主義」を言うなら、この憲法によって、実際に70年間戦争せずに歩んできたという事実を大切にし、世界中に誇りを持ってアピールしていこうではないか。この世に向かって押し出されるキリストの教会にとって、そこにこそ「平和の主」の声が響き渡っていると宣教したいものである。

 

2015.1.18 「神の声を聴こう」

 

 今月7日のフランスの風刺メディアに対する、イスラム原理主義に蝕まれた人々によるテロで、17人が犠牲になった事件により、反イスラム感情が欧州をはじめ世界に蔓延しはじめている。「テロ」とは端的にいえば「暴力」のことである。今回のような反権力、反体制的なものを「黒テロル」といい、軍隊とか警察など国家権力によるものを「白テロル」というそうだが、どちらにしても「暴力」の応酬は、悲惨さや苦しみに満ちた「暗闇」にしか向かわないことは歴史が証明している。それが分かっていても、人は暴力を捨てきれない。それほど人間は愚かで罪深い存在である。

 ではどうすればよいのか、グローバル化が進んだ現代は、あらゆることが複雑に絡み合い、何が善であり、何が悪であるのかを単純に判断することは困難だ。そんな私たちの世界ではあっても、聖書の神の言葉は変わらず響いているはずだ。ただ私たちにその言葉はさやかに聞こえてこない。だとすると、御言葉の宣教に使命をもつ教会の存在意義は無いに等しく、それは由々しき事態といわざるを得ない。故にイエス・キリストの求めに応じ、最初の弟子となったガリラヤ湖の漁師ペテロの信仰に、もう一度聞きたい。一昼夜を徒労に終わり疲労困憊して帰ってきた漁師たちにイエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じられる。ペテロは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と実際に漁に戻っていくという、実に驚くべき対応をしている(ルカ5:4〜5)。ルカ福音書は、ここに信仰の出発点があると証しているのだ。私たちは聞くには聞いても実際に行動しない。それでは聞いたことにはならないし、何もしなければ何も起こらないのは当たり前のことだろう。

 14日にフランスの首相パルスがテロとの戦争を宣言したと報道された。アメリカのあの「9.11同時多発テロ」の時にブッシュ大統領が、正義の闘いとしてテロとの闘いを宣言したことと重なる。しかし、果たしてそれが「神の言葉」だったのだろうか。「もう一度沖に出て網を降ろし、漁をしなさい」という神の言葉は、敵である相手にもう一度聞きこうではないか。あらゆる人々と共に生きることの出来る社会をつくっていくために、互いに理解し、和解に向かう不断の努力を止めてはいけない、と言っているのではないだろうか。ましてや「目には目を、歯には歯を」の律法の世界に戻ってしまう事は、神が独り子をこの世に贈られたクリスマスを呪い、全罪人の許しを乞う十字架の購いを拒絶する重大な背信行為といわざるを得ないのだ。このような混沌とした時代だからこそ、ペテロのような純朴な心でもって「神の言葉に聴き従う」ことを祈り求めよう。

 

2015.1.25 「主イエスに贖われている世界なのだから」

 

 先週私のパソコンのE−メイルに二つの要請が飛び込んできた。最初のメイルは20日に同じものが2件、米軍普天間基地移転工事反対運動に関するものであった。宮古島教会平良修牧師の連れ合い悦美姉からの要請(本日コピー配布)である。悦美さんと私が最初に出会ったのは20数年前、私が委員をしていた前教団の牧会者共同研修会(信徒と牧師による)であったと記憶している。その時彼女によって、沖縄の基地問題と教会の宣教が、切っても切れない関係にあることを、あらためて身近に感じさせられた。その後、京都教区の沖縄研修に参加した時に、彼女の勧めで普天間飛行場の一坪反戦地主に、故木村従郎牧師と共に加わり今日に至っている。私の息子が神学生時代に、夏期伝道活動で沖縄に行った時も大変お世話になった。彼女は辺野古の海に日夜へばりついて、反対運動に関わり続けておられる。一昨年に沖縄を訪問した時にも、辺野古で歓迎してくれた。その彼女が今月15日に機動隊に押し倒されて負傷、今までにない暴行を受けた。衆院選以後、このような強権が行使され、危機感を募らせているのだ。新知事翁長さんは就任して間もないが、知事として迅速にこの事態に対処して欲しいので、全国のみなさんにも強力にプッシュをして欲しいという要請だ。私は早速E−メイルで知事室にプッシュをした。また私の関係する人々にも同文を転送して依頼をした。本土では、沖縄で起こっていることは、一部メディア以外では詳しく報道されない。よほど注意していないと、私たちの日常からはかき消されてしまうのが現実だ。ソトナンチュウの呑気さを自分自身戒められる。沖縄の教会が、主の十字架の苦しみと共にあり続けていることから、目を反らせてはならないのだ。

 もう一つは、軽井沢教会古屋博規牧師からのメイルで、現在毎日どのメディアも一色で報道し、大騒ぎしているイスラム国による2名の日本人人質事件に関するものであった。人質の一人が大屋師の友人牧師の田園調布教会の会員であり、覚えて祈ってほしいという要請だ。クリスチャンであるということ以外、その方がどんな方なのか、報道されていることのみしか分からないが、日本政府は本気で二人の解放のために、たとえ相手が理不尽なテロリストであったとしても、直接向かい合って、話し合いの糸口をつかんで欲しい。どのような対立であったとしても、世界の民族や国、民が、憎しみ争い殺し合うような縛りから双方が解放され、平和を来らせたまえと私たちの主に祈る他はない。この世のあらゆる敵意を取り除くために、十字架の死をもって購い主となり続けられている主イエスの姿を、これらのことの中にも探し続けるのが、私たちの使命ではないだろうか。

 

2015.2.1 「人質事件に見る黙示録」

 

 イスラム国による2名の日本人人質事件は、そのうちの一人が殺害され、もう一人の後藤さんは、イスラム国のメッセンジャ−役を負わされている。その安否はいまだ定かでなく、心配で日夜何度となくテレビを見る。

 先週29日に、私のパソコンに「キリスト者平和ネット」からの緊急メールが転送されてきた。政府による朝日新聞パッシングに続いて、テレビ朝日「報道ステーション」へのパッシングが厳しくなってきて、もうもたないという悲鳴も出始めているとの事で、テレビ朝日を励まそうと言う内容だ。このいじめは、去る24日の報道ステーションに出演した元・経産省官僚の古賀茂明さんが、安倍首相の人質事件への対応を分析して「安倍さんの目的は人質の救出ではなく、イスラム国と戦っている有志連合の仲間に入ること」と発言したことに対するものだ。私も安倍首相の「人命第一」発言は、全く信用できないと思っていたので、改めて古賀さんの発言を聞き直してみた。全くそのとおりだと思った次第だ。テレビ朝日に対する嫌がらせ電話攻勢は「テロリストの味方はやめろ」「安倍政権を批判するな」「いつまで原発事故の話をするのだ」「共産主義者集団め」といった内容だそうだ。折しも29日の国会中継(衆院予算委員会)における、人質事件を踏まえての安倍首相の発言は、海外での邦人救出に自衛隊の海外派兵と武器使用を可能にする法整備を進める事に意欲を示し、今回のような人質事件に派兵できるようにするのは国の責務であるいうものであった。まさに24日の報道ステーションで、古賀さんが指摘した通りの総理の姿なのである。黙示録13章に書かれた海の中から登場する獣の姿(豹に似ており、足は熊のよう、口は獅子のよう)が重なって思い浮かんだ。黙示録の「獣」は、神を神とせず、自らを神格化(絶対化)する征服者であり、迫害者であるローマ帝国、ないしは皇帝ネロなどを指すのだが、安倍首相もそんな権力者の様相を呈してきた様に見える。「天声JIGNO」も、この「獣」の子分たちによって「いじめ」を受ける時も間近いのかも知れない。日本の教会が非国民、アカ呼ばわりされたのはつい70年前までであった。黙示録によるとこの「獣」が猛威をふるう期間は42ヶ月だそうだ(13:5)。安倍さんも任期(4年)を待たずに崩壊か?黙示録では「大バビロンの滅亡の幻を見ている(18章)。事実、暴君たちは亡び、AD306年に即位したコンスタンティヌス1世によって、キリスト教が公認された。その間、耐え忍んだ教会や信者の信仰に倣いたい。

 

2015.2.8 「信教の自由」

 

 2.11は1967年に国民の祝日に関する法律で「建国記念の日」とされ、「建国を偲び、国を愛する心を養う」と規定されました。しかし、これはBC660年2月11日に神武天皇という神話上の人物が即位したという伝説に基づく戦前の「紀元節」で、敗戦とともに廃止されたはずのものです。戦前までの天皇制国家は、天皇をこの神話を用いて万世一系とし、文字通り現人神として崇めさせ、国民に絶対服従を強いたのです。しかし、このような体制は明治期につくられたもので、それ以前の日本の天皇制とはまったく異なったものでした。また、そこでは個人の信仰の自由は許されませんでした。キリスト教の神も、天皇という絶対神の下に位置づけられ、聖日礼拝も宮城遥拝から始めねばならなかったのです。ですからキリスト教だけでなく、他の仏教会や宗派神道系もみな迫害を受けたのです。ですから、このような日を「建国記念の日」としたのには、いつかは戦前のような天皇制国家を取り戻そうとする政権の意図があってのことは明白なことでした。 故に、この2.11を「建国記念の日」とすることに、日本キリスト教団は反対し、この日を「信教の自由を守る日」としました。

 現日本国憲法20条で「信教の自由」は保証されています。これは、「�国権がいかなる宗教団体に特権を与えたり、政治上の権力を行使することを禁止。�何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制してはならない。�国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」というものです。

 当時の政府自民党は、この法案と共に「靖国神社国家護持法案」を提出しましたが、これは提出と廃案が繰り返されました。どうしても憲法上無理があるからです。しかし彼らはあきらめていません。2012年4月に自民党は「日本国憲法改正草案」を作成し、天皇の元首化、自衛軍の創設、そして「信教の自由」は一見ほとんどそのままでしたが、最後に「〜ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を越えないものについては、この限りではない」と付け加えられています。

 現在でも町の自治会が地域の神社に組み込まれ、自動的に神社費が徴収され、祭りに参加させられているところも多くあります。「日本人なら皆氏子が当たり前、そうでないというのなら日本人ではない」と言われ縮こまっていなければならない。こんな事があからさまに国政規模で行われたらと思うとゾッとします。いやもうその靴音がしています。現国会で議論されている学校における「道徳教育の教科化」問題においてです。

 

2015.2.15 「2.11信教の自由を守る日講演から(1)

 

 2月11日(水)長野県町教会を会場にして「信教の自由を守る日」集会が北信分区社会部主催で開催された。今回は「福島原発事故後に見えてき日本のカタチ —3.11原発震災がもたらした全体主義国家に向き合う—」と題した、北海道酪農大学教授藤井創先生による1時間半にわたる講演会であった。

 神学者&牧師である藤井先生が、放射能被爆について危機感を持たれるようになったのは、秋田県の教会で牧会している時に、ある2児の母親が綴った小冊子に触発されたからだそうだ。それは1986年のチェルノブイリ原発事故の深刻さを知った著者が、50基も原発を保有している日本の危機的状況を、一人でも多くの人に知って欲しいと綴ったものだそうだ。チェルノブイリ事故から2年を経過した頃で、ヨーロッパから安価なセシウム入りの食品がなだれ込むように輸入されていて、先生もまだ幼かった二人のお子さんをそれらの食品から守る闘いを、始められたそうです。

 今回の講演は、その闘いで得た膨大な資料を駆使してのお話であった。その詳細は彼のまとめられた『原発社会に生きるキリスト者の責任 —いのちを選び取る生き方』(信教出版)に詳しく記されています。是非みなさんも読まれるとよいでしょう。

 講演の要旨は、第一にチェルノブイリ事故を教科書にして、福島原発事故の現実を見るという方法論にもとづき、諸例が示された。例えば、チェルノブイリは広島型原爆の800発分の放射性物質を放出し、30キロ圏内に退去命令が出たのだが、その範囲を越えて広がった汚染により、現在も500万人が「放射線管理区域を越える汚染レベル」の中で暮らしているという事実。その健康被害の拡大や土壌のセシウムがほとんど減っていないばかりか、今後300年間は人体に影響を及ぼし続けることが判明している等である。一方それに比べて福島は、3基がメルトダウンし、4基目も火災により爆発したために、チェルノブイリの4倍に及ぶ規模の超過酷事故であったこと。東京を含む関東一圓には、チェルノブイリの30キロ圏内の強制退去地域の放射線量を越える地域が未だにあり、そこで日常生活が営まれていること。空気汚染のみならず、食物による内部被爆の蓄積は、このまま放置すれば確実に甚大な健康被害となるという恐ろしい指摘もなされ、聞く者一同唖然とさせられた。ここ軽井沢もかなりの汚染状態にあるとのこと。日毎に放射線汚染への恐怖感、危機感が薄れてきていた自分に気付かされた。どうしょうもない、どうすればよいのか分からない、みんなも平気で暮らしているではないか、そんな雰囲気に呑まれてしまっている社会に、強烈な警鐘を与えるお話であった。(次回に続く)

 

2015.2.22 「2.11信教の自由を守る日講演から(2)

 

 先週の天声JINNGOで、今回の講師藤井創先生が、チェルノブイリ原発事故とその後の状況を教科書にして、3.11の福島原発事故を語られた事を述べた。福島原発事故における東電と日本政府の取り組を見るに、その現状はいかにずさんで、まやかしに満ちたものであるかが明かされていた。特に、未だに高線量の放射能を受け続けている福島に、除染は完了したとして被災者に戻ることや住むことを勧める政策は、棄民政策ともいうべきものであると言う先生のストレートな批判は手厳しく、危機感に溢れたものであった。

 講演の後半で先生は、いかに日本の現状が人の命を粗末に扱っているかを、多岐にわたって説明された。原発事故への責任放棄、見捨てられる被爆者、原発再稼働、秘密保護法、集団的自衛権、憲法改正と徴兵制、メディアなどへの言論統制と弾圧、沖縄への暴力、反中国・韓国・朝鮮感情等々。

今やジョージ・オーウェルの小説『1984年』の世界(戦争は平和なり、自由こそ隷従、無知こそ力の世界)が現実化していると。我々はこれを克服して「自分で考え、判断し、行動する」自由な生き方へと、自己転換していかねばならないと。

 このような時代だからこそ、教会は大いなる使命を果たしていかねばならない。それは「原発社会に生きるキリスト者の責任」である。なぜなら、人の命がもてあそばれ、いとも軽くされていく時代とその社会であればある程、「命を選び取る生き方」を求めていくのが聖書におけるイエス・キリストの福音であるからだ。先生は「命を選び取るのは、箱船に乗り込む少数派の生き方である」と言われた。また、辺見庸の言う「内なるファッシズム」、つまり強権による政治が作り出す社会に、無批判的に身をまかす生き方を克服させていくために、キリスト者は召されていることを喚起せねばならないという。以上が私なりに受けとめた先生のお話の要約である。

 18日から主の受難節に入った。私たちの慕いまつる主イエス・キリストは、少数者というより、この世から、弟子たちからさえも捨てられ無とされたのだ。「0」が流行っている今日だが、主イエス・キリストこそ「0」の元祖ではないか。その「0」を主と信じるキリスト者であることを自覚し、常にそこから出発したい。

 

2015.3.1 「主の受難節と私たち」ルカ18:1-14

 

■先週18日から受難節(レント)に入った。イエス・キリストの受難から十字架の死まで46日間続く。この間は主の受難を覚えて祈りと節制の生活をする期間だ。教会では結婚式やめでたい行事などは避け、信徒は贅沢を遠ざけ、あらゆる生活の節制、節約を心がけ、レント克己献金をささげることが奨励される。最近はレントや受難週を覚えての連続祈祷会などする教会が少なくなってきたし、当教会でもなにもしない。結婚式の申込があれば受けているが、名々の仕方でこの受難節を覚えたい。

 私が幼少の頃から高校を出るまで、聖ヶ丘教会では受難週には毎日早朝30分位の祈祷会があり、終わったら一同で簡単な朝食をとり、それぞれ学校や会社等に出かけたことは昨日のように想い起こす。また復活日の日曜日には、受難劇などのページェントを演じたりして、クリスマスと同じように祝ったものだ。主の受難を覚えて日々を過ごすということは至難の業である。しかし、幼少の頃からこのような経験する事は、生涯に渡って記憶から失せることはないのだから、受難週の祈祷会などの教会教育はクリスマス行事などと合わせて大切な要素であると思う。私たちの教会ではどのように具体化できるかは今後の課題であろう。

■さて、受難節での克己のありかたは、ルカの主に言わせれば、「へりくだり」への奨めである。もともと礼拝そのものが、神を前に己を低めてひれ伏す行為である。神を愛するということは、神を最大限に高めることである。そして対峙する自分を最大限に低めることだ。しかし私たちは神にはひれ伏しても、隣り人にはそうは行かない。どうしても高ぶって相手を低めよう低めようとしてしまう。ちょっと気の強い人同士だと、どうしても張り合ってしまう。自己主張を果てしなく続けどうしても一歩引き下がることが出来ない。たとえ体裁上はしても、内心は決してそうではない。だから他者には「へりくだり」を求めても、自分に対しては断じてそうではない。それほど自分自身が「へりくだる」ということは至難の業なのだ。主は、ある律法学者が永遠の命を得るためには何をしたらよいとの問いに、逆に彼に、律法には何と書いてあるかと尋ねる。彼は申命記やレビ記に書いてある、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」と答えると、主はその通りだ、ただあなたは行ってそのとおりに実行しなさいと言われている(10:27—28善いサマリア人)。

 神をどれだけ愛し、神にひれ伏していても、それと同じように「隣人」に対していなければ、神を愛していることにはならないのだ。主の御受難の姿を見つめることは、私たち自身の真の姿(高慢さ)を見つめ、悔い改める時でもあろう。

 

2015.3.8 「信仰無き時代に」

 

 「差別」の意識というものはそう簡単に消し去ることは出来ない。先週も某大臣が「派遣労働者は物」と言って、国会で謝っていた。人の意識に無い物がいきなり出て来ることはない。差別意識は個人には由来しない。その人を取り巻く社会環境からの影響が大きいことを知らねばならない。部落差別は言うまでもなく、沖縄差別もそうだ。辺野古基地移設問題で顕著に差別の牙がむき出しにされている。こんなことは本土では絶対に許されないのに、それがゆるされてしまっているのは、政府や米軍のみならず、本土の一般の日本人にも「沖縄差別」が身にしみ込んでいるといわざるを得ない。沖縄人ではない私自身にも確かに染み込んでいる。だから自分は決して差別者ではないと言い張るひと程始末に負えないのだ。まして自分はキリスト者だから絶対に差別はしないと言うことは出来ないのだ。それほど「差別」というものは根強くやっかいなものなのだ。せめてそのことを知り自戒出来ることが大切だろう。

 「信仰」とは一体なんなのか。「信仰」しても何か良いことがあるか、現実逃避だ、自己満足だなどと、「信仰」することへの消去的評価が一般的であろう。しかし私は、キリスト教信仰における「信仰」は、この世に無くてはならない「塩」であり「光」であることを信じて疑わない(マタイ5:13、14)。一般的に「希望」「夢・幻」「理想」などという概念も、すべてこの「信仰」に含まれていると考える。そしてこれらの言葉はいつの時代にも、人間社会の原動力となってきたし、今なお有効なエネルギー源である思う。しかしながらこのエネルーギ源が枯渇しかかっているのが今という時代で、その状況は深刻であることを知らねばならないだろう。

 我が日本基督教団という合同教会も、昨年10月末に開催された総会報告とその後の状況を見ると、みごとに政府と同じような「沖縄差別」政策を完遂していると思う。なによりもその内向な宣教姿勢は「世の塩、世の光」たらんとする信仰を放棄したかのように思える。つまり「信仰」の枯渇化ではないだろうか。ヘブライ人への手紙で「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」と言われている(11:1)。わたしたちもここでいわれている昔の人々の「信仰」にたちもどり、光を灯し続けたい。

 

2015.3.3.15 「自分の十字架を背負って」

 

 本日は主の受難節第4主日。5千人の給食の物語の後、イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い、ペテロが「神からのメシアです」と答えている(ルカ9:20)。これは弟子たちによる最初の「信仰告白」である。「信仰告白」とはこのように明瞭簡単に一言でいいのだと思う。私も少年時代堅信礼(小児洗礼を受けた者が自覚的に信仰告白をする儀式)に際して「イエスさまは主である」の一言で良いのだと指導を受け、「信仰告白」もこの単純明快な主語動詞目的語の三句で済ましたことを覚えている。大衆伝道者スタンレ—ジョンズの宣教の核心もこの3句で、三本指を高々と挙げて「JESUS IS LORD」と叫んでいたことを昨日のようにありありと思い浮かべる。

 さて、3.11による自然災害と原発事故による被爆災害は忘れてはいけない受苦の現歴史である。これからもずっと被災者のみならず全国民が負い続けていく「十字架」となったのである。イエス様は「神からのメシアです」というペテロの信仰告白を受けて、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(ルカ9: 23) と促している。そしてイエス様が自分のお弟子だけでなく、自分を迫害し殺す者たちの救いを祈り求めて十字架で死んでいったことを思うと、全人類がイエス様に従うべき弟子であるということになる。「自分の十字架を担って主に従う」というのは人類普遍の道徳律であるということでもあろう。4年前の3.11のみならず、1995年1月17日の阪神淡路大震災も然り、70年前の第二次世界大戦(太平洋戦争)における敗戦というばかりでなく、それ以上に日本の侵略戦争とその結果も然り、これらの負の遺産こそ、主イエスに従う弟子の背負うべき負の遺産であることを知らねばならないし、キリストの教会はそのことを宣教することが主によって託されているのだと思う。

 

2015.3.22 「どちらが積極的平和主義か」

 

 17日に「NPO法人小諸いずみ会」元理事を長く務められてきた大久保進牧師の訃報が届いた。同会はカルト宗教からの救出に関する働きを目的としていた。マインドコントロールされた方やその家族のカウンセリングのための宿泊施設「いのちの家」が2002年に小諸に建設され、引退牧師川崎経子先生が所長をされていた。大久保牧師は当初からこの計画に参加し、自らも救出の陣頭に立たれていた。私はこの地に赴任した翌年頃から、この法人の会計監査役を仰せつかり、その後も会計理事を続けている。所長の川崎先生が3年前に急逝されて以来、「いのちの家」は活動停止を余儀なくされ、法人そのものも今年度末に解散するはめに陥った。働きそのものは、白河教会の竹佐古牧師が主宰している同種の活動「白河レッツ」と合体し、本拠地もそちらに移すことになり、引っ越し作業もすでに終えている。

 カルト宗教といえば、現在オウム真理教の幹部の裁判員裁判が続いているが、地下鉄サリン事件から20年経っても、彼等は多岐に分化し名前を変え、新たな教団として存続し、信者たちも増え続けていることが最近報道されている。「真理」のためなら殺人をも辞さないという反社会的カルト宗教の信者にとって、教祖の麻原彰晃はまさに神と等しい救世主そのものなのだろう。何故彼らがそのような反社会的要素をいくつも持った宗教に惹かれるのか未だに解明されていないが、現代とその社会の闇の部分が大いに関係していることは確かなことであろう。

 折しも今は主イエスの受難節。キリスト教信者にとって、主イエスは神と同等の絶対的メシアである。その主も反社会的罪で処刑された。その後の信者たちは長きに渡って迫害を受け続けた。それでもへこたれず根を張り続けた。果たしてオウムの信者とキリスト教の信者とどうちがうのだろうか。現在は他方においてイスラム教原理主義によるイスラム国なる集団が台頭し、世界中から凶悪なテロ集団として批判されている。そして彼らの人質殺害に対して、周辺国や西側から彼ら以上の容赦ない報復がなされている。イスラム原理主義から見ると、西側のキリスト教原理主義(米国の超保守的キリスト教)こそ悪の元凶なのだ。お互いの絶対正義の衝突だから相手の撲滅しかあり得なくなるのは当然だ。まさに己の正義観を絶対視するところに、悪の根源が潜んでいるのだ。私たちの信仰は絶対曲げられないものであるが、だからといって他宗教や他の価値観に生きている人々を「悪」として排除するものであってはならない。このことは主イエスのご受難に学ばねばならないところだ。主イエスは人々からの誤解や敵対を受け、愛する弟子たちからさえも裏切られたが、最期は自らの使命として「積極的」に十字架に登っていかれたのだ。主は「敵を愛せよ」「剣をもつものは剣によって滅びる」と戒めている。そして十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」と叫んで死んでいかれた。

 安倍首相のいう「積極的」平和主義は、主イエスを十字架に追いやった権力者のまやかしそのものである。そこには、実は「平和」のかけらもない。「戦争とあらゆるものの破壊」による荒廃以外意味しない、虚しい響きを聴き取っていかねばならないだろう。

 

2015.3.29「受難週瞑想」

日曜 エルサレム入場/いちじくの呪

マルコ11:1—14 マタイ21:1—9  ルカ19:28—44 ヨハネ12:12—19

ルカのエルサレム入場は控え目だが、それでも人々や弟子たちは、主が初めての都でいよいよ旗揚げすることを確信していたことだろう。今私たちはどんな期待をもって主と共に歩んでいるだろうか。

 

月曜 神殿から商人を追い出す 

マルコ11:15—19 マタイ21:12—17 ルカ19:45—48 ヨハネ2:13—22

主イエスは、神殿は「祈りの家」であるべき神殿を「強盗の巣」にしたと激怒している。「祈り」は先ず主の言葉を待つことから始まる。私たちの「祈り」はどのようにささげられているのだろうか。

 

火曜  論争・譬え話・週末の預言

マルコ11:20—13:37 マタイ18:1—26:5 ルカ20:1—22

イエスの言動の出所が何処なのか、今日の教会の権威は? 教職者の権威は? 信仰者の依ってたつ根拠はどこに? この世の権威の姿を天の権威に投影させてはいまいか。

 

水曜  暗殺計画・ベタニア・裏切り

マルコ14:1—11 マタイ26:6—16 ルカ7:36—39(22:3—6) ヨハネ11:45—53

経営者は集客や売り上げ、評判などに極度に神経を使う。神殿の指導者たちもそうだった。現在の教団の指導者たちはどうなのだろうか心配だ。では私たちの教会ではどうだろうか。

 

木曜  最期の晩餐・ゲッセマネ・逮捕

マルコ14:12—72 マタイ26:17-75 ルカ22:7-65 ヨハネ13:21—30

水野源三の詩に「ナザレのイエスを十字架にかけよと要求した人 許可した人 執行した人 それらの中に私がいる」というのがある。今の私たちはどこにいるのだろうか。

 

金曜  裁判・十字架・埋葬

マルコ15:1—47 マタイ27:1—66 ルカ22:66-23:56 ヨハネ18:28—38

「死の力」は目に見える範囲ではこの世で最大級のパワーだろう。「死の力」の前にひれ伏さざるを得ないのがこの世の常である。しかしこの「死の力」と真っ向から対決できた唯一の存在が主イエスだ。捨て身で相手の力を利用して逆にやり返す柔道のような方法でだ。そんな主の姿を女のお弟子たちはやがて空虚な墓前でたたずみ見ることになるのだ。