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天声JINGO アーカイブ

2011年度4月〜

2011.4.3「沖縄研修ツアー 5」

 東日本大震災による被害の広がりは果てしなく思えて、いまだに言葉が出ない。何度も巨大津波による地獄のような爪痕を見せつけられるが、犠牲になった方々の上に主なる神の慰めと平安をと祈るばかりだ。まだ福島第一原発の破壊による被害の実態が明らかにされるにつけ、平和利用と世界に誇る最先端技術とはいえ、「核」のコントロールの未熟さや、それ故の底知れない恐ろしさを思い知らされる毎日の報道である。避難している方々のみならず、原発の現場で作業している全ての作業員の上に、どうか無事であってくれと念じるばかりである。

 さて、沖縄研修3日目は、辺野古の海と高江地区のヘリパッド訪問である。辺野古は普天間飛行場の代替地として前政権時から選ばれ、珊瑚とジュゴンなど貴重な海の生態系破壊は必死である。故に、そして、沖縄県民は県外なら良いというのではなくて、米軍基地そのものの縮小、撤去を求めて反対運動を続けている。2004年は工事阻止運動のピークだった。海に杭を打ち込む作業の阻止のため、漁船やカヌーを繰り出し、体をはっての阻止行動だった。信濃村教会の稲垣真実牧師は神学生時代に、8月から3月末まで現場に張り付き阻止運動に加わった。当初の計画は断念されたが、虎視眈々とV字型滑走路建設の準備が進んでいるとのこと。監視テントには、24時間数名が詰めている。前述の平良悦美姉もその一人で、会うことができた。また、ヒトミさんという方が丁寧な説明をして下さった。

 午後はもっと北に位置する高江地区の米軍ヘリパッド建設阻止の現場を訪ねた。そこは、自然豊かなヤンバルの森。集落もあるその中に6基のヘリパッド建設を強行している。これは普天間基地の海兵隊とヘリ部隊の訓練基地で、普天間の県内移設とセットになっている。ここでも住民追い出しなど弾圧が続けられているとのことだ。この日も早朝に奇襲的に阻止運動の目を盗み、防御ネットを破り作業員が侵入して土嚢をかなり運び込み、小競り合いで監視ボランティアが負傷したと、翌日の各地元新聞には報道されていた。ここでも監視テントで常時見張っており、日本本土からの泊り込み応援者もおられた。

 名護市は、辺野古と高江のヘリパッド建設反対の姿勢を表明したが故に、今まで受け取っていた政府からの補助金を受けられなくなり、「ふるさとまちづくり」制度を作り募金している。これに協力しようと、帰り道名護市役所に寄り説明を受け、申込書をもらってきた。帰宅してすぐに申し込んだところ、申込者一覧を見て、沖縄在住の旧友(40年ぶり)がメイルで感謝を述べてきたので、反応の早さに正直驚かされた。

 

2011.4.10「沖縄研修ツアー 6」

 今日10日で東日本大震災発生から早くも1ヶ月となる。M9と史上最大級の地震、それに伴う大津波、範囲は200㎞〜500㎞と広く、世界でも4番目に大きい地震といわれている。昨日まで死者12,750人行方不明者14,706人と発表された。7日午後11時32分頃には宮城で震度6強の余震が起こり死者2名、200名の重軽傷者が出たとのこと。被災者の方々にはかける言葉もない。自然の猛威の前にただただ翻弄される人間のちっぽけさと弱さを痛感させられる。しかし、その中にあっても立ち上がり、明日に向かって歩みだそうとしている人々の姿はすばらしいと思う。震災のただ中にあって、新学期を迎えた幼児や小学生の屈託のない姿は、焼け焦げた野原に芽生える草花の芽吹きのように生への無限の希望を見るようである。

 それにしても原発事故は自然災害でも不測の事故でもないことが日を追うごとに少しずつあきらかにされてきている。原子力政策における政治と企業の癒着問題までくると、もうこれは事故ではなくて事件そのものであると思う。なんと人間の罪深いことであろうか。この罪の結果は日本国民のみならず世界中が負わねばならないことになる。ああ、主よ赦し給えと祈らざるを得ない。沖縄研修の最終日2月24日(木)午前8:30分レンタカー(日産ダフェスタクス7人乗り)で那覇市から北へ約60㎞、名護市から約13㎞に位置する世界遺産今帰仁城跡を見学。12世紀〜17世紀の、日本や中国、東南アジア諸国との交流によって築かれた琉球独自の文化、グスク(城)は琉球社会の象徴的存在で琉球民の精神的拠り所でもあるところが評価され日本で14番目の世界遺産指定を受けたとのこと。石垣全体が丸みを帯び柔らかい感じが、琉球民族の精神性を顕していると思った。午後は読谷村に住む「チビチリガマ世代を偲ぶ平和の象」で有名な金城実さんのアトリエを見学、懇談のときを持った。私が18年前チビチリガマを訪れた時は、建立されて7ヶ月後の11月8日に心なき者によって粉々に破壊された後であったことを思い出した。しかし1995年4月2日、村人たちの励ましとカンパによって再建された。金城さんの作品は広い庭に設置されていた。作品を並べると120m位になるそうだ。「銃剣とブルドーザー」「怨の碑」「鬼神」などの像は、農民の怒り、抵抗、死者をも鼓舞して怒れとの叫び声が聞こえてくる迫力をもっていた。また数多くの、顔を上げ天を見つめる農民の姿が刻まれていたことが印象的であった。

 

2011.4.17「沖縄研修ツアー 7」

 東日本大震災の現状が、震災後1ヶ月を超したにもかかわらず、やはり依然として少しずつしか伝わってこないところに今回の震災の深刻さが伺われる。一方復興への具体的な動きが見られるところもあり希望が与えられるニュースもあるが、何も出来ずにあれやこれやのニュースを見るしか出来ない自分がなさけない。先週11日から15日までの予定で北信分区社会部が(岩渕正樹牧師、宮沢豊牧師)現地訪問に出たが、結果はまだ届いていない。これらの動きをとっかかりにして具体的な支援が出来ればと願う。また、原発事故関連の報道が新聞紙上では大半を占めるようになってきたが、あいかわらず私にはほんとうはどうなのか、ますます分からなくなっていく。

 地震や津波は正真正銘の自然災害だが、原発事故はそうではない。東京都知事に再選された石原慎太郎が震災直後に「やっぱり天罰だと思う」と言って批判され、後に撤回したが、そういうなら原発事故に対して言って欲しかった。人間は罪深く、常になんらかの「禁断の木の実」を取って食べる存在であることは、聖書が最初から指摘していることであり驚くには及ばないが、「核エネルギー」だけは「ダイナマイト」とは比較にならないけたはずれの「禁断の木の実」なのではないだろうか。わたしは原発以外の従来からの発電方法と風力、ソーラーで充分まかなえるという「説」を信じたいし、そのように努力すべきだと思う。沖縄研修報告が端折る結果になっているが続ける。反戦彫刻家であり、父親が祭られている金城さんは、靖国神社から父親の合祀を取り下げてくれとの、沖縄ヤスクニ裁判の原告団長をされている。この研修の初日に案内していただいた西尾市郎牧師はこの原告団の事務局長をされている。

 彼は自分の父親が、国家により、軍人として立派に名誉の戦死とされ、祭神とされたが、私から言わせれば、それは全くの無駄死、犬死にだったとまで言い切っておられる。死んだ本人がお国のためと信じ、戦友たちとヤスクニで会おうと言って死んだのに何故そこまで言うのかと世間はいぶかるし、怒りさえ発する。そこをあえて「犬死に」と言い切るのは沖縄の米軍基地の現実と日本という国の現実をしっかりと見据えているからだと思った。平和と安全のかけ声のものと、日米軍事同盟や、平和憲法にすっかりからめとられている「やまとんちゅう」のふがいなさを、私は自分自身に痛感させられたのだ。

 

2011.4.24「沖縄研修ツアー 8」

東日本大震災による死傷者、被災者の方々への主の顧みと癒し、慰めが豊かにありますようにと祈る日々を送っている。しかし少しずつ被災の実態を知れば知るほど、「心痛む思い」と「心怒る思い」と、自己の無力感に苛まれる日々でもある。「心痛む思い」はいうまでもない、自然の猛威とそれに翻弄される人間の姿である。神は何をされているのか?何を考えておられるのか?自然災害とはいえどもかつて経験したことのない(現在の私たちにが)事態に遭遇して、自然の仕打ちの情け容赦のない猛威に言葉も無く、ただただ耐え、沈黙せざるを得ない人間の姿に対してだ。しかし聖書の神は、宇宙の混沌に秩序を与えられ(創1:1)、荒海を沈めるお方だ(マコ4:35以下)、死をも討ち滅ぼす力をもっておられる方(マコ16:1以下)として、代々の聖徒たちは証言し、その事によって人々は救われてきた。今度は私たちが「今の混沌や荒野」を導く神と出会い、証言する神の民として立ち上がり、歩み続けたい。「心怒る思い」とは、言うまでもない。原発信仰という偶像崇拝の結果を負わねばならないという事態に対してだ。富と権力を崇拝させる中央集権体制とその権力にいいように操られてきた周辺の地域とそこに暮らす人々が、愚弄され続けてきた構造が、つまり化けの皮がはげ始めたからである。小より大を、短より長を、スローよりスピードを、中身より体裁を、弱さより強さ、それら全ての基準は「金」本位という価値観に基づく。そして支配者のみならず、被支配者もこれにひれ伏してきたのではないか。私たちはいかに神の言葉を聞いているふりをして聞き流していたか。そういった自分時自身に対してでもある怒りだ。「怒り」は心底救いを求める祈りでもある。この「怒り」を、主の受難と復活のこの時、十字架の前にいた弟子たち、民衆と一緒に、全く無力化した十字架上のイェスにぶつけてみようではないか。

沖縄研修報告の最後として、金城実さんの作品集にいただいたサインをご紹介しよう。

「時に人あうこと久しくとも、ふいうちもあらがな。これ風と言うのであろうか。キリストも親鸞もまさにここに到って思案する。また風に聴けよ。憲法九条には、トゲがある。これを抱きしめることが出来るかね。人とここに来て会えたよろこびを呑む。合掌。」

 彼が憲法九条にはトゲがあるという意味には、日本と米軍の軍事同盟の現実、戦争放棄ではなく戦争推進の実体と、沖縄から見たヤスクニの本質(見えない天皇制支配)を見抜いているからだと私は解釈した。美味しい泡盛を酌み交わしながら、予定の倍以上の時間をいただいてのお交わりは、風(聖書では神の息、聖霊)によって意気投合できたと思うのであった。

 

2011.5.8 「東日本大震災に思う」

 阪神淡路大震災での救援活動のための教訓があった。私は神戸までは電車で60分で行ける滋賀県大津市の教会にいた。 震災から1週間位して東灘にある甲南教会の園庭に張られたテントの中でドラム缶のたき火にあたりながら、近所の被災者と一緒にビールを飲んでいた。教会と幼稚園は避難場所として地域に解放し、庭のテントには救援物資などが積まれていた。そこに行っても私はなにもすることがなくうろうろしていたところ、避難者のひとりが、まあここにきて一杯飲めやと缶ビールをくれたのだ。そこには教会の隣でぺちゃんこになっていた木造住宅に住んでいたというおばあさんが居て、震災時のこと、家族ことなどを話してくれたことを昨日のように思い起こす。その時坂口吉弘牧師(現神奈川教会)が言われたことだが、震災支援のためには、まずはすぐに現場に駆けつけることだ。そして今なにが必要な支援なのかをつかみ、即座にそれに応えることが出来るような後方部隊の組織が大切なのだと。

 もう一つ大切なことは、最も弱い立場にある被災者への共生の視点であった。兵庫県被災者連絡会の会長河村宗次郎さんは、その意志に忠実に生き、未だに神戸の本町公園でがんばっている。兵庫教区は被災教区として長田活動センターを設置して、先の被災者連絡会とも連携して活動を続けている。活動センターでは日本のみならず世界の大災害救援活動にも、教会という枠を超えて連帯をしている。今回の東日本大震災発生と同時に、全国教会に募金依頼を発信し、翌12日にはセンターから所長を現地に派遣して東北教区に支援センターを立ち上げるべく大きな寄与をした。これは単に大きな被災を経験したということではまねのできないことだと思う。被災により教会という狭い枠を取り除かれたことから、新しい教会のあるべき姿に気づき,そのことを大切にしてきた賜物であると思う。

 主イェスが言う「隣人」は愛する教会や教会の仲間だけではなて、地域社会の人々への支援であることは分かっていても、自分たちの「教会」という枠を取り払うことができないのが私たちの現実だろう。石巻栄光教会は、今週一杯で地域への支援センターを閉じて、これからは自分たちの教会と幼稚園に目を向けたいという。しかし先ずは自分たちのことより、地域への奉仕に2ヶ月を捧げてきたことの意義は大きい。この経験が教団の革新につながればと祈るものである。

 

2011.5.15 「被災地慰問の旅 1」

 東日本大震災は、巨大な地震と津波と原発破壊による3重のとてつもない災害となり、早2ヶ月を経た。震災を受けてのキリスト教会関係の救援活動はネットを通じて概要は当初から知ることが出来た。私の行動力のなさから、ます現地入りし何が支援できるか調査し実行は出来なかった。募金をよびかけたり、救援物資の集積地として教会を提供したりが関の山だった。兵庫教区の長田活動センターがそれらをみな担ってくれた。そんな中やっと現地へ足を運び関係する教会や牧師、機関への慰問を先週なし得た。

 まず一日目は10日午前9時、みなから寄せられた支援物資を積み込み、息子の真実と出発、途中藤岡で栗原姉と合流。午後4時頃石巻港周辺の被災現場を視察。流されなかったが浸水しゴーストタウンとなった住宅街も。テレビなどの画像では伝わってこない言いようの無い風景だ。今日はひとまずやっと確保できた宿に向かう。宿は石巻市はもちろん、約1時間離れた仙台市内のすべての宿は復興工事関係の長期滞在者でとれず、やっと見つけた仙台市から30分程山形よりの山間地笹山温泉の宿に泊まった。この宿も多くの復興工事関係の方々が長期滞在していた。翌日は真っ先に石巻に取って返し、石巻栄光教会の小鮒牧師夫妻を訪ね激励した。教会は8日の日曜日まで2ヶ月間地域の支援センターとなり多くのボランテアも受け入れてきた。9日からはセンターも閉じ、やっと教会と幼稚園の通常の営みに戻ったところだった。しかし私たちのような訪問者はあとを立たないようで、牧師夫妻も休む間もないようだ。牧師夫妻は震災直後のことを堰を切ったように話された。そこに栗原幸子姉の亡き夫のご友人も連絡がつき駆けつけてこられた。昼頃おいとまし、石巻港一帯を見渡せる日和山公園に。そこからはまさに津波時にテレビで放映されていた場面が広がっていた。しかしテレビや写真で見ていたイメージとは全く違った感覚だ。一種独特の臭気と、色のない、全く生気が感じられない、灰色のフィルターがかけられたような、がれきを始末しているブルドーザ−—、ダンプは確かに動いているが、すべての時間と流れが止まってしまったような感じだ。単なる破壊とも違う、単なる混沌でもない。苦しみ悲しみ呻きともちがう。存在そのものの喪失状態とでもいおうか。とにかく言葉が出ない、そうだ、言葉が無い状態とでもいう以外に無いのだ。

 

2011.5.22「被災地慰問の旅 2」

 石巻港から海岸沿いに深く内陸部までも、地震と津波による惨状を見渡せる日和山公園の展望台には被災者に手向けられた花束がいたるところに捧げられていた。被災者の家族、親戚だろうか、花束の脇で言葉も無く呆然とたたずんでいる人々をあちらこちらに見受けた。何か復興策をつくるためか、環境省のご一行様も来ていた。展望台の一番西の奥から旧北上川に浮かぶ中州にはかろうじてその姿が残っている旧ハリストス教会堂の十字架が見えた。 市街地の真ん中程だろうか、こちらを向いてつまづいたように前のめりに傾いたお寺さんも、神様も仏様もかたなしだ。眼下の足下の西岸の住宅は一見無事に見えたが、よく見ると人気は全くない。相当のダメージを受けているのだろう。私たちは止まった時空の中に時の経つのも感ぜずしばしたたずんでいたが、意を決して一路次の目的地仙台市へと出発した。仙台までは約1時間の道のり。

 私は仙台市は初めてだ。高速道をおりてから道路沿の食堂で遅い昼食をとった。行く道々は平穏無事そのもの、森の都といわれている所以がよく分った。そこから最初に仙台北教会を訪ねた。礼拝堂三角屋根でかなり高い構造、講壇の正面には下から上まで大きなガラス張りで、上から2枚が破損、いまにも落ちてきそうな割れたガラスがぶら下がっていた。小西望牧師夫妻は無事。教会員一名が不明。教会学校生徒1名の家が倒壊。ゴールデンウィークには、敬和学園の生徒、ボランティアを数名受け入れたとのこと。牧師の疲れ果てたような顔が心配だった。 

 突然だが、昨晩私たちは当初の予定を変更した。予定の訪問先を全部巡るには時間がなさすぎたからだ。そこで、仙台市内を終えたら、夜遅くなっても今日中に帰ることにしたのだ。とにかく先を急ぐことにした。次は栗原姉のお姉さんのところへ。北教会に近い小高い住宅地であった。連絡なしでの訪問なので会えるかどうか心配だったが、彼女はちょうど玄関先におられた。彼女の家は全くの無害。お皿1枚割れなかったそうだ。とても頑丈な岩盤の上に建っていたからだそうだ。イエスの砂の上の家と岩上の家のたとえ話が思い浮かんだ。 人間としての盤石な土台の解釈も、だいぶイメージを変更せねばならないかも知れないと思った。人間の「想定」する盤石な土台は、物的な意味でも、精神的な意味でもまだまだ甘かったように思えたからだ。

 

2011.5.29「被災地慰問の旅 3」

 先週この欄の最後に、仙台市青葉区川平にお住まいの栗原幸子姉の姉上の家は、地域の地盤はしっかりとした岩盤なのでお皿1枚割れなかったと紹介して、イエスの「家と土台」(マタイ7:24〜28)のたとえ話の解釈の甘さを痛感したと述べた。 22日NHKのテレビ番組「こころの時代」で、今回大きな地震と津波被害を受けた大船渡市のカトリック信者で、気仙語訳聖書翻訳で有名な医師山浦玄嗣さんが語っていた。それは今回の大津波によって計り知れない被害を受けた人々のほとんどが、天への恨み言のたぐいを吐いていないことが驚きであるという。私はこの話を聞いて、大船渡の人々は長い歴史の中で何回も大きな津波被災を受けて、厳しい自然と共に生きて来たことから、培われた自然への畏敬の念が受け継がれて来たからだと思う。イエスの言う「家と土台」の「岩」の解釈は、こんな目にあいながらも天への恨み言を言わずに、受け入れていきた「心」にあるように思えた。

 具体的な家づくり、街づくりに於いて、自然災害に強い土台なり構造など、より強固で安全なものを作っていくことは大切なことであると思うが、大自然そのものへの畏敬の念は失ってはならない。聖書では徹頭徹尾、自然への畏敬の念を失った傲慢な人間の姿があますところなく描かれているのではないだろうか。自然への畏敬の念の喪失は、神への不信仰とも相通じるものだ。 そもそもアダムは、神の創られた被造物全ての管理を委ねられ、そこを耕し守ることを命じられている(創世記2章15)。しかし、人間世界はその最初からアダムとイブの失楽園物語り(創世記3章)、ノアの洪水物語(創世記6章)、バベルの塔物語(創世記11章)、ソドムの滅亡物語(創世記19章)等々神なき時代を究め、その都度大きな困難を招いてきたのだ。聖書の信仰は、それにもかかわらず、主なる神は人を許し、生かす道をつけてくれたことを証ししている。人間の困難な時にこそ、人間の小ささ、弱さを率直に認め、天の備える希望を探し始める姿勢を今回の困難から学びたい。イエスの言う「岩」はそのへんにあるのではないかと思うようになったのだ。

 後に使徒パウロが「この岩こそキリストだった」(�コリント10章4b)と看過している。確かに救いの印である十字架は、現実的には弱さ、無力さ、敗北、絶望の印なのだ。これらが盤石な「岩」となったとの聖書のメッセージの意義は計り知れない。

 

2011.6.5「被災地慰問の旅 4」

 先週はこの報告から聖書の「岩」の教説の解釈にまで話が行ってしまった。話をもどして、栗原幸子姉のお姉さんとその家の無事を確認し、早々においとまし、次は東北教区の支援センターエマオを訪ねた。センターは大きなビルの一階にあり常時スタッフが5〜6名つめていて、ボランティアの受け入れ派遣、支援物資の受け入れと分配などきめ細かい仕事をしている。ちょうどボランティアが出払っている時だったので、突然の訪問にも快く応対して下さった。二階は東北教区事務所で、ちょうど教区総会の準備作業に追われている真最中であったので、挨拶も早々に。エマオでは、わずかだが持っていった支援物資もすべて受け入れてくれたのでたすかった。実は今の時点でのむやみな支援物資は逆にじゃまになるだけと聞いていたので、実に細々としていて、しかも種々雑多であったので、おそるおそるどうかと尋ねたのだった。

 約30分でエマオを後にして、次の目的地大河原町に向かう。雨がちらつき始めた。大河原町には、千葉和雄さんご夫妻がおられる。千葉さんは当教会の礼拝堂のステンドグラスの制作者だ。震災直後連絡がつかず、郵便も戻ってきたので案じていた。大河原町の町並みは道路を走って見ている限りあまり被害を受けていなそうで、ところどころ屋根にブルーシートを認めるくらいだった。お宅の玄関先で千葉兄は庭仕事をしていた。我々の訪問に驚かれたが、お宅に招き入れられ、お茶をご馳走になった。実は千葉宅の玄関先をよく見ると段差ができていたり、ひび割れが入っていたりしていた。玄関の扉も全身で押さなければ閉まらず、中の扉も自然に閉まってしまう。家全体も傾斜してしまっているとのこと。ステンドグラスの立派な作品もほとんど割れてしまったとのことだった。千葉さんは現在大河原教会員。そして保育園長をされている。見た目以上の被災を受けながらご夫妻ともども元気でなによりだった。

 最初の計画ではこのあと常磐道に乗り、いわき市周辺の教会、水戸市周辺の教会の慰問予定だったが、移動だけで終わってしまいそうだったので、もうこのまま遅くなっても帰ることにした。雨脚が次第に強くなって行く中、往復約1,000�を走り無事帰還した。

 8日から13日の予定で釜石にボランテア行った、北信分区社会部の数名はどうしているだろうか、山本牧師のがたがたのワゴン車は大丈夫だろうかちょっと心配しながらその晩眠りについた。(終わり)

 

 

2011.7.3 「宗教改革者足跡の旅報告 1」

オーストリア航空でウイーン経由ベルリンへ。旅の始まりは、ベルリンから東ドイツを5日かけてルターの足跡を追いライプチッヒまで南下することになる。ベルリンにある大聖堂、ニコライ教会は見物しなかったが、市の博物館になっていて信者たちはマリエン教会(ルーテル教会になっている)に出席しているそうだ。大聖堂はホーエンシュテル王家の祈念教会だが現在ルーテル教会である。ちょうど教会の聖歌隊だろうか練習をしていた。ドーム一杯に響き渡る合唱はさながら地と天に響き渡るかのごとき至福の響きに包まれており、立ち去り難しくしばし聞き入っていた。我が教会堂の楽の音の響きを思いつつ。

 ベルリンとルターとの直接の関係はなさそうだ。あの東西を分離していた「壁」やブランデンブルグ門など市内見物の後、ヴィッテンベルグに移動し宿泊。翌15日は、ルターセンター、かの有名な95ヶ条の提題で有名な城教会、町教会、ルターの理解者で、やはり宗教改革者メランヒトンの家などを見学。

 ヴィッテンブルグはルターの宗教改革の中心都市となったが、ルター以前から聖餐式、修道院、聖画などの改革がすでに行われていたのだ。選定侯(選挙によって選ばれた領主)フリードリッヒ賢侯が1502年に大学を創設し、ルターは哲学、聖書学の教授として招かれた。彼の講義にはヨーロッパ各地から学生が集まったようだ。メランヒトンも1518年にギリシャ語の教授として招かれ、ここでルターとは終世深い友情を結ぶに至った。メランヒトンについてこの旅で詳しく学ぶことはなかったがここでは少し語っておこう。 ルターが非体系的・直感的な性質であったのに対して、メランヒトンは体系的・知性的であり、ルターの発見した思想を体系化することが彼の使命となった。例えば、有名なハイデルベルグ論争の時(1518年)、ローマ教会の権威に対して、聖書の至上的権威を主張すべきことをルターに示唆したのも彼であった。また彼はプロテスタント教会最初の教義学書を著したが(1521年)、そこでは救いに必要なことは「信仰によって義とされる」という教説が強調されているとのことだ。教会の権威が絶大な支配力を保持するなかで、本来の福音の指針を忘れ、民衆支配の道具と成り下がった結果、次第次第に改革の芽が成長してきたことが分かる。

 現在私たちの教会(教団)の、教職制や聖餐式問題で権威化しようとしている姿とどうしても重ね合わせてしまうのであった。

 

2011.7.17「宗教改革者足跡の旅報告 2」

 旧東ドイツをベルリンからミュンヘンまでアウトバーンと呼ばれる、速度無制限の高速道路で南下。速度無制限といってもバスは100�/hと制限されているが、サーキットさながらの爆音とスピードで追い抜いていくスポーツカーがあり、広大で延々と続く麦畑の景色の中で、そんな光景はちょっとしたアクセントがあった。

 車窓からの単調な田園の光景なのだが、もうひとつ目についたのは、風力発電のあの2枚羽の風車の多さである。もちろん畑の中にずっと続いているのではない。麦畑の向こうに見えるひとかたまりの町や村のように、10〜20、時には30機前後の塊で設置されている光景だ。日本ではたまにというかまれに見かけても1機位、それがかなりの頻度で見られたことだ。メルケル首相が方針転換で脱原発を決断した、その背景にはこのような実績も積まれていたのだと関心した。ヨーロッパではチェルノブイリ以後脱原発志向は強まってきていることは知っていたが、人々の核エネルギ−使用への危機意識の高さが伺われた。

 13日の夕べの記者会見で管首相は、「脱原発」を宣言した。死体とみられる管政権だが、是非この「脱原発」という政策に沿った道筋をつけて、政権交代しても変わらない道筋をつけてやめてもらいたいと願う。

 「『言葉』を唯一の武器とせよ」とのルタ-の信仰的信念は、教会の姿勢を問う基盤であっただけではなかった。聖書が民衆へと解放された結果、偶像として会堂から聖画像や彫刻がとりはずされたが、この改革運動が、領主への反感と相まって暴動へと走った。急進的宗教改革者トーマス・ミュンツアーなどは「神の国を作ろう」と農民を煽動し、略奪や放火など武装闘争をしたのに対して、ルターはこれを非難し、領主に鎮圧を主張したため、多くの民衆はルターから離れていった。暴力に対して軍隊を要請することのおかしさはあるが、「み言葉によってのみ」の内容として、このことは、いかなる聖戦も否定するという今日の私たちの教会の姿勢へと通じるものでないかと思うのである。このことによって孤立したルターは民衆を信じられなくなり、大きく傷つき意気消沈していた。そんなときにあらわれたのが、元修道女のカタリーナであった。聖職者の結婚も御法度破りの大改革であったのだ。カタリーナはしっかりした実務派で、ルターのためのよきマネージャーであり、6人の子どもたちの母親ともなった。彼女なしにルタ-は無かったかも。

 

2011.7.24「宗教改革者足跡の旅報告 3」

 6月13日〜24日までの表題の旅報告も4回目になるがあまり先に進んでいないので少し飛ばすことにする。16日はライプチヒのトーマス教会、ニコライ教会、バッハハウスを見学。今回バッハはテーマとなっていないのが残念。トーマス教会でオルガン曲などちょっとでも聞きたかったが全くなし。教会の外に立っているバッハの巨像の下で、アメリカから来たご老人方の合唱団(20名位)が、相当時間ヤンキーらしい合唱をしていたので、私は、みながバッハゆかりのお土産を物色している間もっぱらこの合唱の聴衆となった。

 次にニコライ教会へ。ここでは次の日のための演奏会のリハーサルがなされていた。曲はヨハネ受難曲で、多分著名なグループとソリストたちだと容易に想像のつく演奏であった。これはおもいがけない大きなひろいものをして得をしたような気分だった。

 ルタ−の生家のあるアイスレーベンに。町に近づくと、向こうの方にボタ山が見え始めた。ボタ山というと私は築豊の石炭のボタ山を思い浮かべるが、ここは銅山のぼた山だ。ルターの父親は農民出身で後に小さな銅山を持ったそうだ。だから息子のルタ−をエルフルト大学に進学させ、法学を学ばせて弁護士にでもなって欲しかったようだ。しかしルターは父親の期待を裏切り、修道士となることを目指した。そのことを父親に打ち明けるべく、帰省の途についた。 ところがシュトッテルンハイムという草原で落雷に遭い恐ろしい体験をした。それまで父親の手前彼の決意は揺らいでいたのだが、その時にはっきり決意できたとのことだ。

 神の啓示(神のみ心を人にはっきりと明示すること)は、聖書では夢、幻によったり、光、雲、稲妻といった自然界の大きな事象をもって、啓示の神秘さや衝撃の強さが言い表されている。自分の決意が自分勝手なものではなく、主が共におられることによって、人々にとっても、なくてはならない自己存在の確信へと、この啓示は導いてくれるのだ。

 ちなみにこの私を牧会者へと押し出してくれたのもこの「啓示」による。私の場合は、夏の妙高高原での早朝、黒姫山から野尻湖辺りの空にかかる朝もやの中から聞こえてきた主の言葉による。「おまえは神学校へ進め」と。私は本当はスポーツか音楽の道に進みたかったのだが、私の選択肢にない道が示されたのだ。だから無能な私が今日までもっているのだと思う。

 

2011.9.4「宗教改革者足跡の旅報告 4」

 夏の礼拝コンサートの期間、このシリーズの中断をした。どのくらいで終わるかわからないが、終わるまで続けることにする。前回は7月24日までで、マルチン・ルターの雷の啓示までであった。

 ルタ-はその後1505年、エルフルトにあるアウグスティン派修道院に入り、その間ヴィッテンベルグの教授など務め、1511年には同修道院の副院長となり、この時に詩編、ロマ書、ガラテヤ書などの講義をなした。そして1517年ヴィッテンベルグ城教会の扉にあの有名な95ヶ条の提題を掲げ、これ以来ハイデルベルグ論争をかわきりにローマとの論争に入っていく。

 ローマによる破門にルターは動揺もしたが、彼の信念は増すばかりで、1520年にはあの有名な「キリスト者の自由」など宗教改革3大文書と呼ばれ、宗教改革の指針となった著作を顕している。ローマではルターの著作が焼かれるなど迫害ののろしがあがった一方、ルターがこれに対抗してヴィッテンベルグで教皇の大教書を焼き、これにルターの同僚メランヒトンや学生たちが呼応し、ルター自身も宗教改革に身を投じる決意に至ったのである。

 メランヒトンはルターの信仰義認論などの体系的理論づけをした人である。彼の人文主義的教養は、福音を教会の独占物から民衆へと解放していく理論的エネルギーでもあったと思う。メランヒトンの「福音的聖餐式執行」やカールシュタットの「ブドー酒の一般信徒への配餐」などは、この解放理論の必然的な帰結となったようだ。最近わが教団の権力者たちが、聖餐式を未信者へ解放した牧師に対して、一切の神学的検証なくして、策謀と数の論理で強権を発動したことは、宗教改革時のロ−マのやりかたよりもひどいと思うがいかが?

 命を狙われていたルターは、選定侯フリードリッヒにより、チューリンゲンの森を見下ろす、ワルトブルグ城に9ヶ月匿われ、その間新約聖書のドイツ語訳を成し遂げた。聖書が民衆に解放されたのだ。それまでは教会の独占物とされ、そのことによって教会と教職者の権威づけがなされていたのだと思う。教皇絶対主義(教皇無謬説)、そこには民衆支配のトリックがあったのだ。信仰の世界にせよ、一般の世界にせよ「〜絶対主義」といわれるものには細心の注意を払って警戒したほうがよいことは、3.11の福島第一原発事故の「絶対安全神話」の崩壊が最新の証明となったと思う。そんなあれこれを学び、思いを巡らしながら、ドイツを後にしたのであります。

 

2011.9.11「宗教改革者足跡の旅報告 5」

 「宗教改革者ゆかりの地を訪問の旅」のドイツ編をアットランダムに5回にわたり語ってきた。旅の順路を簡単に紹介しておこう。6/13(月)成田発。オーストリア航空でウイーン経由でベルリン入り。14(火)市内一巡。15(水)ウィッテンベルグでルターセンター、城教会、町教会、メランヒトンの家見学。16(木)ライプチッヒのトーマス教会、ニコライ教会、バッハハウス、アイスレーベンに移動ルターの生家、教区教会見学。イエナ泊。17(金)エルフルトのアウグスチヌス修道院、大聖堂、クレーマー橋、シュツッテルンに移動してルター落雷の体験の地。再びイエナ泊。18(土)はアイゼナハへ。ワルトブルグ城、ルターの家、聖ゲオルグ教会。19(日)がドイツは最後となる。ニュルンベルグからミュンヘンを経て、いよいよオースリアチロル地方入り。

 10年に一度の受難劇で有名なドイツ・

オーバーアマガウからほど近い場所だが、ティアゼーに直行、ここは今回の旅のもう一つの目的でもある、6年に一度開演している受難劇鑑賞だ。時はドイツにおける反宗教改革の30年戦争(1618〜48)の最中にドイツとオーストリアにペストの大流行が襲っい、多大な犠牲者への嘆きと生き残った者が神への感謝をささげたことによって始まったと言われている。受難劇発祥の詳細は分からないが、オーストリアには他に5カ所くらいで上演されているそうだが、多分民族や村々の存亡がかかっている歴史的危機状況を村人あげて語り継ぎ、キリストの受難に自らの苦難を重ね合わせて銘記しているのだ。またそのことを世界に地道に発信し続ける村人の姿勢には敬服以外にない。聖書の民にはたしかにそのような姿勢があった。出エジプトを記念する過越の祭りがそうだ。わが日本にはあるだろうか。太平洋戦争での敗戦は日本にとって国家存亡の歴史的危機であったはずだ。

 原水爆禁止世界大会は毎年広島で開催されつづけているが、アメリカの「核の傘」のもとに安穏としていたり、安保条約の強化や深化を進めている国の姿には、過去の過ちやそのことによる惨禍への懺悔と平和希求の言葉は色あせて久しい。せめて私たちキリスト教会は、受難劇とまではいかなくても、現在まがりなりにも持っている「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」の内実を深化させていく必要があるのではないだろうか。

 この観劇は、観光案内にもないチロル地方のちいさな片田舎での至福の時であった。

 

 

2011.9.11「宗教改革者足跡の旅報告 6」

 「宗教改革者ゆかりの地を訪問の旅」のドイツ編をアットランダムに5回にわたり語ってきた。旅の順路を簡単に紹介しておこう。6/13(月)成田発。オーストリア航空でウイーン経由でベルリン入り。14(火)市内一巡。15(水)ウィッテンベルグでルターセンター、城教会、町教会、メランヒトンの家見学。16(木)ライプチッヒのトーマス教会、ニコライ教会、バッハハウス、アイスレーベンに移動ルターの生家、教区教会見学。イエナ泊。17(金)エルフルトのアウグスチヌス修道院、大聖堂、クレーマー橋、シュツッテルンに移動してルター落雷の体験の地。再びイエナ泊。18(土)はアイゼナハへ。ワルトブルグ城、ルターの家、聖ゲオルグ教会。19(日)がドイツは最後となる。ニュルンベルグからミュンヘンを経て、いよいよオースリアチロル地方入り。

 10年に一度の受難劇で有名なドイツ・オーバーアマガウからほど近い場所だが、ティアゼーに直行、ここは今回の旅のもう一つの目的でもある、6年に一度開演している受難劇鑑賞だ。時はドイツにおける反宗教改革の30年戦争(1618〜48)の最中にドイツとオーストリアにペストの大流行が襲っい、多大な犠牲者への嘆きと生き残った者が神への感謝をささげたことによって始まったと言われている。受難劇発祥の詳細は分からないが、オーストリアには他に5カ所くらいで上演されているそうだが、多分民族や村々の存亡がかかっている歴史的危機状況を村人あげて語り継ぎ、キリストの受難に自らの苦難を重ね合わせて銘記しているのだ。またそのことを世界に地道に発信し続ける村人の姿勢には敬服以外にない。聖書の民にはたしかにそのような姿勢があった。出エジプトを記念する過越の祭りがそうだ。わが日本にはあるだろうか。太平洋戦争での敗戦は日本にとって国家存亡の歴史的危機であったはずだ。

 原水爆禁止世界大会は毎年広島で開催されつづけているが、アメリカの「核の傘」のもとに安穏としていたり、安保条約の強化や深化を進めている国の姿には、過去の過ちやそのことによる惨禍への懺悔と平和希求の言葉は色あせて久しい。せめて私たちキリスト教会は、受難劇とまではいかなくても、現在まがりなりにも持っている「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」の内実を深化させていく必要があるのではないだろうか。

 この観劇は、観光案内にもないチロル地方のちいさな片田舎での至福の時であった。

 

2011.9.25「宗教改革者足跡の旅報告 6」

 オーストリアのハイジの里に代表されるチロル地方の牧歌的山岳地帯を満喫しつつ、オーストリアとスイスの国境にある人口3万 1千人(面積160㎢)の小国リヒテンシュタインを通り、スイスへ。スイスの宗教改革者といえば、ツヴィングリ、フルドリヒ(1481〜1531)とジャン・カルヴァン(1509〜1564)である。

 今回のツアーでのツヴィングリ先生は三浦修(埼玉和光教会)牧師。彼のレポートからの報告を要約する。ツヴィングリの信仰(思想)の第一は人文主義の影響を色濃く持っていた。人文主義とは「教会の権威や神中心の世界観から人間を解放し、ギリシャ・ローマの言語・文学・芸術の研究を通じて普遍的な教養を身につけ、人間の尊厳を確立することを目ざす運動。」(広辞苑)この立場の影響を背景にもちつつ、聖書のみの原理に到達。特にスイスの傭兵を問題とし、法王庁の頽廃を批判しチューリッヒの福音主義化に成功した。しかしドイツのルター派との同盟はならなかった。だが、ツヴィングリと政治との癒着など非福音的と批判された。彼はスイスの内戦、31年のカペル戦役で戦死した。彼の運動は未完となったが、やがてカルヴァンに引き継がれてルター派とは別の流れになって行った。

 カルヴァンは、川口教会の本間牧師がなりかわって講義された。彼の講義のレジメを要約する。カルヴァンはフランス出身、法学を修め、人文主義を身に付け、ルターの影響も受けてフランスでの宗教改革運動に加わるが、迫害を受けスイスのバーゼルに逃れた。やがてジュネーブの改革派市民に招かれ宗教改革運動に参加した。そして厳格な教会の改革を実現し、信仰にもとづく政府をうち立てて指導者として大きな役割を果たした。しかし、ルターやツヴィングリが国家教会体制を樹立したのに対して、国家と教会の分離をはかり、常に都市当局と緊張、対立関係を維持した。またルター派以上に反カトリック的で非妥協的あった。彼の神学の特徴は「予定説」。信仰義認説をとったが、救いはあらかじめ神によって予定されているから人はひたすら規律正しい生活と仕事に励み、神の栄光をたたえるのみと教えた。改革派は位階秩序や聖職者の特権を認めない万人祭司主義を採用したが、カルヴァンは信徒の中から信仰の厚い者を選び、牧師とする長老主義をとった。結果、市民は厳しい公共道徳を求められ、生活の隅々にまで厳格な規律が求められた。

 次回はルター派のコラールとカルヴァンの詩篇歌についてのべ、長きにわたった報告を終えたい。