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天声JINGO アーカイブ

2012年度4月〜

2012.4.1「ポナペ納骨の旅」

教団派遣宣教師荒川義治牧師と和子夫人を支える「ポナペ伝道支援会」は35年の歴史を昨年12月12日の「ポナペ支援会便り」をもってその歴史を閉じた。この間ポナペ・ワーク・キャンプ派遣は39次隊までに及んだ。私は1986年夏の13次隊の隊長をおおせつかって以来、支援会委員として関わり、ワーク・キャンプにも6回ほど参加させてもらった。

 今回の「納骨の旅」は、いままでポナペ支援に深く関わった方々3人の納骨をするためであり、最後の支援会委員として参加した。納骨者の一人は小野芽兄で、延べ4年間くらい現地で農業など荒川先生を補佐され、4年前に若くして死去された。ご子息2人は関西学院神学部生で、ワークにも参加したことがあり、同道した。あとの二人は夫婦で、神宮勇言兄姉。兄は昨年3月震災の直後死去。その連れ合いの智子姉は今年1月に死去。智子姉は、戦前ポナペが日本の信託統治時代に組合教会から派遣された安曇清牧師のお嬢さんで、ポナペ支援会へ強力な支援をされてきた。

 納骨する墓は、2007年に、支援会当初から会長を務めてくれた故・元水戸教会牧師の白神章道牧師のために、オア・クリスチャン・ハイスクールの校庭の隅に墓を建立したもの。真っ白で塔の上にパイプの十字架があり、その天辺から遺骨を流し込むタイプのものだ。日本からは荒川夫妻を初め小野家の関係者、神宮司家の関係者総勢19名。ポナペ合同教会、特に地元のオア・チャーチのメンバー、学校の生徒たちも全員参列。三浦牧師(埼玉和光教会)は司会、

宮内常恒牧師(足利教会)は聖書朗読、稲垣は祈祷。式辞は荒川義治牧師がと手分けして担当した。

 折しも受難節のまっただ中の納骨だ。献花されたのは南国の色鮮やかな花々。実に天国への入り口に相応しい場所だと思った。じめじめしたものは一切感じさせられない。天国への凱旋そのものの様相だ。ポナペ人日本人がそれぞれの言語で合わせる讃美歌は、真っ青に澄み渡っている空へと響いているようだ。青い海と環礁に当たって白く輝く波とさわやかな風とともに目に飛び込んでくる光景は、まさに天国に一番近い場所だと思わされる。

 墓は決して死の支配する場所ではない。永遠の命への再生、復活の場所である。この信仰に結ばれる教会の絆は、遠い海を越えて固く結ばれ続けることだろう。次は誰が入るのか言い合いながら帰ってきた。

 

2012.4.8「死刑はイエスで終わり」

 先月受難節の間であったが、小川敏夫法相が、1年8ヶ月ぶりに3名の死刑を執行したとの報道に触れ、小川法相の人権感覚の乏しさに愕然とした。また各種世論調査でも国民の大半は死刑を容認しているということだが、「目には目を、歯には歯を」を否定した(マタイ5:38〜39)キリストの復活の命に与る者としては憂慮に絶えない国民感情でもある。

 本日は主イェスの復活記念日。イースターである。マタイによる福音書は「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」( 28:6)と宣言している。

 主イェスの十字架の死は、一見「死の力」の圧倒的な勝利を人々に見せつけた。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27:40)との罵りにもかかわらず何も起こらなかったからだ。そこには人々にとって今までと何らかわらない「死の力の支配」の圧倒的な現実があるのみだった。イェスを死刑にしたこの世は、依然として「死の力」に忠実に屈服した姿から脱皮しようとはしていなかったのだ。

 だが、主イェスは甦った。それは「死の支配」からの解放であり、「死の力」の無力化を意味している。もはや死に「支配された命」の時代は終わったのだ。これからは「死の力」を打ち破った「新しい命」に生かされる時が開けたのだ。だから死の時代は終わったのだからいかなる「死刑」も必要なくなったといえる。

 主イェスは、この世の全ての人々が一人も滅びることがないように歴史における「最後の死刑囚」となってくれたのだ。何人であれ、滅びから救われることだけを一途に願ってのことだ。主イェスは、迷い出た一匹の羊を見つけるまで探し続ける「良き羊飼」いなのだ。自己中で父の家を飛び出した次男が帰ってくるまで待ち続ける「超親ばかな主」なのだ。

 だから、人は死ぬ方向、殺す方向を向いてはいけないと思う。復活節を英語でイースターという。イーストは東。朝陽の昇る方向。「神の子」を礼拝に来た3人の占星術の学者は「東」から来ている。イースターとは救いの方向を意味しているのだ。それが「復活の命」であり、今までの「死への命」の否定なのだ。

 真の人権世界(人の命を一番大切にする世界)の実現のために、復活の主はなくてはならない方向、イースターなのだということを銘記したい。 死刑絶対反対!

 

2012.4.15「復活の主の傷跡」

私たちは人の「痛み」をどれだけ知ることが出来るだろうか。私たちの身近な女性が、交通事故により首に何らかの損傷を負って苦しんでいる。彼女は自分の痛みがどのようなものであるかを周囲に理解してもらえないことの悔しさを述懐していた。それを聞いて頷きはしたものの私自身も彼女を表面的にしか理解できていないだろう。

 私自身のことを言えば、3年前ポナペで60センチくらいの段上からコンクリートの瓦礫のちらばる下に転げ落ちてひどく首の筋を痛め、ちょっと無理をすると当初の痛みをぶり返す。そのことはどんなに説明しても、人には分かってもらえないし、そんな肩こりはだれにでもあることだとか、さも私の症状をすべて理解したかのごとく、ご自分の体験した治療法を押し付けたりしようとされると、ああもう語るまいと心も固く凝ってしまうのである。

 使徒パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12:15)と信仰者の規範として教えている。泣く人の悲しみや苦しみだけでなく、喜ぶ人の喜びを分かることも難しいということだが、規範とせねばならない程難しいということでもあろう。

 難しいことだけに、なおさら他者の「悲しみ」「痛み」への配慮への姿勢が大切なのではないだろうか。ましてや自分が他者を傷つけたり苦しめたり悲しませたりしたことは決して癒しきれものではないだろう。だが相手からどう言われようが、その気持ちを示し続けることが重要だと思う。

 「風がなるとき」No.29でも言及したが、日本の第二次世界大戦での近隣諸国への侵略行為への懺悔の「しるし」がどこに刻まれているのだろうか。唯一あるのは「平和憲法」それも「前文」と「第9条(戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認)」だ。

 今回北朝鮮による人工衛星打ち上げ騒動での、日米韓の共同軍事行動は一体何だったのか。日本自らが、自らの国の根幹をなす「憲法」の否定を公然となしたに等しい行為ではないだろか。

 復活の主イエスは、自ら受けた死への「傷跡」を弟子たちにお示しになっている。現在私たちが、近隣諸国と向き合うとき、そこに、彼らに与えた「傷跡」を認めることができるなら、十字架の「傷跡」を示し、弟子たちに触れさせている復活の主に出会うことが出来るのではないだろうか。或は私たち自身が負った「傷跡」にも、復活の主ご自身が立っていて下さることを主の復活物語は示している。

 

2012.4.22「隣人とは?」

ルカによる福音書10章25節〜37節に有名なイエスの「善いサマリア人」のたとえ話がある。話は、ある律法学者の「何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るか」との質問への答えとして話されたものだ。 「ある一人の旅人が追いはぎに襲われ瀕死の状態で倒れていた。その人のそばを通った祭司、レビ人というユダヤの信仰の指導者たちは見ぬふりをして避けて通っていったが、一人のサマリア人(異邦人)は、介抱し保護し最後まで面倒をみてあげた」という譬えを語り、誰が追いはぎに襲われた者の「隣人」になったかと、逆に律法学者たちに答えさせている。新約聖書に登場するサマリア人とは、捕囚後エルサレム神殿再建の協力をユダヤ人に断られたので、独自にゲリジム山に神殿を作った「サマリア教徒」をさしている。9章53節では、イエスの一行はこのサマリア人に拒否されている。ここで イエスは「神を愛する」ことと「人を愛すること」を同質のこととして理解し、人に教えているユダヤ人の指導者たちのサマリア人への歴史的侮蔑意識への痛烈な批判をしているのである。

 「サマリア人」すべてがたとえ話の「善い人」であるとは限らないが、「隣り人」を自分たちの仲間内だけに、もっといえば自分たちにとって都合の良い人だけ、付き合っていて利益に繋がるものだけを「隣り人」とすることの不信仰をついているのである。

 北朝鮮の人工衛星打ち上げを、核弾頭をつむ大陸間弾道ミサイル実験として非難し、過剰な防衛態勢をしいたが、インドや韓国がミサイル実験をしても、だれも何も言わないのはどうしたことか。国連常任理事国(拒否権を持つ5大国)にとってメリットがあるからだと20日の朝日新聞は論じていた。5大国によりそう国々は「善き隣人」なのだ。

 だが、イエスの求める「善き隣人」は、「敵を愛し、あなたを憎む者に親切にする」人なのだ(マタイ5:38〜47、7:12a、ルカ6:27〜36)。「早く日朝国交正常化を」と北朝鮮に住む日本人妻皆川光子さん(73歳)が、共同通信の取材に応じて語ったと20日の信毎に報道されていた。拉致問題や、金正恩第一書記への見方は日本国内の見方とはだいぶ違うが、「早く日朝国交正常化を」との悲痛な程の願いは、「行ってあなたも同じようにしなさい」(ルカ10:27)とのイエスの促しの言葉として聞こえくるのであった。

 

2012.4.29「絶対的権威」

4月14日開催の軽井沢憲法9条の会例会の講師は会の仲間でもあり、県立歴史館資料調査員、同文化財保護協会理事、東信史学会常任委員などを務められている金井喜平次さん。天皇制にも触れながら明治以後の歴史を辿り自説を開陳された。興味深かったのは「歴史と違った歴史について」で、古代の天皇と近代の天皇、橿原神宮、伊勢神宮、近江神宮など、明治の廃仏毀釈運動など、明治維新における政治の意図(うそ)などである。金井さんは、「うそ」も30年つき通せば本物とされると言い、明治政府然り、そして今の民主政治においても少しも変わっていないと言い切られたことだ。日本には天皇が複数いたし、神社という呼称も明治以後のこととし、万世一系の欺瞞性を指摘された。

 

いま東日本大震災復興と福島第一原発事故による対策に集中すべきこの時期に何故衆議院の憲法調査会なのだろうか。「自民党」や「たちあがれ日本」では、それぞれの自主憲法制定案により、靖国神社への首相の公式参拝、自衛隊を国防軍に、天皇の元首化等々気勢を挙げている。一方中国、ロシア、北朝鮮と西側国家との対立構造も急速に鮮明にされつつあり、危機感が煽られ、平和憲法下の自衛隊の縛りからの解放のために憲法改訂が叫ばれている。

 ここで不思議なのは、軍事力と天皇制の強化、神社の参拝がセットになっていることだ。そこで想い起こすのが、1967年以来の「靖国神社国家護持法案」だ。確か三度上程されていずれも廃案となったが、それ以後首相や国会議員たちの靖国神社参拝行使は今日にいたるまで続いている。軍国化の為には軍備力と経済力では不十分なのだ。もう一つの重要な要素がある。それは精神的支柱である。それが靖国思想、天皇を祭神であり大祭司とする「絶対的権威」としての天皇制なのだ。この構造は昔も今も変わっていない。

反戦平和勢力においてもそれに対抗するためには、それに匹敵する、いやそれ以上の「権威(信念)」を持たねばならない。キリスト教会におけるヤスクニ問題は反戦平和の問題だけでなく、偶像崇拝の問題(英霊=神)でもあるだけに、避けて通れない問題である。 キリスト教信仰の神はこの世的絶対主義とは正反対の意味での確信である。 それは敵を赦し、敵を愛し、敵に仕える絶対者、弱く小さく貧しい者を中心に置く「正義と平和の神」の権威だ。この神を決して見失ってはならない。

 

2012.5.13 「柔和な人」

「柔和な人々は、幸いである」とマタイ5:5でイエスは教えています。

 教会は、社交の場ではない!ロビーでもない!礼拝共同体で、礼拝に始まり、礼拝に終わるところだ。信徒の交わりは、礼拝において主にあっての交わりだ!教義的には全くその通りだと思います。

 礼拝は複数で集うところに意義があります。主イエスは、「主の祈り」を教えられた時に、この「祈り」の主語は「わたし」ではなくて「わたしたち」と複数としています。ですから、礼拝は「わたしたち」として神の前に歩みでるのがキリスト教会の礼拝です。また主イエスはある青年に「永遠の命を受け継ぐ為には、隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ19:19)と教えています。だから教会では「隣にいる人」との関わりはとても大切なのです。そんなに大切な人と人との関係に生きようとする時、お互いに仏頂面していたのではつまらない。暗くうつむいた人の顔や姿ばかりでもいやになる。はやりニコニコして柔和な顔と姿に出会いたいと願うのは私ばかりではないだろうと思う。しかし、そうでない人もいる。教会に行くとみな満ち足りたような顔をし、平和そうである。柔和な顔ばかりの人で、とうてい私のようなわけあり、深刻な問題を抱えている者には似つかわしくないと思って遠ざかる人だ。そんなことを思うとどういう顔をしていれば良いのか困ってしまう。

 ある牧師は、始終あふれんばかりニコニコ顔で説教したり話したりしている。どうしたらあんなにニコニコできるのだろうかと、緊張して、おっかない顔しか出来ない自分にとっては羨ましい限りである。

 ある体験を語ろう。ある赴任教会でのことだ。自宅で寝たきりのある老婦人がいた。いつ訪ねても、誰が行ってもいつもニコニコ顔の上品なお方だ。「柔和」という言葉はこの人のことではないかと思う程の柔和なお顔なのだ。最初この老女は、よほどのお嬢様育ちで、苦労知らずの恵まれた人なのだと思い込んでいた。だがだいぶたって訪問した時に、彼女の生涯を聞くことが出来た。戦前戦中戦後どれだけ苦労したか、そしてその傷跡を今なお心に深く負っているかを知ったのだ。

 それ以来、ほんとうの「柔和」とは、苦悩や痛みを受け止め、その現実のただ中にあって得られる天国の姿なのだと思えるようになった。

自分はまだまだ苦労や傷つくことから逃げているのだと自戒しきりである。

 

2012.5.20 「40年考」

5月15日は「沖縄返還40周年記念日」。報道各社こぞって沖縄の基地問題を取り上げたが、15日が過ぎたらもう沖縄報道はばたっと止んだ。ひとしきり話題にしただけという姿勢はなにか寂しい。しかしこれは私自身の姿でもあることを告白せざるを得ない。それは自分が沖縄(琉球)から見ればあくまで「そとなんちゅう(本土)」であり、決して「うちなんちゅう(沖縄)」ではないからだ。琉球王国時代から、本土(日本)は征服者であり、沖縄(琉球)を隷属化してきたし、第二次大戦敗戦によるいわゆる「とかげのしっぽ切り」で犠牲を強い、復帰後においても本土並みは口だけで、それから40年経ても本土への隷属化状態は続いている。そのことに同情はしても、それをゆるしてきた「本土」の側の人間として、やはり私は沖縄に対して差別者なのだ。その差別者である私がいかにして、被差別者と手を結べるのだろうか。

 「差別」という言葉は、現代では、他と違う独自性を顕す言葉として使用されているが、私が言う「差別」とは、強者が弱者を支配するところに置ける人権侵害、弱者の「命」そのものを犠牲にすることを意味している。本土は今まで沖縄に対して「アメとむち」方式で支配してきたが、今はそうはいかなくなって来ている。甘いアメがもはや甘くなくなったのだ。40年という数字は聖書では、荒野の40年とか、40日40夜という苦難における一つの区切り目を象徴している数字だ。まさに「復帰40年」というこの区切りの年、奇しくも昨年の大震災、原発事故とあいまって、今までの日本という国のあり方が激しく問われているその「時」だと思う。「本土」と「沖縄」との間で問われている差別の実体が「経済格差」という具体的な数値で示され、その格差は同時に「人権侵害」を伴っていることが分かってきた。大震災や原発問題でも然りである。

 私は確かに対「沖縄」では差別する側に生きていることから逃れることは出来ない。だが、この自己認識無くしては、いかなる「人権問題」に向かうことは出来ないのではないかと思う。

 そこで、被差別者といかに手を結べるのかという問いに、かつて沖縄の人から答えを頂いていたことを思い出した。「沖縄問題」は本土にもたくさんあるのだから、あなたがたの足下の問題と取り組みなさい」と。たしかに主イェスは「一人の小さく弱い存在」を大切にすることを至上命令とされている、まさにその事だと思う。

 

2012.5.27 「聖霊降臨物語」

本日はペンテコステ(聖霊降臨記念日)で、その詳細は使徒言行録2章に詳しい。

 主イエスを十字架で失った弟子たちは失意のどん底にあったが、復活の主は、最初は墓参りに行った女の弟子たちに(4福音書)、マルコとルカでは故郷に帰る二人の弟子に出会い、また弟子たちが一所に集まっているところに顕われ(マルコ、ルカ、ヨハネ)、マタイではガリラヤで出会っている。

 使徒言行録では復活の主は40日にわたって弟子たちに現れ、ご自身が復活したことを数々の証拠をもって示し(1章3)てから、聖霊によるバプテスマの授受を約束し天に上げられている。

 主の十字架の死からの40日間というのは、弟子たちが、主と今まで寝食を共にし、多くの教えを受け、主の人々への癒しの数々、神殿の当局者たちとの確執等々を「思い起こし、物語った」期間だと思う。

 使徒言行録1章で弟子たちは「ひとつになって祈っていた」とある。また2章の聖霊降臨の日にも弟子たちは「ひとつになって集まっていた」とある。ここには「主の教会」の原型があると思う。弟子たちはただ集まっていたのではない。主と共にあった日々をみんなで「思い起こして」いたのであります。1章15節以降では、ペテロが具体的に裏切った使徒ユダを詳しく思い起こし、生前の主イェスの預言、詩編の預言(69:23)の成就として受け止めているのであります。

 私たちは数年前、聖書を学ぶ会(毎週金曜日)に、イエズス会司祭、神学者であるシルヴァノ・ファウスティの著書『思い起こし、物語れ』でマルコ福音書を学んだことがありますが、主イェスの十字架と復活は、まさに告げ知らされた主イェスの十字架と復活のことを思い起こし、あれこれ思いを巡らす(祈る)ところに、聖霊降臨の出来事が起こったということだと思うのであります。

 礼拝に置ける「聖餐式」は、まさに主を裏切った自分たちの罪を思い起こすことであり、主を傷つけ殺してしまったといういやなことを思い起こさせるものです。そして更にそのことをまた語り継ついでいくことへと弟子たちを押し出すのです。そこに聖霊が降り、死んだような私たちを再び生かしてくれたという物語りなのです。

「聖霊」は神の息、霊、命であります。人を人足らしめる力であることを聖書はその始まりから物語っている(創世記2:7)ことを思い起こしましょう。

 

2012.6.3 「憂鬱な東海教区」

5月22日〜23日と熱海後楽園ホテルで、第29回東海教区総会が開催された。ここ3年間私は教区とは距離をおいてきたので、教区総会出席は3年ぶりである。

 私が教区と距離を置いてきたのは、教区会計による7,000万円ちかくの使い込み事件による。つまり、教区は使い込んだ元会計を赦し、損金扱いにして弁済も求めないことにしたからだ。私(たち)はどこかおかしいのではないかと思い、罪は罪として社会的にはっきりと認めることを求め、その上での本人の直接の謝罪を求めたがた、なにせ圧倒的少数意見で顧みられることはなかったからだ。それ以来、北信分区の仕事も、唯一教区機関への当職のない「教会音楽の集い」の担当だけを受けてきているわけだ。

 そんな中今回は、久しぶりに太平洋が見られるということもあって、新井敬二議員ともに出席した。議事が始まって最初の議長報告を受けての質問に真っ先に立たせてもらった。私の質問は4点あった。3分という制限を宣告されたがそうはいかなかったが、その内容をここに紹介させてもらう。

1 聖餐式を未信者へ開いた、元紅葉坂教会牧師北村慈郎牧師へ教団が免職処分にしたことについて。教団総会は免職処分を否決したにも関わらず、巧妙な画策をもって処分したこと、北村牧師と紅葉坂教会との話し合いもせず、問答無用であり、合同教会としての教団のあり方ではないと思うが?

2 沖縄教区が教団と距離を置いているが、教団も沖縄教区との対話に消極的、かつ交付金カットなどしている、議長報告に一切言及がないが?

3 教区事務所移転は去年12月の臨時総会で否決されたのに、翌日に、愛宕町教会への移転の同意書を正式に交わしているが? 

4 教区会計使い込み事件を風化させないで欲しいが?

 以上の意見をのべ議長の考えを求めたが、��については教団の問題だからと逃げられ、�については、教区規則を知らなかった、愛宕町教会とはもしもの時に備えての仮の約束だったと苦しい言い訳に始終。�元会計も悔い改めている、そっとしておきたいという従来の繰り返しだった。

 私の意見が通るか通らないかの問題ではなく、教団のかかえている大きな課題を論議することなしに、事なかれ主義体質(裏をかえせば異なる意見を封殺する強権主義)に改めて失望感を深めて帰ってきた次第である。

 

 

2012.6.17 「快挙」

6月9日(土)の信濃毎日新聞朝刊の5面一番下の左面。通常は世界の著名人の死亡欄の位置だが、その右隣に18行2段写真入りの小さい記事があった。私は朝食の時一通りざっと新聞には目を通すが、その記事には気づかなかった。昼食の時だった、たまたまその記事の話が出て、どれどれと探してみた次第である。

 その記事とは、当教会でもお世話になっているバッハコレギウムジャパンの主宰者鈴木雅明さんのことだ。鈴木さんとバッハコレギウムジャパンは、2010と2011年のクリスマスに大賀ホールで「メサイヤ」全曲演奏された。去年はちょうど日曜日が25日で教会関係者は聞きに行けず残念だったが、演奏会の翌日鈴木夫妻とご長男の優人さんが老牧師を表敬訪問して下さった。また今年の夏の礼拝コンサートへのご奉仕を考えていただいたがどうしても日程の調整がとれず残念だったが、10月の音楽礼拝に優人さんが奏楽して下さることになった。その鈴木雅明さんが8日に「バッハメダル」を受賞したというニュースだ。信毎はやけに小さい記事だなと思いつつ朝日新聞にも探してみたが一切触れていなかった。もし他の新聞などでその記事が掲載されていたならお教え願いたい。

 「バッハメダル」とはドイツ東部ライプチッヒ市が2003年から創設した賞で、バッハの作品の普及に貢献した音楽家に授与されてきたものだ。最近の新しいメダルであっても、これは快挙であることに間違いない。細かく各新聞を漁ったわけではないが、ついぞテレビのニュースでもお目にかかれなかった。

 政局の混乱状況やら、オウム真理教の地下鉄サリン事件などでの逃亡犯の逮捕や、最後の指名手配者の記事は毎日繰り返し朝から晩まで報道しているのに、世界的快挙の報道はまったくなされていない。この国の文化的意識の低さを思い知らされた本当に小さいニュースだった。小さいが故に、信毎に掲載されたこの記事をあえて200%拡大して会堂ロビーの壁にはっておいたのでご一読あれ。

 バッハつながりでもう一言。先年宗教改革者の足跡を辿る旅でお世話になった、トラベルプラン(旅行代理店)の吉見さんから、来年教会の創立20年記念事業として、「バッハの旅」を企画しないかとのお誘いを受けた。来年でなくともいいのだが、最低20名募れば可能になる。ただし50万円からかかるので2〜3年積み立ててでないと無理かも!でもこの教会に相応しい企画ではあると思うので、皆さんの知恵をお借りして是非実現させたいものと思っている。

 

 

2012.6.24 「主に交わりのあるところ」

先週のこの欄で、鈴木雅明さんのバッハメダル授与のニュースを日本ではあまり報道しないと憤慨したようなことを書いたが、鈴木さん自身からは、授与式当日は日本からのメディアも沢山きていて大変だったと、また、先週の礼拝に東京方面から来られた方からは、テレビでも新聞でも報道されていたとうかがった。私一人追分に引っ込んでいるためか、信毎掲載の共同通信社発の小さな記事しか知らなかったのかと恥じ入った次第である。

 本日は北信分区サンデー。ちょっと説明しよう。当教会は日本基督教団という合同教会に属してはいるが、宗教法人日本基督教団」とは別に「宗教法人日本基督教団軽井沢追分教会」という独立した宗教法人格を持っている。というとなにかややこしい感じの教会に聞こえるが、一口でいえば、教団は包括団体で、各個教会の自主独立した主体性が重んじられているということであると思う。教団に包括される教会数は1,724ある。日本では新旧各教団の中でも最大級の教団である。教団には17教区が置かれていて、長野県は東海教区(他に静岡県、山梨県を含む)に属し、更に県がブロック(分区)に仕切られている。長野県は南信分区と北信分区があり、当教会は北信分区で、教会は17教会ある。

 一口に教区/分区といっても、それぞれの特徴、個性を持って連帯活動をしている。それはゆるやかな連合体であり、教団、教区、分区はあくまでも各個教会の宣教活動を尊重し支えることが主目的であると私は認識している。

分区サンデーはそのような教会の交わり、連帯の営みである。今年は上田新参町教会の牧会者と信徒の方を通しての交わりの時である。それぞれの教会や牧会者のスタイルの違いに触れることはひとつの恵みとして受け止めたい。

 とはいえ限られた時間と条件のもとでの交換会で限界はあるが、礼拝者を通して私たちの教会を、遣わされた牧者と信徒の方に感じていただけたら幸いである。

 本日は私たちの教会にとって、中山恒雄兄の死去に接して悲しみの時でもある。だがこのような時こそ主の死によって支えられている教会の交わりに思いを馳せたい。

 昨日夕方、この教会で挙式をされた兄弟が、信仰を求めて遠方より訪ねて来られた。

自らの人生、仕事や人間関係の問題に苦闘を覚えながら、主の死を告げ知らせ、記念する教会での挙式を通して知った聖書のみ言葉に接して生かされている幸せを語っていた。この幸せになんとか応えたいとの思いからだった。主に栄光あれ。

 

2012.7.1 「教団部落解放の日に思う」

私たちの日本キリスト教団は、1975年7月の常議委員会(教団の教務執行機関)で「部落差別問題特別委員会」の設置が決定。その後教団の「部落解放センター」が現在の大東市緑区に設置されました。これは各宗教における部落差別の実体が明らかにされ、そのことの反省からの具体的な動きであったと思います。

 たとえばキリスト教会においては、岡山教会の歴史において起こっていた部落差別が具体的事例としてよく取り上げられています。 岡山教会は1880年に創立,130年の歴史をもつ老舗ですが、私たち軽井沢追分教会と同じ旧組合教会(会衆派)の伝統を受け継いでいる教会です。その岡山教会の初期の頃、教会では部落の人々を受け入れて分け隔てなく一緒に礼拝と教会活動をしていたそうですが、聖餐式について部落差別が顕在化していたそうです。

 つまり、教会での聖餐式のブドー酒は、一つの器を回しのみしていたそうですが、部落の人々が来るようになって、部落以外一般地区の人々から、彼らと同じ杯で口を合わせたく無いとの異論が出て、それ以後聖餐式でのブドー酒は、個別の杯に替えられたという話です。

 このように、1871年(明4)に法制上は部落解放令により差別は撤廃されたが、差別の実体は変わらず、1922(大11)に水平社(部落民による解放運動)が、結成された。この運動は太平洋戦争下で消滅したが、敗戦後「部落解放全国委員会」として復活し、1955年(昭30)に部落解放同盟と改称して今日に至っている。

 実は日本キリスト教団も、この部落解放同盟から、キリスト教出版物などにおける「差別事象」の糾弾によって差別者としての意識が目覚めたという経過がある。しかしながら、岡山教会的部落差別の実体はまだまだ現在も根強く私たちの中に温存されているのではないでしょうか。

 表面上は平等といいながら、結婚差別や就職差別、職場でのいじめなどが陰湿な方法でなされているとの報告も聞いている。この問題は今日では、野宿労働者、朝鮮学校、子どもたちや少数者切り捨ての行政という、いわゆる強者による弱者からの搾取、抑圧、切り捨てという差別と切り離せないことではないかと思うのである。このことは「人の命」を大切にする信仰者にとって見逃せない社会の実体であります。そしてそのことは私たち自身の中に内在している差別体質でもありましょう。

 そのように部落解放のテーマは差別されることと差別することからの解放という2面性をもっていることなのです。

 

2012.7.15 「起き上がりなさい」

3.11の大震災による被災者支援に立ちあがった小諸、御代田、軽井沢在住の有志の音楽家たちによってチャリティ-コンサートが開催された。この企画には我が教会も大いに関わってきている。企画の音頭取りは奏楽者の木村協子姉、このチャリティーは、この会堂でのオルガンコンサートから始まった。第2回目は大賀ホールで700席以上を売り上げた。今年の第3回も大賀ホールで700席近く売り上げた。7月7日(土)去年同様に「みんなでつくるコンサート」として、御代田、軽井沢の少年少女合唱団、全世代を含む今回のために編成された50名程の「ともだち合唱団」、プロのフルート、ピアノ、ギター、クラリネットなどの奏者による数々の名曲演奏など盛りだくさんだった。今年の最大の特長は全国募集した、震災への思いを込めた歌(作詞作曲)だ。30もの応募があり、その中から4曲が今回採用され演奏されたことだ。

 その中のひとつ「いつもそばに」が、最後に「ともだち合唱団」によって演奏された。「いつもそばにいる たいせつなひと いつもそばにいる そっといてくれる たいせつなものは みえないけれど てをあててごらん きっとみえてくる かなしいとき つらいとき なみだをふいてくれた あなたはひとりじゃないと いやしてくれました」。木村姉の指揮をする後姿は、今は亡き父親、木村従郎牧師を彷彿とさせるものであった。それはさて置き、ここに至って私は、このコンサート全体の中に、「タビタ、起きなさい」と寄り添い、声を掛け、手をとって起き上がらせたパウロの姿を見た思いだった(使徒言行録9:36〜42)。パウロの、タビタ蘇生物語は、教会の業であり、主ご自身の奇跡の業なのだ。翌日の教会創立記念礼拝のテキストでもあったので、宣教の構想に苦慮していた時だけに、その物語を、このチャリティーに主が見せてくれたのだと思い、先週の礼拝で話させていただいた次第だ。

 復活の主(キリスト)は教会の頭として今なお私たちを死の支配から解放する働きをなし続けておられるのだ。ここでいう教会(エクレシア)は、建造物でも、規則でも、教義でもない。洗礼を受けた者だけの集団でもない。主が求め集められた人々がいかなる人々であったとしても、暗黒の死の世界に翻弄されて打ち拉がれている人々に寄り添い、手を差し伸べようとしているならば、そこに主は必ずおられるのだ。そこに教会の真の姿があるのだと知らされたのである。私たち教会はちっぽけだが、主によって手をとって起こされているこの世の人々と共に生かされ続けたい。

 

2012.7.22 「聖餐の豊かさ」

使徒パウロはユダヤ教当局によって暗殺の危機に落ち入るが、ローマの治安維持に当たっていた千人隊長により保護されることになり、パウロがローマの市民権を持っていたが故に、正式にローマ皇帝へ上訴しローマへ護送されることになった。護送の船旅の途上クレタ島沖合で暴風雨に見舞われ積み荷をすべて捨てて、3日間もみくちゃにされ絶望の淵に追いやられていた。その中で、パウロは乗組員、兵隊、囚人たち乗り合わせていた者すべてに向かって「元気を出しなさい」と再三励ました。しかしそれから2週間も漂流してしまう。そんな時パウロはみなに食事を薦めるのだ。 

それまでは沈没することから必死に逃れようと、寝食の間もなく必死だったのだ。そんな時にパウロはみなに「どうぞなにか食べて下さい。生き延びるために必要だからです」(27章34)と懇願する。276名の同乗していた人々はパウロの薦めるままに食事をとり元気を取り戻す。そしてマルタ島にたどり着き全員が助かったのだ。

この記事をあらためて読み直し瞑想するうちに私は、この難破船の中でパウロの薦めた食事は主の晩餐(聖餐)そのものであることに気がついたのだ。新共同訳聖書で「生き延びるために」というギリシャ語原典の直訳は「あなたがたが救われるために」だ。

ギリシャ語で「救い」は「ソテリア」で、一般的には死、危機からの救いだが、宗教的用例では、救い主から与えられる罪と滅亡からの救い、永遠の生命の祝福を意味している言葉だ。

このパウロの食事の薦めは、主の五千人の給食や、罪人と言われていた人々や弟子とのお茶や会食、それに天国の譬えでは、婚宴などの祝宴が思い起こされる。福音書における「最後の晩餐」は、初代教会の定式化(教義化)した聖餐式を反映しているに過ぎないので、もともと「救い」の生き生きした出来事は、肉体の生命維持のためのパンの共食を伴っていたのであり、それは今起こっている人間の様々な状況の中で、自由になし得る復活の主の業だと思う。

従来教会は未信者に配餐せず、それを執行した牧師を非難したり、免職してきた。しかし、その牧師を召し、教会に遣わした主は、全ての人々の救いのために自由に共食なさる主なのである。教団は聖餐の豊かさに制限を加えているのではないだろうか。

嵐の中での共食では一切の差別は取り除かれている、官権と奴隷、囚人。異邦人とユダヤ人。未信者と信者。聖餐の生き生きした豊かさを味わえる教会でありたい。

 

 2012.9.2「秋空を見上げて」

 

残暑厳しい夏の終わりの時期だが、先週秋空らしい、どことなく寂しげな青空に鰯雲がかかっているのを見あげていた、世界を覆っている異常気象云々の自然界で、それでも季節の移ろいはかわりなく営まれていることを見て、この世がどんなに破壊的な現象に覆われていても、休む事なく働かれている創造主の御手の業を見た思いであった。

 先週、2年に一度開催される同志社神学協議会に参加した。これは私たち追分教会の信仰の系譜でもあるプロテスタント会衆派の伝統を汲む「同信伝道会」と私の母校でもある同志社神学部の共催である。300名以上の参加者があり、そのうち信徒の参加が三分の一という盛況であった。

 テーマは「プロテスタンティズム」。合同教会である現在の日本基督教団の執行体制が、会派的傾向、強権的傾向を強めていく中で、我々 (会衆派的伝統教会) は会派的伝統にこだわるよりも、そもそものカトリシズム(正統教会)に対するプロテスタンティズム(抗議する教会)としての立ち位置を確認しようではないとの思いからのテーマであった。

 メインの講演が水谷誠神学部長によってなされた。非常に示唆に富む講演であったが、その内容を一言でいうなら、カトリック教会の権威主義への抗議がそもそもの動機であること。そしてプロテスタント教会はその最初から多元的であったことである。つまり唯一つのプロテスタント教会があったのではなく、宗教改革の最初からルター派、改革派など多くの会派的宗教改革であったのだ。従って現在のプロテスタト諸教派においても共通した精神は、「反権威主義」と「多様主義」がその屋台骨であるといえる。ましてや合同教会である日本基督教団が、各個教会や牧師の主体性(信仰)を規制したり処罰したりするのは、明らかにプロテスタンティズムの歴史的意義(本質)を踏みにじっていることを明らかだ。この権威主義の排除と多元性の受容は各個教会においても心せねばならない。

 折しも先週、ユビラーテ奏楽者の会 (当教会創立時より続けられて20回目) が当教会で開催された。この会は超教派であるばかりでなく、超宗教的であることが特長であり魅力だ。参加者一人一人が主体であり、その多元的交わりから醸し出される合唱と楽器演奏、会衆の賛美の歌声が一つになり、かつ増幅して天と地に響き渡るという感動を与えられたことである。ここにも秋空に見た創造主の変わらぬ御手の業、人を生かす神の息(聖霊)がこのエクレシア(神の呼び集めたもう人々の群れ=教会)に注がれていたことを激感させられた秋空のもとでの至福の時であった。

 

2012.9.9 「体験から」

 

「牧師」は、一般的には、説教者(当教会では宣教)であり、教師であり、儀式を司る祭司であり、世の悪や不正を糾弾する予言者的イメージを強くもたれていると思います。他方牧師は読んで字の通り「牧会者」ともいわれています。いわば「羊飼い」のように、人々の命をまもり育てるためのあらゆるお世話をする使命を負っています。ですから、いわば何でも屋みたいなところがある。とはいえ「牧師」はスーパーマンではないので、何でもかんでも出来るというわけにはいかないのでご注意を願いたい。

 さて、牧師になるためには、日本キリスト教団の場合は試験をして採用している。試験は新旧聖書学や歴史神学など学問的なものが中心。だから知的素養が重視された牧師養成なので、説教や聖書研究が得意とならざるを得ないのが現状といえる。

 羊飼いのように、四六時中「羊」と共に生活して、その生命の安全と成長に仕えるという面においては、神学校ではほとんど学べない、教団の教師養成においても同じだ。これは自分自身が求めて研修せねばならないのが実情である。

 私は説教者として礼拝で話をし続けているのだが、牧師になって44年を経た今でも未だに「説教とは何か?」と分からずにいるのが正直なところなのだ。おおよそ永遠である神(真理)を、有限者が説明出来るものではないだろうと思う。「学」に溺れると、人は真理から遠ざかってしまう。

 しかし、聖書そのものに、何のフィルターもかけずにストレートに読み、聞くと案外すっきりと分かるような気がするのだから不思議なものだ。例えばヨハネの手紙(一)の5章6〜12で言っているように、「イエス・キリストについての証し人」たれというメッセ—ジはとくと聞かねばならないと思う。語る自分が見たり聞いたりしたことのない事を語ってもなんの説得力をもたないのは当たり前のことだからだ。

 私は幼児教育に園長として4教会でちょうど30年間関わってきた。園児たちが一番静かに私の話を聞いてくれるのはなんといっても「体験」談だった。幼児に説得力のある話は、大人にもそのまま通用することを知ってきた。「教師」としてよりも「証人」としての説教者たれとヨハネの手紙は言っているように思う。そして主と出会う経験の出来る場所へと遣わされていることも知らなければならないだろう。この世の荒波で今も生きて人々に仕えている主に。

 

 

2012.9.23「証人」

 

 先週この欄で何事も人は自分の体験したことを話すのが一番説得力をもつことを述べた。牧師の宣教「説教」も然り、信徒の方の証しも然り。神の言葉や、神の御手の業は、それは理屈ではなく自分の見聞きしたことの証言なのだから、それを理解してもらおうとか、説得するというようなものではない。そのような趣旨のことを述べた。そう言った以上私も自分の牧師への神の「召命」についての体験談をあらためて記しておくことにした。神からの召命、それは「啓示」ともいうが、それは一回限りのことであるとよく言われているが、私の場合もそのような経験は後にも先にも一それ一回限りであったので、多分それは神の「啓示」で間違いないと信じている。

 『牧師への決断』それは1960年、高校3年生の夏のことであった。妙高高原で開催された東日本高校生献身修養会に参加したときのことだ。ある早朝のメディテーションの時間、30分位一人になって瞑想をしたのだ。濃霧と朝露の庭の一角で一人になると、遊び半分で参加した自分だったが、一気にその気分もふっとび、自分の抱えていた進路問題で胸の中は一杯になってしまった。卒業したら、漠然と自分は音楽方面かもしくはスポーツ方面かなと思っていたものの、もうはっきりさせねばならないギリギリの時だと焦りが出てきた。思わず「神様自分はこれからどうしたらいいのでしょうか」と祈ることになったのだ。しばしまんじりともせずいたのだが、突然「おまえは神学校に行き牧師になれ」という神の声が霧の向こうから聞こえたのだ。牧師だけはなりたくないときっぱりと心に決めていたので、しばし頭を抱え込むことになった。言い訳が次々に出てくる。勉強嫌いで、学校の成績も音楽と体育以外は極めて低空飛行の自分がどうして神学校に入れるものか。それは無謀なことでもあった。

 しかし、そうこう言い訳をしているうちに、だんだんその気になって来てしまい、修養会の最後のプログラムの「献身の時」に、真っ先に前に歩み出て、献身ノートなるものに、神学校へ行き牧師を志すと一筆書いてしまったのだ。若気の至りか、今から考えると「聖霊」の後押しがあったとしか言いようがないことであった。

 「同信伝道会」は旧組合教会(会衆派)で、神学行教育は同志社大学が担っていたので、私にとって神学校は同志社大学以外に考えられなかった。神学校卒業時には、そのままどこかの教会に赴任することに自信は全くなくだいぶ迷ったが、その時も「召命」受けたあのことが勇気を与えてくれた。伝道師(補教師といって正教師の前段階)時代にもこのまま牧師としてやっていけるどうか、落ち込んだ時期があったが、その時も後押ししてくれたのが、あの「召命」体験であった。神がそのように私に固執してくれるなら、もう自信もへったくれもない、どうとでもしてくれと開き直ってとうとう今日まで来てしまった次第である。(次週に続く)

 

2012.9.30「神共にいまして」

 

 この欄で前回は私の牧師への主なる神(イエス・キリスト)の「召あ命」という体験談を語った。本日は主イエスの臨在についての証をする。

 神の「臨在」それは神が私たちと共にいて下さるということを実感することだと思う。それは必ずしもすぐに分かることではないかもしれない。つまり後になってつくづくあの時確かにそこにイエス・キリストの姿があったと知ることが多いと思う。それはその時そこで「心が燃える」瞬間を体験した時なのだ。

 私の前任地相模原市にある翠ケ丘教会が、私を滋賀県大津教会から招聘する条件の一つに、教会として野宿者の支援活動をしているが受け入れ加わってもらえるかというものだった。大津教会でも京都教区の野宿者支援活動に加わり、教会を滋賀県側の支援物資の集置場所として提供していたこと。自分自身はやはり京都教区の部落解放センターのスタッフとして奉仕していることを告げ、教会が率先して地域社会の弱い部分に関わっていくことには大賛成と言って同意したのだが、日常的に野宿者の世話をするようになったのは初めての経験であった。心身共に疲弊しきった彼らに、われわれボランティアが心の底から受入れられる事は実に難しいことだった。我々側もどこか一歩引いて、身構えてしまうのである。

 そんな我々が彼らにある日突然受入れられる時がある。それは多分我々が彼らを差別することなく、信用し受入れることが出来た時であったことは、後になって分かったことだ。その瞬間の感激は言うに言えない、お互いの心の内に燃える炎を感じたような瞬間なのだった。エマオへの途上で復活の主と出会った弟子たちの心が燃えたのも後になって想い起こして、それが復活の主であっという証言となったことと同じではないかと思う(ルカ24:32)。

 また、主と出会う場所はやはり「家畜小屋」なのだった。二人の弟子はどん底で、野宿者も文字通り家畜小屋状態といえる。最近では、あの3.11の大惨事の中で主なる神(イエス・キリスト)の臨在の証言が今になって多く聞かれる。

 それもこれも、復活の主の証言を聞いた者に与えられる恵みの果実ではないだろうか。