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天声JINGO アーカイブ

2013年度10月〜

2013.10.6 「コントロール考」

 

安倍晋三総理が、東京オリンピック招致で、「福島第一原発の汚染水漏れ」への国際的懸念に応えて「原発は完全にコントロールされている」と断言して以来、この「コントロール」という言葉がとても軽いものになってしまったような気がする。

「コントロール」は日本語では統制、管理、調整である。「コントロール」は創世記における主の天地創造のクライマックスだと思う。なぜなら神の創造の業の仕上げに人を創造して、主ご自身がそれを見て「極めて良かった」とした万物すべてを人に委ねているからだ。創世記には『主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:15〜17)。すなわち、人は主なる神の創造の秩序を守るという仕事(耕す)に専念せよとのご命令なのだ。ここに「コントロール」という語彙の真髄があるのである。

 福島第一原発事故は終息したと前民主党政権の野田総理もはやばやと原発事故の「終息」宣言を出したが、だれもそれを信じた者は居なかった。今回の安倍総理の汚染水「コントロール」発言も誰も信じていない。ここには「コントロール」という言葉の意味の逆転があるだけなのだ。

 これは、主なる神の命に背き、禁断の「善悪の知識の木」の実(原始力)を取って食べ続けている人間の罪の姿なのである。行き着く先は「必ず死んでしまう」という場所なのである。

 禁制を犯した人間が受けた神の死刑の執行はどうなったのだろうか。人には何故寿命があるのかということの答えが、この「禁断の木の実」物語なのだろうが、実は人がその寿命が尽きるまでの間のいわば「死刑執行猶予期間」があるということの認識が大切だと思う(創世記3:14〜19)。

 人々の間に敵意というストレスが置かれ、女は産みの苦しみ、男は顔に汗する労働という服役に処せられていることだ。

 そのようにして、主なる神が見て「極めて良かった」創造の秩序が保たれているのである。そこでこの世で服役している私たち人間が得るものは、ペテロの手紙が言っているように、神の御心に沿うように自分自身を「コントロール」し、本来のエデンの園に戻されることなのだろう。(ペテロの手紙4:1〜11)

 

2013.10.20 「宣教する教会」

 

 結婚式の当教会への申込が激減している。これは軽井沢全体でも同じらしい。ちなみに今年度は7件止まりで、過去最低である。その上最近は急な挙式希望傾向が強くなってきている。当教会では最低半年以上まえから日程を決めてもらい、その間礼拝出席にもつとめてもらい、「心の準備」をしていただいている、いろいろな事情で急を要する場合でも3ヶ月前がギリギリの条件である。今年の場合、そのぎりぎり組を入れて、この10月に集中してしまった。その結果本人たちが心静かにじっくりと主の前に心の準備をして臨んでいただけたかどうか不安が残ったのだ。

 当教会が、キリスト教のキの字も知らない方々の結婚式を引き受ける理由はただひとつで、聖書の人間観、夫婦観、愛についての教説を知っていただき、彼らの結婚生活に少しでも奉仕したいという点である。

 たとえ、教会での挙式希望者が減ったとしても、例えば今年度7件ということは、少なくとも14名の未信者の方々への宣教のアプローチが出来たということなのだ。日本的異教社会の中で、教会の門をたたく人は稀にしかいない。大都会の人口集中地域でもそうなのだから、ここ軽井沢という日本屈指の別荘地にある教会に求道して来る人はほんとうに稀にあるかないかというところである。だからこそ、当教会の使命は「音楽伝道」であり、未信者の結婚式受容なのである。年間14名の方々に聖書の話(挙式ガイダンス)が出来ることを、これしかではなくて、これだけと受けとめ感謝し、喜びをもって奉仕したいのである。

 このことは教会が外部の方々と接触できる他の働きについても同じ事が言える。それらの働きが多分に趣味別のサロン的交わりの場であっても、それは得難い宣教の最前線であることに変わりはないのであって、信者(教会員)はそこに遣わされている宣教師であるとの自覚をもっていただきたい。「奉仕」することは「宣教」することだとの緊張感を持ちたいものである。先週「秋の伝道讃美礼拝」でのテキスト、テトスへの手紙2章をもう一度読み直し、我々一人一人への使徒パウロからの勧告と受け止めたい。

 

2013.10.27 「カインとアベル」

 

 創世記4章のカインとアベルの物語では、彼らの両親のアダムとエバの夫婦関係に続く人間の根源的罪の問題が捉えられている。アダムとエバは人類最初の夫婦間での責任のなすり合いであり、カインとアベルの兄弟殺しも人類最初の殺人事件である。「最初の」というところにあらわれているように、それは時代を超えて人間が克服していかねばならない真の幸福追求のためには避けて通れない問題であるということだろう。

 カインは農耕を生業とし、その最初の「実りを主のもとに捧げものとして持って来た」のは天の恵みに感謝をささげるという率直な信仰行為であったはずであるし、弟のアベルは牧畜を生業としていて「羊の群れの中から肥えた初子を持ってきた」。二人の主に対する感謝を献げる礼拝行為は何の差もないものであったはずである。ところが問題は、両者が主の前に跪いた時に起こった。それは、主はカインとその献げ物には目を留められず、弟アベルの献げ物に目を留められたというのである。その結果カインは「激しく怒って顔を伏せた」とある。その姿を主はとがめられて、カインが罪に捕らえられてしまうだろうと警告をする。そしてカインはその言葉通りに、弟アベルを殺してしまうのである。罪に捕らえられた者はそれが主の勧告の言葉であっても聞く耳を失ってしまうのだ。

 そこでわたしたちは、何故主なる神はアベルの献げ物を顧みて、カインの献げものを顧みなかったのだろうかと疑問に苛まれるのである。何回この物語をひもといてみてもすっきりとしないのである。だからこそ人類にとって永遠のテーマともいうべきものがそこに潜んでいるのだと思う。例えば、有名なジェームス・ディーンが主演する「エデンの東」という映画はこの問題に取り組んだものであるし、人間の「罪」の問題は様々な文学のテーマとして世界中で取り組まれてきていることが、そのことを物語っているのではないだろうか。

 安倍晋三首相は「積極的平和主義」という理念のもと、近隣諸国の日本への脅威を煽りアベノミクスなる「富国強兵」政策を強引に推進しようとしているが、まさにカインのアベルへの憎しみが、自分の道徳観、価値基準で見て、主なる神の御心に目と耳を向けることを怠った事の結果ではないだろうかと懸念が深まるばかりだ。

 

 

2013.11.3 「先祖供養」

 

日本人の死者に対する感情というか観念というか習慣というか、「先祖供養」ということがあります。多かれ少なかれ私たちも影響されていることではないでしょうか。「供養」とは供に養うことを意味している。すなわちこの世とあの世の魂のふれあいの確認だといわれています。そのために一巻の供養の経があげられるのです。それは仏、菩薩、諸天(神々)などに香華、灯明、飲食などの供物を献じます。日本の民間信仰では死者、祖先に対する追善の供養ということが多いということです。これから派生して仏教とは関係なく「死者への対応」という意味で、広く「供養」と呼ばれているようです。「永代供養」というのがありますが、お墓参りに行けない人に代ってお寺や霊園が永代に渡って管理や供養をしてくれる埋葬方法のことです。供養しないと死者の霊が成仏できずに、その辺をさ迷ってしまうということで、この供養が重要になるわけです。また、供養をちゃんとしないと、この世の家族に災いが降り掛かるなどの脅迫観念から供養をする向きもよく聞くことです。ですから、私たちの内面においてもこのような日本的感情が深く影響していることは否定できません。教会でも納骨堂が設置されました。いわば永代供養的方法であります。

では聖書の信仰における「死者への対応」は日本的供養の対応とどう違うのでしょうか。

時々電話を下さる年配のご夫人がいらっしゃいます。私は直接お会いしたことはないのですが、クリスチャンではないけれどもキリスト教には相当感心を持っておられる方です。数日前にもお電話がありました。今回のお話は、ご自分はご先祖への敬愛の念を顕すのは当然と思うのだが、教会(あるクリスチャン)は、先祖のことよりも神のことを大切にせねばならないと言う、これはどうも釈然としないという内容のものでした。いつもこの方は延々とお話をなさるので切り上げるタイミングが難しいのですが、この時私は先祖を大切にすることと、主なる神を第一にすることを並列に論じることの愚かさをお話しし、祖先を大切にすることを聖書は否定していないことを述べた上で時間切れを宣告し電話を切りました。皆さんはどうお考えでしょうか。

 

2013.11.10 「浅間山麓考」

 

5日の信濃毎日新聞に「軽井沢浅間演習地反対運動から60年 —平和への思い今も強く—」という見出しの記事があった。なんと敗戦から8年後に浅間山麓を米軍の演習地にしようとする計画があったのだ。9条の会のメンバーでもある追分在住の荒井輝允(てるのぶ)さん82才が反対運動の先頭に立ったことなどが記載されている。実はこの運動については数年前に9条の会新年会で、ご本人から詳しいお話を聞いていたのだが、このように新聞記事になると幅広く知ってもらえるので嬉しい限りである。この米軍演習地計画は群馬の妙義山麓とセットだったので、もしあの時演習地になっていたら、ここ追分地区は現在でも米軍と自衛隊の演習地であるだろうし、隣の妙義(安中市)とともに広大な軍施設や関連施設の地域となっていて、今のような自然豊かな高原のリゾート地、日本屈指の別荘地とはならなかったことは想像に堅い。

毎年8月1日には軽井沢町挙げての「軽井沢ショー祭」が行われる。英国聖公会宣教師アレキサンダ−・クロフト・ショーが125年前(M21)に軽井沢に別荘を建てたことから、今日にいたる日本屈指の避暑地として発展したことを記念しているのである。これからは、ショー祭の時には、是非「浅間演習地反対運度」のことも記念してほしいものである。もし60年前に米軍の演習地となっていたら、今の軽井沢銀座や追分宿などは米軍兵相手のバーや店が乱立したネオン街となっていたであろう。そして沖縄をはじめとする日本各地の軍事基地周辺と同じように、絶え間なく様々な事件が起こっていたであろうと思とぞっとする話である。戦後のまだまだ戦勝国に対してものを言えないような時代に、「ノー」と言えた気骨を受け継いでゆきたいものである。そして「日米安保条約」を「日本国憲法」に優先させ、軍国主義へと加速させている現在の日本の政治に対して、人権平和の観点から、はっきりと「ノー」と言って行く事が、ショーから始まった避暑地軽井沢の歴史的責任ではないかと思うことしきりである。皆さんはどう思われるだろうか。

 

2013.11.17 「故郷なる教団・教会」

 

現在教団免職処分を受けている北村慈郎牧師は紅葉坂教会の出身、東京神学大学の卒業生です。同教会は1893年創立の旧組合教会(会衆派)で、現在放映中のNHKドラマの主人公新島八重の夫新島譲によってもたらされた会衆派の教会観と、同志社大学卒業生による伝道牧会によって形成されてきた教会です。

前任者の岸本洋一牧師は「部落解放運動」にも熱心に関わり、「神奈川県同和問題に取り組む宗教教団連帯会議」の設立の先頭にも立たれました。また地元横浜寿地区で日雇い労働者や野宿者への支援活動などにも取り組まれ、北村牧師も神奈川教区の寿地区活動委員会代表を務めてこられました。紅葉坂教会が地域の貧しく弱い立場におかれている人々へ寄り添い連帯していく姿勢の中から、いわば宣教の最前線で文字通り生きるか死ぬかという闘いをしている人々の真ただ中で、決断し選んだ礼拝のあり方がオープン聖餐であったと、同じ神奈川教区の翠ケ丘教会時代から見続けてきた私は理解しています。紅葉坂教会は岸本洋一牧師時代から、長年にわたって議論や研究を重ねた上で、オープン聖餐を教会総会で決議するに至ったのです。

これに対して教団は、当該牧師や教会への事情聴取や、オープン聖餐への議論などを一切することなく、またそのことへの要請にも応えることなく、当該教区や教会を飛び越えて北村牧師を「免職」としました。これにはオープン聖餐に反対する立場の人さえも頭をかしげています。

2008年10月に新教出版社の信教コイノニア24『聖餐−イエスのいのちを生きる–57人の発言』が出版されました。私たちの教会の聖書を学ぶ会でも当時一年以上をかけてこの本の読書会をしました。ここにオープン聖餐に対する多種多様な考え方や実際が記されています。これこそ嘘偽りのないオープン聖餐の証言集です。にもかかわらず、何故教団は北村牧師一人を処罰の対象とするのでしょうか。57名の方々の信仰的背景は決して旧組合教会ばかりではありません、8割は他教派的伝統をもつ教会や神学校の出身者たちです。

各個教会の主体性(自主独立)により、教会の伝統や習慣という殻が否応無く破られていく。そしてそのことの多様性を受入れ合うところに合同教会としての日本キリスト教団のよさがある。教団が私の故郷である所以がそこにある。

 

2013.12.1 「待降節(アドベント)」

 

本日より今年の待降節(アドベント)に入る。アドベントは英語で�キリストの降誕日(クリスマス)前約4週間、祈りと断食の時期とされてきた。またクリスマスはキリストの第二の到来である再臨(最後の審判の時=終末)にも心を向ける期待と喜びの期間でもある。したがって復活祭前の四旬節(レント)と同様にこの期間は贅沢を慎む節制の時であり、結婚式なども行わない教会もある。「救い主への待望」がどのようなものであったのか聖書の証言を思い起こしてみよう。

「初めに、神は天地を創造された。地は混乱であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」 (創世記1:1〜3)

「地は混沌としていて、闇に閉ざされていた」それは現在の私たちの世界そのものではないだろうか。28日の信濃毎日新聞に、27日に衆議院で強行採決された「特定秘密保護法案」について長野県の知事と77の市町村長へのアンケート調査の結果が掲載されていた。それによると「賛成」5、「反対」15、そして「何とも言えない・分からない」が知事や軽井沢町長も含めて55であった。県市町村の長にして大多数が「分からない」という状態は、社会全体が混沌として闇に閉ざされているということではないだろうか。混沌とした闇夜の世界にとって、全てを白日の下に照らし出す「光」の到来こそが、唯一求められていた救いの姿であったのだ。

新約聖書ヨハネ福音書でも同様の証言が見られる(ヨハネ1:1〜5)。暴君ヘロデ王の圧政と腐敗した神殿の混沌とした時代の中で、人々はどれだけ暗闇に閉ざされていたことか、そして「光=救い主」の到来が待ち望まれていかが伺い知れる。

やはり28日の信毎のトップ記事だが、「陸自独断で海外活動」との大見出しの記事、既に軍部の独走があり、「秘密保護法案」が成立すれば、このようなことを暴きたり裁いたりすることも出来なくなると批判している。もうすでに私たち日本はとっくにこのような具体的な「闇」に覆われてきたのであり、その「闇」はますます深まっていくばかりではないだろうか。先ず私たち自身が「暗闇に閉じ込められていることを自覚せねば、クリスマスも何もあったものではないだろう。私たちは今年のクリスマスをどのように迎えようとしているのか、あなたの「暗闇」はどのようなものなのか、じっくり自省するアドベントでありたい。

 

2013.12.15 「平和の君」

 

先々週のこの欄で言及したことは、我々人類は常に混沌として闇の世界に覆われやすい存在であるからこそ、常に「光」の到来を待つ存在であるということであった。 現在我々は「平和」なのだろうか。 「平和」ならこれ以上「光」を待つ必要はないと思うが皆さんはどうお考えだろうか。そうだとするとアドベントは無駄な営みということになる。

 ここで大切なことは、聖書が人類始まって以来を総括して、人類の求めるところのものが何であるかを指し示していることを真摯に聴く事だと思う。そのことを端的に表わしている言葉が「平和」(シャローム)であると思う。この言葉は、家族、共同体、諸民族のあいだで交わされる友好的挨拶の言葉である。それは「物心両面における調和と互恵という社会的政治的原則が意味されている」言葉であると岩波キリスト教辞典にある。

予言者エレミヤが神殿の指導者たち(政治的宗教的)が、神殿があり律法があるから我々は「平和」だと言っていることを痛烈に批判して、『彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、「平和、平和」という。』(エレミヤ書6:14)と嘆き糾弾し、国家の破滅、神殿の破壊を預言した。それに対して指導者たちは聞く耳を持たず予言者たちを迫害した。しかし預言通り、エルサレムは陥落、神殿は破壊され、民はバビロニア捕囚の憂き目にあった。

「シャローム」と挨拶する今日のキリスト者(キリストの教会)は、この予言者的使命を負ってこの世への宣教に遣わされていることを忘れてはいけないだろう。

今の日本の政治の状況もエレミヤの時代と同じように思える。もしキリストの教会はこの世の政治経済の状況とは関係ないと考えるならば、それは大きな誤りであるだろう。エレミヤの時代のような専制君主の時代だけではなく、民主主義の世の中であっても状況は同じなのである。先日国会では「特定秘密保護法案」の強行採決があった。これも民主主義の仮面の下にとんでもない専制的怪物の姿が透けて見えたと言えるのではないだろうか。

だからこそ、「平和の君」と言われ、山上の教えで「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)と教えられた主イエスを待ち望み、受入れることの意義は大きいのである。Xmasはこのイエスをキリストとして礼拝することなのだから。

 

2013.12.22 「メリー・クリスマス」

 

クリスマスシーズンになるととても嬉しくなります。何故なら日本中で祝ってくれるからです。飾り付けやプレゼントの準備に追われることもワクワクすることです。町中に流れるクリスマスソングの数々にも気分が盛り上がります。雪がタイミングよく降ってくれたら、もう言う事なしです。でも25日が過ぎたら日本中が大変身、クリスマスのクの字も見当たらなくなり、すっかりかき消されてしまう光景には毎年寂しい思いをしていますし、今年も覚悟せねばならない事なのでしょう。クリスマスといえども一瞬の輝きとしか捕らえることの出来ないのが「この世」の現実かも知れません。

 世界で一番初めのクリスマスの模様は、いうまでもなくマタイ、ルカ、ヨハネによる福音書にありますが、それは一様ではありません。マタイで一番初めにクリスマスを祝った人々はなんと異邦人の占星術の学者たちだけですし、ルカでは荒れ野の羊飼いたちだけです。ヨハネでは極めて形而上学的とらえかたで、神である「言」が「肉」となったとしています。そのようにクリスマスは様々な受け止め方があるということなのです。要は自分たちにとって、何処でクリスマスの出来事が起こったかということだと思うのです。例えば、マタイとルカでは、ヨセフとマリアの間に出来た子供は、肉によらない、この世的にいえば不貞の子であり、ヨセフとマリアは世間に顔向けが出来なかった存在であったと思うのです。更にマタイでは、東の方から来た占星術の学者たちです。彼らは聖書の救いからは排除された異邦人でありました。ルカに登場する荒野の羊飼いたちも、ユダヤ人ではあっても、安息日規定を守れない罪人とされ、社会の隅に追いやられていた人々でした。しかもマタイでは領主ヘロデによる嬰児虐殺の危機の只中でしたし、ルカではマリアの賛歌では貧しく身分が低い者に目を留める神が、ザカリアの賛歌では「暗闇と死の陰に座している者たちを照らす」出来事として捕らえています。ヨハネも「暗闇に輝く光」としています。

そうです。これらの事から、ほんとうのクリスマスは、この世が忌み嫌うところが「聖」とされる出来事だと言えます。私たち個々人にしても、自分の一番いやなところで起こる出来事なのですね。自分たちの一番嫌なところを受け入れるなら、そこが「聖」なる場所とされるのです。そこに神の祝福が満ち溢れるのです。

だから、本当のクリスマスは、寒く、汚く、臭い家畜小屋が美しく、暖かく、美しい輝きに満ちた絵になるのでしょうね。日常の礼拝もこのようにありたいものです。

 メリー・クリスマス!

 

2013.12.29「一年を振り返って」

 

今年も全国各地の親愛なる兄弟姉妹たちからクリスマスのメッセージを沢山頂いた。その中で、横浜市青葉区在住の、神奈川教区の仕事をご一緒した兄弟夫妻からいただいたメッセージの最後に“最近この国全体に不気味な黒雲が漂い始めています。私たちはこのような時にこそ決して小市民的な生き方に甘んずる事なく、強い洞察力と批判的精神・反骨精神を培い、社会人として責任を果たす努力を続けたいと考えています。”と述べられ、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ福音書2:11〜12)が添えられていました。私は、今年のイブ礼拝はルカによる福音書のクリスマスを取り上げましたが、今年程「飼い葉桶の主イエスと、荒野の羊飼いたち」の場面に引きつけられたことはありませんでした。 

今年一年を振り返って特筆すべき、そして嘆かわしいことといえば、愛する祖国の現行「平和憲法」が無にされるような事が、つまり日本の軍国化への道筋がはっきりと見えてきたことであると思います。現行憲法前文で、過去の戦争への深い悔い改めと世界平和への崇高な理念を謳い揚げ、9条で戦争放棄、軍備の放棄を誓っていることは、「聖書の平和主義」そのものであるからです。旧約の予言者イザヤは終末の平和の姿を「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ書2:4)と預言しています。主イエスもこれを受けて、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)と教えられ、逮捕される時に、弟子たちに「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26:52)と暴力による問題解決を否定しています。

ルカのクリスマスは、馬小屋の弱く貧しい無力そのものの赤子を誰も見向きもしませんでした。ただ荒れ野の羊飼いたちだけが祝福したのです。すると、なんとそこが天使の歌声が響き渡る場所となり、この世でもっとも暖かく明るい場所となったのです。この世の暗闇が増せば増す程、キリストの教会は、小市民的な生き方に甘んじることなく、荒れ野の羊飼いとしての本領を発揮する時代へと突入したのだと強く思わされる一年でした。

 

2014.1.5「光あれ」

 

「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」 (創世記1章1〜3)

 クリスマスと共に始まる2014年という主の創造された新しい年明けをお祝い申し上げます。今年こそ全世界の人々が、創造主の与えて下さった闇に輝く『光』に照らし出され、未来への明るい希望に生きる事ができるようにとの祈りをもってみなさまと歩み出したいと思います。

みなさまはどのような抱負を抱いて新年をお迎えでしょうか。年末の30日に東京株式市場の大納会では1972年以来の株価上昇率を得て、安倍首相も参加し、ほくほく顔で「来年もアベノミクスは買いだと宣言したい」と述べたそうです。

アベノミクスの本質は福祉や高齢者医療保障切り捨て、増税と巨大な借金によるものであることは修正予算案を見ると誰の目にも明らかでああります。東日本大震災の復興もかけ声だけは大きいのですが一向に進まず、福島第一原発事故の原因もはっきりしないまま、また廃炉や核廃棄物の最終処理の見通しも立たないまま、今まで通りの原発事業推進が国是とされていくことに何の歯止めもきかない。そこでは貧しく、弱い立場の人々の多大な犠牲が放置されていき、貧富の格差は広がる一方であります。他方自衛隊は、先守防衛という憲法の平和主義を大きく踏み外し、武器の輸出だけでなく、外国での戦闘行為にまで踏み出そうとしています。沖縄の普天間飛行場の移設問題も、知事はお金の力に屈しました。まさに、経済さえ良くなればよいというところに見いだす「光」が、原子力の「光」と軍事力の増強に象徴されていると思います。

創世記冒頭の「光」に相当する新約聖書は、いうまでもなくクリスマスであります。この世の「光」の陰の暗闇に喘ぐ人々に輝く「光」の創造でありました。彼らを見殺しにするこの世の「光」とは正反対の輝きをもっています。

マルコ福音書では「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1章15節)と、主イエスの宣教の第一声です。福音そのものがご自身であることを宣言されています。ここに新約の「光あれ」が響き渡っているのであります。この世の「光」に惑わされないで、人間性の闇夜を照らす「まことの光」である主イエスを見据えて歩み出しましょう。

 

2014.1.12「第一戒」

 

新年ということで「始め」ということに拘って思いつくままに「天声JINGO」を書かせてもらっている。先週は創世記1章天地創造の「光あれ」。今週は出エジプト記のモーセの十戒のうちの第1戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20章3)である。続く第2戒も「あなたはいかなる像も造ってはならない。」であり、第3戒も安息日規定で神に関する項目である。その後に人間に関する事項が続いているのである。

あくまで第一義は唯一神である。いかなる偶像も否定し、これに背くならその「罪を子孫に三代、四代までも問う」( 5節b)と厳しい。

この十戒には前文がある。2節で「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と唯一の主なる神であることの根拠を明確にされている。十戒はイスラエルの民の独立に当たり、さしずめ「憲法」にあたる条文である。これを疎かにしては最終章まで続く刑法、民法、道徳法、宗教法、最後に宗教暦となるのだが、それらが成り立たなくなるのである。

さて、この間32章〜33章は、モーセが十戒を受けるためにシナイ山にこもっていた40日間に、山の下では民が不安になって、「金の子牛」を造り礼拝するようになっていた。そして彼らは「金の子牛」の周りでみだらな行為にふけったという。これは主なる神への決定的な背教行為である。主の怒りは最高潮に達し、民を滅ぼし尽くすとまで言っている(32:10)。しかしモーセの必死の執りなしにより、3,000人の処刑ですんだ(32:28)。  

今日神は御子イエス・キリストに於いて、愛の神として私たちに尽くしておられるのだ(ヨハネ福音書3:16〜18)。しかし私たちはこの「主」をさておいて他のものに心ひかれてはいまいか。

安倍首相の靖国神社参拝が問題視されている。彼の真意は戦争美化で、それを国民に浸透させていくためのパフォーマンスなのだ。私たち聖書の神を唯一の「主」としている信仰者から見る靖国神社は政治的視点以前の問題として、戦死者を「英霊」として祭る対象とする、つまり「神」として礼拝する事自体が、「主なる神」以外の神として礼拝することであり、偶像崇拝であることだ。それは「主なる神」への重大な背信行為で、その罪は赦されざる最大の罪なのである。新年冒頭にこの第一戒を噛み締めることの意義は大きいと思う。最後に、アベノミミクスブームは、あたかも「金の子牛」の周囲で歌い踊る背信の民の姿そのものに見えるのではないだろうか。

 

2014.1.19「聖霊による洗礼活動を」

 

先週聖日礼拝で、マルコによる福音書において、荒れ野において洗礼者ヨハネから「罪の告白と水による洗礼」を受けたイエスが、荒れ野でのサタンの試みに打ち勝ち、ガリラヤ地方に行き「神の国運動」を始めた事を学んだ。では一体「聖霊による洗礼」とはどんなものなのか。「水による洗礼」は「罪の悔い改めによる洗い清め」であり、その意味は「古い自分に死んで、新しい自分に生まれ変わる」ことであり、それを志向しての儀式としてのパフォーマンスであった。しかし、イエスの水によらない「聖霊による洗礼」とは、実質的に罪人とされていたあらゆる種類の病気や障碍に縛られている人間を、癒し健康を回復させること。つまり罪が赦された新しい人間へと解放していくのであれば、イエスのおびただしい病人への癒しの業こそが、「聖霊による洗礼」ではないだろうかと述べた。それと共に、ヨハネの洗礼は倫理的罪からの個人的な癒しであったが、イエスの聖霊による洗礼、癒しは個人的な罪意識からの解放というばかりでなく、人を束縛し、圧殺へと追いやる社会的ストレスからの解放という新しい視点があったのではないかとも述べた。

17日の信濃毎日新聞の社説「やり直しがきく社会に —自殺者2万人台—」という記事に引きつけられた。数年来続いていた自殺者3万人台が全国的に減り、県内でも8%減ったというのだ。喜ばしいことだが、気になった記事とは、日本では「人口10万人当たりの自殺者を示す自殺死亡率が若い世代でトップの国は先進国で日本だけだ」とあったからだ。自治体やNPO法人の対策は強化されてきたが、それでも若い世代の自殺者が依然として多いのは、「不安定な雇用の拡大や競争の激化などで、要因となりやすい『社会的ストレス』はなかなか改善されない。」からだという。とすれば自殺者のみならず、この社会的ストレスに病み、イエスの癒しを求めている人々へのアプローチこそキリストの教会の宣教の骨でなければならないと思う。もう水による洗礼活動には戻れないのだから。

 

2014.1.26「神の召命」

 

牧師としての私の出発点は神からの召命であった。あなたは何故牧師になったのか?と問われることが時々ある。「神の召命です」と答えるのは、かっこよすぎて面映いのであまり言わないようにしている。しかしそれは真実でありそれより他に言いようがないことは確かである。堅信礼(洗礼/信仰告白)も然りである。そこに至るまでのプロセスは語ることが出来ても、「決断」そのものは神の啓示、聖霊の導きとしか言いようがないのである。

 先週聖日の礼拝後、教会協議会が開催され、教団による北村慈郎牧師免職処分事件の概要と意味するところを、講師小海牧師を通して学んだ。教団の主張する北村牧師の免職の理由は、「聖餐式を信者以外の人々にも解放した」ことで、それが教団の重大な「教憲教規違反」だからだという。しかし、教団の教憲教規を見ると明確な規定はない。小海講師の話の中でも、多教派の伝統をもつ教会の集まってできた合同教会である教団は、戦後の再出発の時にも聖餐式の理解や方法については曖昧にせざるを得なかったのだという。そのような歴史的背景で、紅葉坂教会や北村牧師と同じ考えで同様に行っている教会や牧師は昔からあったのに「何故今?北村牧師だけ?」。聖餐への招きは主よりのみあり、拒否できるのも主のみであるはずである。

 牧師への招きも主にのみ根拠がある。それを奪うのも主のみである。しかしそれをやってしまう教団議長は、神のような権威者なのだろうか。

 私たちの教会が属する会衆派の伝統をもつ「全国同信伝道会」は、牧師の人事の仲介を中心とした任意のグループである。たとえその牧師がどんなに批判を受け、人気がなく、招聘する教会がなくとも、本人の召命感が失せない間は決して見捨てず支援していくことをそのモットーとしている。だから今の私があるのだと思っている。

 「神の召命」は、この世のいかなる教義や規則、ましてや伝統、習慣、そして本人の能力などを遥かに超えている神聖なものだということを知るべきではないだろうか。

 

2014.2.2「十字架の命」

 

先週の週報INFORMATIONの最初に、19日の宣教者小海基牧師の宣教「垂直は水平」のごく簡単な概要を報告した。そのことをもう一度反芻してみる。

 主の十字架の縦の木は天と地、つまり主なる神と地の人々との関係であり、両手を広げて釘で打ち付けた横の木は、この地の人と人との関係を意味している。それは、旧約聖書のレビ記19:18の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と申命記6:5の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」をひとつにまとめ、主の十字架の死の意味を示しているのである。つまり垂直と水平はそれぞれではなくて同質一体のものとされているということが強調されたメッセイージであった。そしてそこにこそ「永遠の命」の世界があるのだよというのが、律法の専門家への主の答えであった(ルカ10:25〜37)。律法の専門家は聖書に関して専門家であり人々を教え導く聖職者だ、その彼にして隣人を愛しきれない罪に捕われていたのである。

 私たちも例外ではないだろう。 神と私という垂直の軸だけを絶対視しがちである。聖書に親しみ祈りと讃美に熱心であろうと努力している。聖日礼拝を最も大切にしている。それ自体は決して間違ってはいないだろう。しかし、ルカの律法の専門家のように、もうひとつ「永遠の命」の実感を持てない。信仰生活をする中での充実感をもてない。いや苦しささえ感じるのではないか。

 そこに欠けているのは、水平への視点のぼやけではないだろうか。神と私の関係は完璧なのに、隣人を憎んでしまう現実のギャップに気づかないからではないだろうか。

 「垂直」の信仰だけだと往々にして個人内的信仰に留まってしまい、排他的傾向が強くなる。いわば律法主義的、ファリサイ派的信仰だ。そこに「水平」の信仰を融合することによって、個人主義から「隣人」への関係へと向かうことが伴ってくるのだ。つまり社会へと解放されていくのだと思う。そここそが十字架と復活の主に出会える場所なのだと思う。

 

2014.2.9「守りでいいのか」

 

 「2.11信教の自由を守る日」守る日の「守る」という言葉を私たちはよく使う。「憲法を守る」とか「礼拝を守る」とかである。スポーツにおいては「守りに入るな」ということがよく聞かれる。試合に勝っていて、もう数分で終わるという時などである。最後の最後、インジェリータイムにまさかの逆転負けはよくあることだ。そんな守りの姿勢が見え見えの試合はつまらないものになってしまうのである。攻撃が最大の守りだとも言われている。9条の会立ち上げの賛同者たちが、憲法は今が旬であるとか、憲法実現と言っているのは、ただ成文として保つだけは意味がないことを知っているからだ。守っているだけは、現実はいつのまにか空文化されているかも知れないからだ。

 「礼拝を守る」という場合はどうなのだろうか、と考えさせられる。礼拝を維持するという意味だけであるならそれは極めて消極的となってしまうのではないだろうかと思う。何かを求めて礼拝に初めて出席した人々が、何の感動(衝撃)も受けないような礼拝は、つまらない試合を見せられたようなものだろう。

 主の教会(エクレシア)は、礼拝共同体であり、それが全てであると言っても言い過ぎではないだろう。この礼拝に仕えることは、主に仕えることなのだから、緊張をもって万全の用意をし、それでいて喜びと誇りをもって仕えるのが信徒のあるべき姿であり、その姿が集うものに自ずと伝わりワクワクさせるのではないだろうか。

 信仰者の集まりであっても、人間としての限界を持った者の集まりであるのだから、規則とか、形とか、公平性とか必要欠くべからざるものであることは否定できないが、それらに縛られて悩むなら元も子もなくなるのである。

 たとえ辛くて苦しくても、喜びをもって主に仕えるという礼拝の本質を見失わないように気をつけたい。「共に生きる」とは、多大な犠牲を払っても互いの欠けを認めて補い合うことだと思うし、積極的な「新しい歌」を歌う、積極的な攻めの礼拝が醸し出されるのではないだろうか。礼拝が優れて伝道の場であることも忘れてはならないであろう。

 

2014.2.16 「普遍性の根拠」

 

 分区2.11信教の日集会で「憲法に聴く主のみ言葉」と題して講演した。何故憲法なのかは、憲法前文で議会制民主主義は諸国民との協和と、自由のもたらす恵沢を確保し、政府が戦争を起こさないようにすることを決意し、主権在民を宣言し、これを「人類普遍の原理である」としているからだ。ノンフィクション作家保坂正康さんは、2日の信濃毎日新聞で、戦後民主主義を全面否定する自民党の憲法改正草案により大日本帝国型の社会に戻るのか、「普遍的」戦後民主主義の理念による新しい社会像が出てくるのか、2014年はそのせめぎ合いがこれから始まる年なのだと言っています。他方安倍首相は彼の建国の日メッセージの中で「長い歴史の中で、幾度か災害や戦争などの試練も経験しましたが、国民一人一人のたゆまぬ努力により今日の平和で豊かな国を築き上げ、普遍的自由と民主主義と、人権を重んじる国柄を育ててきました。」と言っている。両者の「普遍」という言葉の使い方とその意味はまるで違うわけです。そこで今回の講演で私は、憲法前文で高らかに謳われている六つのキーワードに神の言葉が秘められていることを申し上げたのであります。であるからこそ、憲法こそが、主の教会が宣教の場である社会と出会うための接点となるのだと思うのである。

 現行憲法に、第一次世界大戦から第二次世界大戦という人類が犯した「罪」の歴史認識があることは、あまり意識されてきていないかもしれない。しかし我が教団は、他の宗教教団や団体、グループに先駆けて「戦争責任の告白」(1967年3月26日)を発表して以来、予言者的働きの機能を取り戻そうとして努力してきた。そのことは今でも宗教界では高く評価されている(週間金曜日973号前真宗大谷派僧侶日野範之さん「私と憲法」)。

 教団の「信仰告白」と「戦責の告白」には、「神と人」という縦の関係と「人と人」の横の関係を切り結ぶ十字架の姿があるのではないかと思う。

 主イエスの福音宣教開始の言葉を反芻しよう。

「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)

いつ読んでも味わい深い言葉である。

 

2014.2.23「種が育つ土壌とは」

 

 イエスの譬えは、本来ならばそのまま聞いて理解できるものであるはずだ。しかし、イエスの弟子たちはよく理解できず意味を尋ねた(10)。そこでイエスは、この譬えは、「あなたがたには神の国の秘密がうち明けられているが、外の人々」(11b)には「譬えで」でしか示すことができず、彼らが「赦されることがない」ためであると、イザヤ書を引用して説明している。イザヤの時代、神の託宣に民の指導者たちは耳をかさず、予言者を迫害したという歴史的故事を背景にオーバーラップさせているのだ。つまり同じ譬えを聞いても、民衆の理解と支配者たちの理解は全く違うのだ。

 この「譬え話」は、被支配者たる民衆には大いなる慰めと希望であったのだ。イエスが、支配者たちの不信仰を、「道端」「石だらけ」「いばら」のようなものと言い切っていて、「良い土地」とは弟子たちや民衆であるとしているからだ。

 「良い土地」とは道徳的な意味でのそれではない。つまり人が努力して自分の心という畑を耕して得られるようなものではないのだ。「良い土地」とは「み言の種」を受け入れ成長させ、多くの実りを得るような土壌のことで、それは横暴な支配者に痛めつけられ、人権すらも剥奪された、弱く貧しい民衆を意味しているからだ。つまりマタイ(5章)の山上の説教で「幸い」とされている、心が貧しい人、悲しむ人、迫害される人、義に飢え渇いている人、平和を求める人々などである。

 例えば、3.11の大震災の被災者の多くが、今や支配者たちから見捨てられ始めている現実。それはあの阪神淡路大震でもいまだ多くの人が切り捨てられたままで「被災者連絡会」が解散できない、という現実からも明らかである。

 だが、神はそれらの苦しみ、悲しむ人々と彼らに寄り添う人々という、み言を受容し得る「良い土地」を備えてくださっているのである。神の託宣を聞き入れず、悲しむ人々を産み出し続けている支配者たちは今も変わらない。「平和憲法」こそ今の豊かで平和な日本を創出してきたという多くの民衆の思いと、おしつけ憲法だからと言って、かつての「富国強兵路線」へと改憲しようとする支配者たちの思いとはまったく相容れないという現実にも顕われているのではないだろうか。

 しかし、み言の種を受容できる「良い土壌」とされた弟子たちや、民衆もやがてイエスを裏切るのである。イエスの思いのもっと深いところには、この世の支配者たちにも、被支配者たちにも、分け隔てなく祝福をもたらすみ言の種が分け与えられているということ、そして、み言の種を育てることが出来なくとも、分け隔てなく神の救いの御手が、イエスの十字架と復活によってもたらされるのである。

 イエス様ありがとうと、日々感謝をささげながら今を生きたい。

 

2014.3.2 「底知れぬ不安」

 

 報道によると、都内や横浜の図書館で、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の悲劇を象徴するアンネの日記300册以上が破られたという。一部の極右、民族主義的狂信者の仕業だとしても、それだけで片付けられない問題を孕んでいるように思う。そこにはなにか「底しれぬ恐ろしさ」さえ感じたのだった。

 それは黙示録を読んでいるような感じなのである。今まで海の底で眠っていた獣が目覚めてこの世に飛び出して暴れまくるというシーンだ。その獣とは絶大なる権力で世界を支配し、搾取し、迫害をするロ−マ帝国であったからだ。

 今回のアンネ本の破損事件は、そのような怪獣が飛び出して来て暴れまくる前兆のような気がしてならない。怪獣を目覚めさせ、元気づけるような権力の言動が最近目立ち、顕著になってきていることは皆さんも感じているとこだと思う。

 首相の靖国神社参拝問題、憲法改訂構想、集団的自衛権容認、非核三原則や武器輸出三原則の撤廃、歴史認識問題等々。軌を一にして、タイミング的にも符号する点などを考えると、いままでは陰の存在であったものを勢いづけているのではないだろうか。

 我々教会にも、怪獣が口出しをし始めている。それは「従軍慰安婦問題」に関して、日本基督教団の牧師へE—メイルで再三再四攻撃が繰り返されている。その内容は「嘘と捏造の慰安婦問題」で日本を貶める反日団体「韓国挺身隊問題対協議会」を支援し、一人の慰安婦も殺していない日本政府を非難していることはけしからんというものだ。

従軍慰安婦のみならず、強制労働などの問題は、日本が侵略者だからこそ問題となることである。なによりも当の被害者の証言は無視できないし、歴代政府も認めてきた事実なのだ。しかし、それすらも否定しようとする政治家や、従軍慰安婦そのものを肯定しようとするNHKの新会長のようなジャーナリズムのトップがのし歩きはじめたことが恐ろしいのだ。

 一人の人の尊厳や命がそまつに扱われる、その最たるものが戦争だ。戦争は戦闘員だけでなく、戦闘員の何倍もの敵と味方の民間人を殺し、苦しめる。自然や人が築いてきた貴重な物を破壊する。

 私がこの世の問題を取り上げるのは、政治的イデオロギーや、経済的関心からではない。人間性の回復こそが聖書の主要テーマであるからだ。戦勝国であれ、敗戦国であれ、非人道的な行為に対してはNOを言い続けていくことがキリスト教教会の予言者的使命であり、そのような罪の執りなしの祈りを献げていくのが祭司的働きであり、十字架に挙げられた主イエスと共に、王の王としての務めを果たしていくのが主の教会であるからだ。

 教団の「戦責告白」は、そのことを怠ったことへの懺悔であり、二度と同じ過ちを繰り返さないとの決意なのだから。

 

2014.3.9 「主の教会」

 

 本日礼拝後教会総会が開催される。総会は、教会規則と宗教法人法に基づく二重構造になっている。通常両者を兼ねて開催している。そして教会総会は教会の意志決定の最高機関とされている。宗教法人とはこの世の枠組み法的に位置づけられていることを意味している。具体的には税制優遇措置を受けることによって、国家の縛りを受けることになる。それに対して「教会規則」による教会は国家権力の規制を受けない主体性による自己規制をかけている組織体といえる。これらの2重構造を持つ教会はおのずと,決定的な矛盾を抱え込んでいるといえる。

 教会は何ものにも縛られない共同体であるにも拘らず、自己規制せねばならないのは、この世と神の国の双方に同時に属しているからであり、自ずと限界を持っているということなのだ。キリスト者(教会)の真の国籍は天にあるといわれているが、このことと普遍的「主の教会」とどう関係しているのであろうか。

 「天の国に属する教会」が普遍的教会として、この世でもその姿を映し出す存在でなければならないのだが、悲しいことにそうはいかないのである。人間が肉体を持っていて、これを維持するためあれこれあくせくせねばならないと同じように、教会もこの世的事柄であくせくせねばならない。そのためのルールも必要となってくる。いくら、主が「迷い出た子羊」( ルカ15章)の譬えで神の国の現実を示しても、この世の教会では多数決で意志決定をしている。また主が「ぶどう園の労働者」のたとえで神の国の公平さを説いても(マタイ20章)、この世の公平さへの基準から逃れられず絶えず不平不満がくすぶっている。主よ、主よと口では連呼していても、自分の思い通りになる神を求めている。挙げ句の果て互いの信仰をなじり合い憎しみ合っているのではないだろうか。そして決着はやはり数の論理に頼ってしまう。あらゆる意味で 弱い立場の者が黙らされて引っ込むしかない教会の姿は確かに我々自身の真の姿であり、それが罪の姿なのだ。

 いや、そうだからこそそのような罪に捕らわれている自分たちを素直に認めるところからしか始まらないのだと思う。

 神の国に属する教会とは、主によってもたらされた福音、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

( マルコ1章15、マタイ4章17)に従い「悔い改める」という姿勢を常に持つことによって神の国に受入れられるのだ。

 教団でも、「信仰告白文」と共に「戦責告白文」を持っている。関東教区では「戦績告白」が限定的罪責として、新たに「罪責告白」を総会で決議し持っている。

 「主の教会」の教会たる所以は自らが「悔い改め」という出発点に常に立っていることではないだろうか。

 

2014.3.16 「キレネ人シモン」(マルコによる福音書15:21)

 

先週3月11日は2011年の東日本大震災の報道で満たされていた。その中でも被災者個々のドキュメントには涙させられたが、特に引きつけられたのは、津波に襲われて一晩車の屋根で助けを待った一人の女性の姿だ。自分は助かったのに、すぐ隣にいたお年寄りを助けることが出来なかったことで、未だに自分を責め続けている姿に、私は強烈なショックを受けたのである。周囲の者が、決したあなたの責任ではないと幾度も言って聞かせていた。その言葉に彼女は「そうだね、そうだね」と必死で納得しようとしているのだけれど、やはり割り切れずに自分を責め続けているのであった。そのような状態がまだまだ彼女に続くことが容易に想像でき、なんとも気の毒でやりきれない思いであった。

 しかし、同時に、この女性がそこまで「隣にいた一人の人」に責任を感じて痛むことが、どうして出来るのかと考えさせられてしまった。そして、人には誰にでもそのような心が備えられているのだと思い至ったのである。そこに「神に似せて創造された人間」の本性があり、今回極限状態におかれた彼女にその本性がにじみ出たのではないかと。そして生き残った方々すべての胸の内が、彼女と同じ思いに塞がれているのだろうと思えたのであった。

 一方、復興への歩みの実体が明らかにされていくにつれ、そこには自然災害のみならず、多くの人災的要素のあった事が明らかにされてきた。今、その責任を負って復興に当たっている私たち社会ではあるが、必ずしも被災者に寄り添ってなされているのではない現状も、様々な場面で浮き彫りにされていた。忘れ去られていく人々、切り捨てられていく人々の、嘆きや呻きも多く聴こえた。直接復興に当たっている為政者たち、原発事故を起こした当事者たち、それらを後押ししている大企業や人々が、自身にも備えられている「人の生命」に対する畏敬の念に、正直であってくれたらとついつい愚痴ってしまった私である。しかし、その私も薄情で彼らと同罪であることを認めざるを得ない。神様ごめんなさい、被災者の皆さんごめんなさいとしか言えないのである。

 先週から主の受難節に入っている。最初に紹介した自分を赦せない女性の姿には、重い十字架を担ってゴルゴダの丘に向かうイエスの十字架を、無理矢理に背負わされた、あのキレネ人シモンの姿が重なって見えるのである。彼女の上に限りなき主の慰めをと祈るばかりである。

 

2014.3.23「衣の下の鎧」

 

 去年11月26日に、与党自民党が衆議院で「特定秘密保護法案」を強行採決したときによく使われた言葉が「衣の下の鎧」であった。国家の安全、平和の名の下に、実は戦争の出来る国家体制を作る意図が、見え見えだという論調に使われたのだった。この政治的手法が、昨今の新聞紙上をさっと読むだけでも、いたるところに見受けられることが気になる。しかも最近は結構遠慮なく強行になっているだけに恐ろしい。

 たとえば、戦争や原爆の悲惨さを描いた『はだしのゲン』には差別的用語が多いということで、泉佐野市教委が今年1月に市立小中学校の図書室から本を回収した事件がおきた。一体どのような差別用語が使われ、差別が助長されたのかと思っていたのだが、31日の信毎の社説で、そのことが取り上げられていた。それによると『はだしのゲン』に出てくる「乞食」「きちがい」という言葉が今回問題視されたのだそうだ。確かに用語そのものは、今では差別用語で、好ましくないのだが、作品の前後関係からして、どこが「差別の助長」を促しているのか分からない、と論じていた。私もこの記事を読んで同様に、「差別」はいけませんよというソフトな「衣」を着せていながら、実は反戦平和や脱原発に多大な影響力を持つ言論を封じ込めようとする体制側の「鎧」が見てとれる。誰の目から見ても露わである、今や「鎧」が見え見えであるという主張に異論はないのである。

 信仰の世界においても、同じような「衣の下の鎧」的な手法が使われることがあるのではないかと反省する。教会、牧師、信者という「衣」を纏い、そのことによって、他者を貶めたり支配しようとする手法である。聖書では「羊の皮をまとった狼」(マタイ7:15) と主イエスが戒めている。この世でそのような狼の姿を見るにつけ、私たち自身が主イエスにつがれている木の枝として「良い実」をつける者でありたいと思う。