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天声JINGO アーカイブ

2011年度10月〜

2011.10.2「宗教改革者足跡の旅報告 7」

 宗教改革者の足跡の旅は、ルター、ツヴィングリー、カルバンの3人にしぼっての見学と学びのときであった。先週の報告はツヴィングリーとカルバンで、面白くもない報告になってしまったが、いずれの改革者たちにせよ、出発点は教会(ローマカトリック)の聖書的矛盾や、権威主義、堕落などに対する批判であったことだ。結果としてプロテスタント諸派が産まれたが、それぞれのあり方はそのまま現在の我々の教会にあてはまるものではないが、少なくとも�信仰によってのみ�万人祭司論は、宗教改革当初宗教改革者たちの共通した出発点であったことは間違いないだろうことが確認された旅でもあった。

 ルターのとった政教一致の教会体制は今日では通用しない。ツヴィングリーのように正義のためなら戦争も辞さないという暴力肯定も組みしがたい。またカルバンのように、教職者の権威化と信徒への厳しい規律も、教会の権威主義と律法主義化への誘惑に容易に陥る危険性に満ちたものに思えたのは私だけだろうか。

 現在日本キリスト教団の指導体制は、教会の権威を強化する権威主義化と、安易に教憲教規を盾に、異なった意見や行動を切り捨て、教職や信徒の資格剥奪がなされているように思えてならない。

 最後に宗教改革の讃美歌について簡単に述べておく。

 私はツアーの聖日礼拝をまかされた。宣教にルターの讃美歌「みことばもて主よ」(21-50番)を引き合いにさせてもらった。この最初の一番には、「教皇とトルコ人の殺戮を阻止して下さい」という言葉があった。そしてこの讃美歌が1543年の讃美歌集に収録された時には、「キリストとその教会にとっての二つの原初の敵(悪魔)、すなわち教皇とトルコ人に対抗して歌う子どもたちのための讃美歌」という題がつけられていた。ここにはイスラム教徒へのルターの偏見があり、多くの批判があって後には言い換えられたが、十字軍時代のイスラムにとってはキリスト教が悪魔と見られていたことだろう。これはルター自身も自己中心的要素を多分にもっていたことの左証となる。信仰義認ならぬ自己義認にならぬよう心したいと宣べさせてもらった。

 カルバンも讃美歌は重用視して、詩篇歌を採用した。これは詩編の言葉そのものなので、現代人の恣意的要素ははぶかれるが、まだ日本の教会での礼拝での採用度は低いようだ。讃美歌21にも113番〜172番まで収録されている。

 以上をもって8回におよんだ旅の報告を終えさせていただく。

 

2011.10.9「安全と平和」

 10月1日(土)軽井沢9条の会の例会で、柏崎刈羽原発を見学に行った。刈羽9条の会の代表・本間精一さんが事前から丁寧に段取りをつけて下さって、柏崎インター出口では歓迎のプラカードをもって迎えて下さった。その足で先ずは柏崎地域振興局の施設で、柏崎刈羽原発反対地元三団体事務局長の斉藤さんから原発につき事前学習を受けました。2007年の中越地震による7基すべての停止と、損傷状況は聞く程恐ろしい状況だったこと。それにもかかわらず運転再開。3.11の福島第一原発で明らかな安全神話崩壊で、柏崎刈羽原発の安全対策も色あせてしまったこと。しかし刈羽村では6,000人の人口のうち半数近くが東電関連の仕事をしているので地元での反対運動の難しさを訴えておられた。

 昼食後いよいよ本命の原発へ。柏崎市と刈羽村の双方に敷地があるので(東京ドーム90個分。420万㎢)この名称がついたということも初めて知った。日本海が目の前に開け、佐渡島も遠望できる。国立公園にでもして豊かな自然を保ってもらいたい場所だ。見学にはあらかじめ名前住所生年月日などの申請が求められ、入館には身分証明書が求められる物々しさだ。原発そのものの建屋には入れず、自動車で若い女性の案内人が施設内を約30分かけて周り説明してくれた。その後資料館(5階建て)で見学。原発の仕組みなど模型も贅沢に展示説明されていた。総じて言うと、この原発は7基あり世界一大きく、発電量も世界一を誇り、いかに安全対策がなされているか、そして他の火力や水力などより、抜群の低コストかが強調されていた。思わず安全神話の信仰へと引きづり込まれそうになるような、いたれりつくせりの丁寧で贅沢な説明であった。多分事前の学習がなければ、多くの人々は、3.11の事故にも関わらず、依然として安全神話の信奉者となってしまうのではないかと思う程だ。

 「身分の低い者から高いものに至るまで 皆、利をむさぼり 予言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う。(エレミヤ書6:13〜14)

まさにBC580年頃の予言者エレミヤの預言は、現在の原子力に心を奪われた者たちへの嘆きとして充分伝わる預言ではないだろうか。人間は2,500年を経てもまだ己の利に囚われ続けているのだ。どんなに大きな破滅を経験しても。

 主の十字架の恵みは、無条件の赦しだが、人はどれだけ感謝しているか。あまりにも甘えきっているとしか思えない。主の十字架の恵みと赦しの中には、同時に主が負った死の苦しみを分ち合うという半面があることを忘れてはならない。主の晩餐(聖餐)に与る恵みは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)という面を伴ってはじめて知ることの出来る至福へと至るのだ。

 

2011.10.16「科学と信仰」

 科学と信仰は相容れないと言う人がかつていた。それは多分旧約創世記の天地創造物語を逐語的に信じる信仰と、進化論などの科学によるものとの対比によるものだったと思う。もともと科学というのは「体系的であり、経験的な実証可能な知識。物理学、化学、生物学のみならず経済学、法学などの社会科学、心理学、言語学などの人間科学もある。また狭義では自然科学をさす。(広辞苑)」とある。哲学や神学は科学に入るのか入らないのかよく分からないが、聖書はあくまで人間存在の意味や人間と自然との関係性から、神なる絶対者を認識しはじめて、やがてこの世の存在すべてが相対的であることを知るに至ったプロセスであると思う。つまり人間は絶対者にはなりえないし、この世の他の物も絶対者とはなり得ないということなのだ。

 きわめて荒っぽい言い方だが、そう考えると「信仰」は「科学」的という他なくなる。なぜ信仰は人間存在そのものの現実から考え始めるからだ。なぜ人間は他の動植物と違うだろうか?なぜ女と男とがあるのだろうか?人はどうして自分勝手なのか、どうして人は嘘をつき繕うのか、女は出産で何故苦しむのか、人はどうして労働の苦しみを負わねばならないのか、などなど創世記の天地創造物語では、そんな人間の経験的現実から出発しているからだ。

 そのようにして長い歴史の中から人間が学び取った基本的姿勢がある。それは、絶対者なる神が「愛(アガペー)」であるとうことだ。イエス・キリストは、その「愛」の人間世界における具体的なありようを示してくれた。それが「十字架の姿」なのである。彼の生前の言動から見ると。この世で最も小さき存在が最大限に尊重されることではなかったか。この世で最も小さく弱い子供を中心に置き、受け入れる社会が天の国に近いと説き(マルコ10:13〜16),このような小さい存在をつまずかせることは滅びに通じる(マルコ9:42)と説いている。

 原子力という科学の恩恵を求めてきたことは、他の豊かさを求めてきたことと同列かも知れないが、いずれにしても、この世の小さい存在を傷つけたり、無視したり、足蹴にしたり、切り捨てるような行為は厳に慎まねばならないことが信仰者の道であることは間違いない。3.11の原発事故は、今までも、事故の現在も、これからもどれだけ小さい存在を傷つけ犠牲にしていくか計り知れないことを思うと、科学と信仰を引き離してきたことの愚を思わずにはいられない。

 

2011.10.30「子どもを中心に」

 先週聖日は秋の伝道賛美礼拝ということで、初めての試みであったが、過去にこの教会で結婚式を挙げた方々にホームカミングデイという事でご案内をした。その結果7組のご夫妻、ご家族が応えて下さった。残念ながら一組はつわりがひどくなられたとの事で急遽来られなくなったが、元気なお子の出産を祈る。また、欠席のご連絡も2組からいただいた。

 参加した6組中4組のご家庭にはお子さんがあり、5名の乳幼児がお出でになられたので幼児祝福式を行なった。当教会が伝道集会として地域にいくら呼びかけてもそう集まってくれるわけではない。その点挙式者へのアプローチは大変意義あることであろう。集まられた方々は、少なくとも結婚の初心に立ち帰ってくくれることにより、よりよき家庭を築きあげることにつながってくれれば良い。今回参加された方々には、このような取り組みについてのアンケートをお願いした。まだ返事はないが、参加者の意見も取り入れて来年以降も続けていきた。

 イエス・キリストは「〜心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない〜」(マタイ18:1〜5)とおっしゃっているが、5名の子供たちと一緒にもった礼拝は、こころなしか参列者全体の雰囲気が生き生きとしてエネルギッシュに感じたのは私だけだろうか。イエス・キリストの教えの根幹には、この世で最も小さい者を中心においた共同体にこそ天の国の姿が投影されているというものであるが、私たちの教会には普段乳幼児のいないことがほとんどなので、今回5名の乳幼児とその父母たちとの礼拝は、礼拝のダイナミクスを感じることの出来た大きな要因であったと信じる。

 「子供のように」というイエスの教えの内容は意味深である。そこにはこの世の小さくされている存在、貧しい存在、被差別にある存在から、小より大、貧より富、無力より宥力といったこの世の価値観の正反対のことをも含有しているのである。

 イエス・キリストの十字架の苦しみと死こそが、最も小さいものの範である。教会は大きくなること、多くを得ること、より富むこと、社会の上座に座ることを求めてはいけないのだ。その逆でなければならない。この世の価値観に死ぬことによって初めて得る事の出来る、新しい命、復活の命、永遠の命への息吹を感じとることが出来るのは、そこに天の国に通じる道が備えられているからに違いない。

 

2011.11.13「エクレシア」

結婚式のガイダンスで必ず説明する事項に「キリスト教会とは」がある。日本語の「教会」はどの宗教であっても「教会」をつけていることが多いからだ。聖書のギリシャ語では「エクレシア」という用語が使われている。「エクレシア」は美味しそうな響きのする言葉だが、エクレアと間違わないように。岩波のキリスト教辞典によると「原義は『呼び出された者たちの集合』。ギリシャ・ヘレニズム文化圏ではやがて政治的決議権を有する成人男子から成る市民集会をさす術語となった。新約聖書では使徒言行録19:32,39,40でエフェソ市の『集会』にその用法が用いられている。マタイ16:18、18:18では『教会』と訳されている。しかしイエス自身が用いたとは考えられず、後の原始キリスト教会が初めてこの用語を用いたと考えられる。旧約聖書では神の民イスラエルが「カーハール=会衆」と呼ばれていたことに対抗して『真のイスラエル』という自己表現をしたもの。」とある。

 結婚式のガイダンスで私は、「古代ギリシャの都市国家では、国家の重要な事案を決める時に、アクアポリスの神殿のような高台から招集ラッパが吹かれる、市民権を持った者たちがその招集ラッパの響きを聞いて集まり衆議をなし決めていくという実に民主的なやり方なのだが、その場合招集ラッパを聞いて集まってきた者たちの群れ、共同体を『エクレシア』と言った。だから、教会は、信じる同じ神の呼びかけに応えて集まってきた人々の群れなので、この「エクレシア」という言葉を頂いたのだ。」そして、あなた方も私たちが信じる同じ神によってここに集められた者であると理解することによって、この教会での結婚式を受け入れるのだと説明している。

 この「エクレシア」を使用する原始キリスト教会の背景には、旧約聖書の「カーハール=会衆」(ヘブル語)があることは先に述べたが、合わせて考えると、もともとキリストの教会は、「会衆主義」がその基調にあったと言える。

 とはいえ、招集者は主なる神であり、教会の「頭」はイエス・キリストなのだから、主の思い、その言葉が最重であることはいうまでもない。集められた私たちの論議や決定は、あくまで主の意志に添ったものでなければならない。祈りとみ言葉への聴従なしにはなにも決定できないのが主の教会であると思う。

 

2011.11.20「メサイヤ」

 去年のクリスマス、12月25日(土)午後3時〜5時、軽井沢矢ケ崎公園にある大賀ホールにて、鈴木雅明さんが代表するバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)によるヘンデルの「メサイヤ」が上演された。鈴木雅明さんはもちろんのこと、鈴木さんの息子さんやオルガンの今井奈緒子さん、カウンターテナーの青木洋也さんが出演しておられ、私たち夫婦は今井さんから招待されていた。その上古楽器調律師は今井さんの結婚相手となったばかりの林彰見さんであった。世界的に評価の高いこのBCJの演奏がこの軽井沢で聴けるなど夢にも思っていなかったことだ。実はこの上演にあたって、かなり前から大賀ホールの安川館長や支配人の大西さんから、この企画について相談も受けていた。そのとき私は諸手をあげて賛成し、最大級の協力をすると約束していたのだ。

 今年も12月25日(日)午後3時から同「メサイヤ」の上演が決まっていた。今年も事前に上演の時期について上記のお二人から相談を受けていた。そのとき、今年は24日(土)がクリスマスイヴで25(日)はクリスマス礼拝となるから、どの教会もアウトですよとお話した積もりが、なんと開催日が25日(日)となっていたのでがっかりである。その旨館側に言ったが、館側は、24日のイブを避ければ良いと思ったとのことである。

 その上で、17日に私とショー記念礼拝堂の土井司祭が大賀ホールに招かれて、「メサイヤ」上演と、軽井沢の発展について座談会形式で話す機会があった。そのとき私が話したことの一つを紹介しよう。

 軽井沢の軽井沢らしさ(歴史と伝統)の本質は何か。一般には100年前にカナダ聖公会宣教師ショーによって開拓された、心地よい風のそよふく静寂な避暑地としての品格みたいなものとされているが、私は「メサイア」が何故軽井沢に似つかわしいかというと、聖書全体を歌っているメサイアは、神の息そのものであり、ヘブル語で「ルーアッハ」は息、風、霊を意味することを語った。軽井沢の「風」は、自然をも支配する創造主からの「風(息・霊)」をベースに伴った風となって初めて人を引きつけて止まない魅力となるのではないか。去年のメサイヤ上演の大成功の秘密はそこにあると強調した。それ加えて土井司祭は、今の軽井沢の現状は、例えば教育の中から宗教性(特にキリスト教)を排除しているのは嘆かわしいと強調しておられた。みなさんはどう思われるのだろうか。

 

2011.11.27「アドヴェント」

 本日から、教会歴ではアドヴェント(待降節)に入る。本年はちょうどクリスマス・イヴが24日(土)で、25日(日)が降誕日礼拝とうことで都合が良い暦年となった。

 英語でアドヴェント(Advent)とは「到来」を意味するラテン語Adoventusに由来している言葉。クリスマス前の4番目の日曜日から始まる期間をさし、救い主キリスト(メシア)の第一の到来(クリスマス)だけでなく、第2の到来である「キリストの再臨」

にも心を向け、期待と喜びの期間とされている。この期間は公現祭1月6日、イエスがキリストとして世にデビューした日(ヨハネから洗礼を受けた時)までの洗礼の準備期間ともされて来た。現在の私たちの教会ではクリスマスに洗礼式をしている。しかし洗礼式はクリスマスやイースター(復活日)に限らず、希望者の状態に合わせて適時行ってもいる。

 アドヴェントの真の意味はこの世の暦上だけの期間では決してない。私たち一人一人の人生の始めから終わりまでがアドベントであると思う。それはクリスマスから始まる新年の歩みとも重なっている信仰者独特の生き方なのである。それは私たちが日常使っている交流電流のようなものである。「待ち望む」という期待の姿勢と「到来」という喜びの姿勢が行ったり来たりすることにより、明るい電気の光を得るように、私たちの人生も「希望」と「喜び」という光を与られるのだと思う。

 讃美歌242番に「主を待ち望むアドヴェント」があるように、本日から礼拝堂にはアドヴェント・キャンドルが灯される。救いの希望に向かって希望の光が次第に大きくなっていく仕組みだ。それは旧約聖書の預言に当たる部分だ。たとえば予言者イザヤは、不義と不公正のこの世の現実に喘ぎ、悲しみ、絶望の淵に追いやられていた民に慰めと希望とを預言している(イザヤ書40章)。詩編の詩人は「死の陰の谷をいくときも わたしは災いを恐れない」(詩編23篇)と詠っている。

 今年は私たちにとっては東日本大震災と原発事故は詩人の言う「死の陰の谷を行く」という現実そのものである。死者15,840人。行方不明3,611人。避難/転住328,903人(11/26現在)。という数字を自分自身の現実として受け止めたい。また恐ろしい死の灰(放射能汚染)の恐怖の現実を看過してはならいだろう。そんな悲しみと恐怖の現実にある人々と共に「主よきたりませ」と歌うアドヴェントでありたい。

 

2011.12.4「クリスマスと差別」

 防衛省の田中聡沖縄防衛局長が、米軍普天間飛行場の移設計画をめぐり、非公式な記者団との懇親の席で、環境影響評価書の提出時期についての問いに「犯す前にこれから犯しますよと言うか」と応じたことが29日にスッパぬかれ、現在大問題となっている。この種の「差別」発言は多かれ少なかれ、非公式の場でよく聞かれるのだが、今回もあまりのひどさにオフレコの酒の席の上のことであったとしても看過できなかった記者が、ごく少数だったとしても居たとは、なにか救われる思いがした。

 私は10年前この教会に赴任したが、確かそのころ、沖縄教区(沖縄キリスト教団)が、日本基督教団と合同した時(1968)、それは不平等な合同であったとして、同合同のとらえなおしの 作業が長年教団総会レベルで継続されてきたにもかかわらず、何の成果もあげることができないまま、突然廃案とされ、これに失望した沖縄教区はそれ以来、教団とは、縁を切るまでとは行かなかったが、「距離」を置くということで今日に至っている。

 このことを受けて、私は赴任直後のことであったと思うが、東海教区総会で議長に質問したことを思い出した。つまり教団の姿勢には、一般社会でもそうであるように、沖縄蔑視、差別の意識があるのではないかとの趣旨の質問をしたところ、当時の議長は「そんな大上段に構えたようなものではない」と答えられた。沖縄に対する日本本土の支配的仕打ちは、薩摩時代からあるもので、戦前、戦後を通じていまだに根強くある民族差別でることを、私は、沖縄の引退牧師山里勝一牧師から長年にわたって語り聞いていたので、私個人がどう思うかではなくして、歴史的に差別をして来た本土の人間として、差別者であると自己認識をしてきた。だから、そのときの議長の答えにたして、ただただあっけにとられるばかりであった。

 「差別」は被差別者の人権のみならず、生命をも奪ってはばからない恐ろしさを秘めている。そんな意図は無かったとどんなに弁明しても、差別者からの脱却は容易でないことを知らねばならないだろう。

 クリスマス物語では、イエス自身が被差別のただ中に生まれているではないか。生命すら脅かされている。そのイエスがキリストとされたのだ。今の沖縄の中にこの被差別者イエスがおられるのだ。沖縄が陵辱されればされるほど、そこを避けては、日本の救いはないのだ。そこにイエス・キリストが共におられるからだ。

 田中聡沖縄防衛長長官のとんでもない差別発言を機に、我々はちゃんと沖縄差別の現実を認識するクリスマスでもありたい。

 

2011.12.18「福音書のクリスマス」

 クリスマスは英語で「Christmas」で。Christは「キリスト=救い主」を意味し、「Mas=ミサ」のことで礼拝を意味しますから、クリスマスはイエスと名付けられたあかちゃんを神から人類への贈り物として受け取り、感謝をささげるということなのです。

 テレビで、今年のクリスマスはどうすごすのかと、若い女の子たちに問う番組がありました。別に何の予定も計画もないとう人が大部分だったと思いますが、できれば彼氏を見つけて一緒に過ごしたいというのが一般的な願望のようでした。教会に行くという女の子は一人もいませんでした。巷のムードだけを楽しむ風潮は、昔から変わっていないなと、ため息がつい出てしまいました。そこで、クリスマスの本家本元である聖書ではどんな礼拝だったのかを読み直してみましょう。そして、皆さんにとっての今年のクリスマスをどう受け止めるのか、ちょっと考えて見て下さい。

ワンポイントのみ礼拝者を抽出します。

1) マタイによる福音書では1章と2章に書かれていますが、2章に占星術の学者が訪れて礼拝しています。救い主の到 来を信じて遠く旅してきた最初にして唯 一の礼拝者は、東方から来た異邦人で、 聖書の民イスラエル(神の民)の正統派の人々ではなかったのです。肝心のユダヤの人々は、救い主の到来に気づかず、異邦人によって知らされたのです。ヘロデ王はこともあろうか、救い主を殺そうとしています。

2) ルカによる福音書では1章28〜2章21です。ルカでは占星術の学者ではなく、ユダヤ人でしたが、安息日を守れない、罪人とされていた野の羊飼いたちのみが天使のお告げを信じて、駆けつけ礼拝しています。しかも人間の生まれる場所ではなく、家畜小屋でした。ここでも、救い主の到来を待ち望み続けていたのは正統派のユダヤ人ではなくして、世間からは相手にされない野の荒くれ者だったのです。

3) ヨハネによる福音書のクリスマスは、1章1〜18に書かれていますが、とても哲学的表現です。それは「神=言葉=光」と言われています。つまり神の言葉であり、神の光であり、神の命を秘めている。また神の恵みと真理に満ちている方。それがキリストだと。そしてイエスこそがそのキリストとして受け入れ指し示したのが、荒野で罪の悔い改めを叫んでいた、バプテスマのヨハネでした。彼は直後ヘロデ王によって処刑されています。

さて、今年の貴方はどのような礼拝者なのでしょうか。

 

2011.12.25「サンタクロース」

 私の子どもたちや孫たちもそうだが、クリスマスは、幼稚園の子どもたちにとってサンタさんへの思いは特別なものがあった。胸が踊り、期待感が高揚する一種独特の雰囲気に包まれるからである。幼稚園や保育園の園長時代、園児のサンタへの手紙にいちいち返事を出すのが園長の役目であった。60名からの園児たちの手紙に返事を書くのは容易ではなかった。なかにはけっこう答えようのない質問があったりして、この時期はほんとうに園長にとってはクリスマスならず「クルシミマス」であったことを思い起こす。子どもたちは純粋にサンタの存在を信じて待っているのだ。私の子どものころもそうだった。ただ私の子どもの頃は、サンタに欲しい物を手紙でねだるなどということはなかった。朝目覚めて枕元に置いてある包みを認めて、もうそれだけで満たされる思いであった。そして何が贈られてきたのか、包みをそっと開いて覗き込んだものだ。親が自分の子どもに一番良いと思う物を用意してくれているので、包みの中に不満を思う事はなかった。

 そこには贈る側と受け取る側の関係性が問われているように思われる。贈る側が親であれば、親がどれだけ子どもを見つめ、配慮し、備えるという具体性をもった愛情を、日常的に注いでいるかどうかであろう。受け取る側が子どもであれば、自分がどれだけ家族や、園、学校といった周囲の社会から受け入れられているかを、体全体で感じて育っているかどうかであると思うのである。

 そのような関係性がしっかりしていれば、子どもにとって近い将来、サンタの正体が親であったと分かっても興ざめしないばかりか、自分自身が親となってからも喜んでサンタに成りうるのではないだろうか。何故なら、そこには神と人間との愛の関係に裏打ちされた親子の関係が成り立っているからだと信じる。

 世界ではじめてのサンタの出来事、それはクリスマス。親の心知らずの子どもである人間そのものを、分け隔てなくこよなく愛し求めている神ご自身を私たちに無条件で与えてくれた出来事。かつ、おっかない親父面した権威者としてではなく、小さく弱く無垢な赤子の姿として贈られた出来事だ。

 幼児といえども、サンタなんか嘘だというませた子も確かにいる。そんな子に私は言ったものだ。人間のサンタさんは、本当のサンタさんである神さまのお手伝いをしているのだから、本当のサンタからの贈り物が届いているのだよと。だからあなたたちも、大きくなったら本当のサンタさんのお手伝いサンタになってねと促したものだ。これは「主の教会」の姿であもある。

 

2012.1.1「平和な年であれ」

 先年は3.11東日本大震災とそれによる福島第一原発爆発事故による放射能汚染問題でほんとうに大変な年であった。そしてこれは新年にも引き続き負っていかねばならない深い傷であり、重い重荷でもあるし、これから何年負えばいいかわからないほどのものでもある。直接の被災者たちの傷とその荷の重さは、被災しなかった私たちには計り知れないものがあるだろう。

 私たちの教会はそのことを決して忘れまいと、まことに微力ではあるが、毎週礼拝で祈りに覚え、募金を続けている。特に原発爆発事故による、計り知れない被爆状況からの解放は一体何時になるのだろうか。聖書に記録されている、エジプトの奴隷の束縛時代、バビロン捕囚時代と同質の事態に陥ったと思えるからだ。

 旧約聖書では苦難の民への、主なる神の慰めと解放と回復への約束が預言者らによって洞察されている。ヘブル語で「シャローム」は日常的挨拶の言葉だが、それ以上に、家族・共同体・諸民族の間の調和という社会的政治的原則を意味したそうだ。 その考え方の底には、主なる神が終末にやって来て、正しいことを行う民に、正義や救いと共に「平和」をもたらすと信じられていた(イザヤ2:2−4、詩85:9、ミカ4:1-3)。

イザヤの終末時の平和観は有名である。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ2:4−5)。そして高ぶる者、偶像崇拝をする者への主の審判が預言されている。

 新約聖書でも「シャローム」は基本的には旧約と同じで、「キリストはユダヤ人と異邦人を一つとし、神と“和解”させ、敵意を滅ぼし平和の預言を告げる」(エフェソ2:14−17)。現在はクリスマスの時代だ。それは神の新しい人間との契約の時代に突入したということを意味する。旧約の時代が「律法」とすると、現代は「愛」の時代あることを、クリスマスとイースターは高らかに告げているからだ。主イェスは、全て人を束縛するものからの解放を、無条件で全世界にもたらしてくれたからだ。現代はそのことを全世界に告げ知らせるクリスマス、主の時なのだ。

 東日本大震災は、自然災害でもあり人災でもあるが、被災という人間を束縛しているものからの解放と回復への希望を、シャロームという挨拶の言葉で輝かしたい。

 「日本国憲憲法前文と9条」は、「シャローム」を具体的に国是としている、聖書を憲法にしたようなものだ。この精神で大震災からの復興への道筋を正したい。

新年にあたり全世界にシャローム!

 

2012.1.8「苦菜考」

 チェルノブイリ原子力発電所事故が1986年4月26日1時23分(モスクワ時間 )にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた。その記憶はまだ鮮明に残っている。この時キリスト教会で話題となったのが「チェルノブイリ」という言葉だ。聖書に出てくる「苦菜」とう意味だったからだ。

 2011年3月11日発生の東日本大震災による被害者数は6日現在で死者15,844人、行方不明者3,450人、避難・転居者334,786人と報道されている。しかし、新聞紙上では、新年明けてから圧倒的に原発事故に関する記事が多い。それも事故対策に関心の重心が移ってきているようだ。地震や津波といった自然災害は、地球に住んでいる限り、自然界からの恵みだけでなく、災いをも受け入れて、上手に共存していかねばならないし、それは人類始まってから今日にいたるまで、そのようにして生き続けてきた道だ。しかし原子力というエネルギーは自然界には無いもので、電力利用などのメリットもあるが、原爆やチェルノブイリや福島第一原発事故などのデメリットの方が恵みよりもはるかに強大で底知れない恐れが隠されていると言える。

 さて「苦菜」に戻ろう。「苦菜」は、過ぎ越の祝祭で、パンに添えて食べる野菜(出12:8、民9:11)で、イスラエルの民の先祖がエジプトで受けた苦難を象徴し(飢饉によるエジプト移住BC1700頃〜モーセによる出エジプトBC1290頃)、記念のために食するもの(岩波キリスト教辞典)。

 勿論ここには、奴隷からの解放の原動力である、主なる神への感謝と献身の決意を更新する聖餐式の原型があると思うのである。「チェルノブイリ」は、現代の人間にとっての「聖餐式」を意味するだろうし、福島第一原発事故も我々キリスト教会にとっても「苦菜」として聖餐式のパンに添えられねばならないのではないかと思うのである。

 イエス・キリストの十字架そのものが、人間の苦難からの解放のための「苦菜」そのものであるなら、この世の苦難のあるところすべてにおいて、そこが聖域外のゴルゴダの丘であり、「主の聖餐の場」であると思うのである。

 

2012.1.15「年賀状雑感」

 今年もやはり年賀状を出した、年賀状はいつも年が明けてから出している。私の年賀状のスタイルは、祝クリスマス&祝新年であるので、本来なら年内のクリスマスに合わせて出すのが本当であろう。今年こそはと意気込むのだが、どうしても年を越してしまう。そして元旦にごそっと年賀状を受け取ってから腰を上げる習性から抜け出すことが出来ないでいる。

 去年から父への便りの返事は一手に請け負っている。それも含めて今回の年賀状はは700枚にまで増えた。父へのものは、差出人がどのような方であるのか分からない方が多いので、調査をしながらの返事に手間取る。だから片がつくまで1月一杯かかってしまう。年賀状はもうやめようと毎年思うのだが、やめられない。なにかそこには捨てきれない思いに引かれているからだろう。何故か? ちょっと考えてみた。

� 日本の人口比からするとほんの0.01%の狭いキリスト教界での人々との出会なのだから、神が、義理でもいいから今まで出会って来た方々との関係を大切にしなさいと言っているようにどこかで感じていることは確かだ。

� 牧師のことを牧会者というが、今自分が仕えている教会だけが牧会者の働きの場所とはかぎらない。今まで奉職してきた教会や付属施設(幼稚園、保育園)、地域のいろいろなグループの人々との出会は、その場かぎりのものではなく、生涯を通して続く交流であり、そこに牧会者としての務めも伴っていると思うのである。

� 追分教会では、挙式者からのものが実に多いのは嬉しい限りである。結婚ガイダンスでは、教会はあなた方の結婚の証人として、生涯にわたって、神の前にその務めを果たす事を託されていると説明している。年に一度でも様子を知らせてくれることは、その務めを果たしていると自覚させてもらえるからだ。

� また、私の個人的なつながりにある方々も含めて、以上の方々には毎年度当初、わが教会の音楽礼拝の案内と献金依頼もさせていただき、多くの方々に今の私たち教会の働きを覚えていただいてもいる。

 以上のようなことを思いつくままに述べたが、主の教会とは、そのような広がりをもったものであり、かくの如き交わりの姿は、社会のあるべき姿の魁として召されているのではないだろうか。 

 

2012.1.22「年賀状雑感2」

 年一度の年賀状のやりとりの中には、互いの個人的な消息のやりとりだけでなく、国や世界の正義と平和への祈りと具体的な取り組みの継続を確認するものも少なくない。紙面の許す限りそのうちのいくつかを紹介したい。

■1月17日は阪神淡路大震災17年目の記念日だ。兵庫県被災者連絡会会長の河村宗次郎氏から新年の挨拶は毎年いただいている。彼は震災直後から神戸本町公園で被災者連絡会を立ち上げて、今なお当地にて被災者支援を継続しておられる。当時大津に居た私は幾度となく救援物資を運び、河村氏ご夫妻とも面識を得た。彼の今年のメッセージは「凧も無く 光わびしき 鐘ひびき」と詠われている。17年前の大震災はまだ終わっていない。今なお復興から取り残されて、復興住宅で多くの貧しき人々が取り残されているだけでなく、そこからの立ち退きを迫られている。彼らが一人残らず立ち直るまで、彼は闘い続けるという。私は遠く見守るしかない。しかしエールは送り続け連帯していこうとあらためて決意させられた。

■灘波幸矢さんの亡き夫は私と同年齢で、私の倉敷教会時代、岡山キリスト者平和の会でご夫妻ともどもお交わりいただいた仲だ。幸矢さんの年賀状中、ドイツのホロコースト記念碑への言及があった。実は私は昨年そこを見学してきたばかりであった。記念碑はベルリン連邦議会のすぐそばに(ブランデンブルグ門の南)、広大な土地(1万9千�=5,757坪)に、2,711基のコンクリート製のモニュメントを据えたものだ。ナチスによるユダヤ人大量虐殺への謝罪と鎮魂のシンボルだ。幸矢さんは日本人の(日本国)歴史意識の貧困を嘆いての思いを綴っておられた。去年6月の「宗教改革者の足跡を尋ねる旅」報告で、私はこのことへの言及はしなかったので、「風がなるとき」次号で報告しようと思う。

■石川一雄さん(狭山裁判で、死刑は判決がでるも、控訴審で無期懲役刑が確定、現在は仮釈放中)の年賀状は、日本人の部落差別意識、人権感覚の貧困さの犠牲者として、自分一人のためだけでなくして、日本社会全体が真の正義、平等、平和な社会となっていくための完全無罪獲得を目指して、46年間闘い続けてきたが、今年こそ再審と無罪を勝ち取ろうとの新たなる闘いの闘志をみなぎらせた文面であった。世間の関心が全く失せている昨今だからこそこれもエールと連帯をなし続けたい。

 

2012.1.29「定例執事会議事から」

 当教会では、教会総会で選ばれた執事7名(内1名は主任担任教師であり法人の代表役員である牧師)により、教会総会の決議に従って日常の教会運営に当たっています。通常は、法的、事務的報告や、礼拝を中心とした教務の遂行のための打ち合わせが中心ですので、毎月議事内容は報告していません。今回は年度末にさしかかり、次年度の計画のための準備に入りましたので、必要と思われる事項を報告いたします。

報告事項

1)前月(12月)会計報告。今期は、冠婚葬祭献金の激減(予算では結婚式20組、実際には8組)と、月定献金他の献金の伸び悩みにより資金繰りが滞り、12月のクリスマス諸行事及び特別謝儀の支払のために、積立金804,718円(定期預金2口解約)を取崩した。仮決算の結果から次年度予算作成は根本的な見直しが必要であると報告された。

2)月次教務報告。クリスマスに1名の受洗者があり、現教会員数が43名となった。

審議・決議事項

1)2月教会総会の件。総会を26日に変更。12日より公告、15日に執事会、19日に議案書配付とする。また今回は執事任期終了となるため、執事立候補者を募る。

2)2012年度の伝道計画の件。音楽礼拝を、夏の5回の連続礼拝コンサ-トを含め5月〜12月までの12回とし、日程を決定。

3)転入会希望者承認の件。 追分在住の森田和夫兄と森田紀子姉の、信州教会からの転入を承認。転入式・歓迎会を3月18日とする。

4)受洗希望者承認の件。中軽井沢在住の梶浦三優子姉を承認。洗礼式・歓迎会を3月18日とする。

5)納骨箱登録希望者承認の件。教会員以外の希望者である加藤隆弘・則子兄姉(上田新参町教会員)と和田友男兄・純子兄姉(軽井沢在住/ヴィラセシリア主宰/日本聖公会神田教会)の申込を承認。なお、和田友男兄は5月ペンテコステに当教会での受洗を希望されている。以上。

 今年度のハイライトは納骨堂建設実現だ。ほんとうに必要なものは主が備えて下さるとの思いひとしおである。しかし次年度予算編成には大きな不安がよぎる。不信仰の至りか?そんな中にも、年度内に4名の会員増は「主の山に備えあり」(創世記22章14節)との主の思し召しだろう。だが主の備えの前に、アブラハムがイサクを主に返すという苦渋の決断があったことを忘れてはならないだろう。

 

2012.2.5「真理考」

 ヨハネによる福音書では「真理」という言葉が12回使用されている(聖書語句索引)。次に使用例が多いのがエフェソやヨハネ書簡で、それぞれ4回、ヨハネ福音書がいかに「真理」を強調しているか分かる。極めつけは「イエスは言われた。『私は道であり、真理であり、命である』」(14章6)である。真理はイエス自身なのだから当然の帰結といえる。「真理」はギリシャ語原典ではアレセイア、その意味は、�真理、真相 �本当、真実 実際 �誠実、忠実、信実。

「真理」は広辞苑の[哲学]用例中で、観念と実在の合致とある。つまり、ヨハネ福音書で言う「真理」とは、神という観念が、イエスにおいて神の実在を見るということになる。

 そして「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8章32)という時の「自由」は「罪の奴隷からの解放」を意味している(8章34〜35)。つまり私たちが自分自身としての実在をとりもどすことが出来る実在が「真理ということになる」。

 それでは、私を存在ならしめてくれる「真理」なるイエスに私たちはどこで出会う事が出来きるのだろうか。私が一番最近、イエスが「真理」であるとの証しに接したことをお話しよう。

 それは、1/22の週報の天声JINGOで紹介した阪神淡路大震災の兵庫県被災者連絡会の河村宗治郎氏から1/31日付けで送られて来た「第17回1・17追悼・連帯・抗議の集い」の報告書だ。その中での挨拶の言葉には、見事に復活し生きているイエスの姿を見た思いがした。

 報告書では、未だ生活再建にほど遠い方々が、6,549戸およそ1万人いて、現在住んでいる「借り上げ復興住宅」からの立ち退きが強要されているとのこと。河村氏は震災直後から言っていた。「自分は被災者の最後の一人まで救済されるまで私はこの支援活動を止めない」と。17年を経て未だに粘り強く戦っておられる姿には敬服の他ない。彼の報告と挨拶の最後に「持たざるもの、弱き者が人として生きて行ける国を、ともに目指そうと願ってやみません」と結んでいる。この言葉に、私は復活し生き続ける「真理」であるイエス・キリストの姿を見、言葉を聞く思いがしたのである。

 ヨハネ福音書6章30〜44の、飼い主のいない羊のような群衆を見、深く憐れみ、5つのパンと2匹の魚を祝福して、5千人の腹を満たした実在するイエスの姿を。

 

2012.2.12「一人の子供」

マタイ福音書において、神の国へ入国するビザ取得の条件として、人間の子供を受容することであり、そのことは即イエス自身を受け入れることだと、イエス自身によって宣言されている(18章1〜9)。

 先週6日(月)に軽井沢9条の会の新年会で、「Kid’s Earth 」(KE)の代表福士明子さんのお話を伺った。KE は、軽井沢・御代田など東信地区を中心とする、子どもたちを放射能汚染から守る活動をしているグループです。昨年秋に、町長に、教育施設などの汚染状況を調べ、対策を求める署名運動に教会も協力させてもらい、一定の結果を得た実績を持ちます。彼女の話を聞き、またホームページでの活動状況などを読むと、子どもを持つ母親の必死さが伝わってきます。町や県を動かすエネルギーに圧倒されました。世間では彼女たちの気持ちは理解するが、行動をすこし過激すぎないかとか、放射能への過剰反応だとか、なにか若い女性たちのヒステリックさを感じとっている向きもあるかもしれません。彼女たちの思いや運動が空回りする現状、要求が受け入れられた喜びもつかの間、ほんとうに知りたい情報は集めてもらえないもどかしさ、少しも反応してもらえない周囲の雰囲気の中で、くずれ折れそうになる自分自身を吐露する中にどこか彼女たちへの無理解の側に立っていた自分を恥じる思いがしました。

 事実私自身、軽井沢は結構高い放射能汚染地域にあるとは聞いていたが、平気で落ち葉はもやし、焼き芋までして食べた、もしかなりの濃度の汚染があったとしても自分の年齢からして気にすることはないと高をくくっていたからです。その自分が今回の福士さんの生の声を聞くことによって、いかに不信仰なことだったか気づかされたのです。

 一人の母親の我が子一人へのかわいさあまっての姿だとしても、決してエゴイズムの一言でかたづけられない真理が秘められているように思えたのです。マタイのイエスによれば、この世の周囲の状況によって、我が子一人も受け入れられないようでは、他者の子どもを受け入れることもおぼつかなくなり、社会不安と混乱が増すことになることは必死でしょう。放射能汚染のただ中で、必死に我が子を守ろうとする母親の姿は大切に受け止めたいと思いました。そしてこのことから、子供たちを傷つけようとするあらゆるものから守る母親として、私たち周囲の大人も成長していきたいと思いました。

 

2012.2.19「2.11集会から」

「2.11信教の自由を守る日北信分区集会」が、長野教会を会場に開催された。2.11は「建国記念日」として1965年に制定されたが、内容は戦前までの「紀元節」をそのまま踏襲したもので、天皇神格化、絶対天皇制を引き継いでいる。故に我が教団では法案提出時から反対声明を何度も出し、制定後にはこの日を「建国」の日とは認めず、「信教の自由を守る日」として今日に至っている。

 今の日本国の建国は、国家の性格を規定している新憲法(現行憲法)の制定日にするのが当然の筋である。新憲法は1946年11月3日に発布、翌年5月3日に施行されたので5.3が憲法記念日とされているだけである。旧憲法は「神性天皇絶対主義」という国家体制であり、新憲法は「民主主義国家体制」なのだから、全く異なった国家体制が樹立されたことは明らかである。特に宗教界は、旧憲法下では苦難と迫害の下にさらされていたのだから、この日を建国の日と認められないのは当然だろう。全宗教の神は「天皇」の元に位置づけられたからである。「天皇」という名称自体が不遜きわまりないではないか。戦後天皇は人間宣言をし、象徴天皇と言われるようになったが、「天皇」という呼称はかわっていない。

 しかるに我が国のリーダーたちは、みんなで靖国神社参拝をする会や、「建国記念日」に武道館に集まって、自主憲法制定といって気勢を挙げている。国の指導者たちの多くが、この体たらくなのだから、初めから憲法に保障されている「信教の自由」とか、「9条にもとづく平和主義」などという感覚そのものを持ち合わせていないのではないかと疑う。旧憲法下における「神風日本と富国強兵経済最優先政策」が無謀なあの戦争を引き起こし敗北を喫したのだが、新憲法下においても、経済最優先の国造りで、旧憲法下の「富国強兵」政策と何ら変わらない。その結果が3.11原発事故につながったのだ。分区の2.11集会の講師秋山眞先生のお話をそのように解釈して聞いたのだった。

 講師は、国民の中にも、国民が選んだ指導者の中にも「主体」が欠如していることを指摘され、主の教会が原発に対する立ち位置をはっきりと示し、3.11までの世界に決別をなすべく出エジプトをなすべき時だと促された。それは「言葉」と「実体」が一体となる、「主体」復活への道であるととじられた。そこには見事に主の十字架の死と復活の信仰が脈々と波打っている、その音を聞いているようだった。

 

2012.2.26「主の言葉の発信」

 先週の天声Jingoで、2.11集会での講師秋山眞先生の締めの言葉に、「言葉」と「実体」との一致を紹介した。つまり教会がほんとうに「生きた主の言葉」を発信していこうとの訴えであった。

 「信徒の友」3月号に、日本カトリック司教団メッセージが前文掲載されたので、本日はみなさんにそのコピーをお配りした。タイトルは「いますぐ原発の廃止を」であった。一方わが教団は、東日本大震災救援活動として、救援募金目標10億円を掲げてきた。今回は震災1年を機に「祈りのしおり」を作成し3.11に一斉に全国の教会で祈ろうというものである。内容を見ると

地震、津波、原発事故によるすべの被災者のために主の慰めと支えと導きを祈るものだ。これを読んで私は「祈りのしおり」など必要ないと思った。我が教会でも毎週礼拝で祈り続けている。各個教会もそうだろう。支援募金も続けている。問題はその祈りから何を聞き取り宣教の「言葉」として発信するかであると思う。2.11集会の講師秋山眞氏の言う「言葉と実体」は、今日の予言者的使命をきちんと果たしなさいというメッセージなのだ。

 この世がからめとられ、神格化(絶対)している事柄への抵抗であり、そこからの解放への具体的取り組みだ。カトリックの司祭団の脱原発宣言は、新しい出エジプトへの胎動であろう。願わくはバチカンが同調して欲しいが、むしろ逆かも知れないし、またぞろ沈黙かも知れないが。それはさておき、我が教団は遅れをとってしまったが、この司祭団のメッセージこそ生きた祈りの「言葉」として画期的といえよう。わたしJINGOも1予言者(牧師)として「脱原発現発」を宣言したい。できれば軽井沢追分教会として宣言できればと願う。

 話はがらっと変わるが、20日に最高裁判所が、1999年に山口県光市で起きた母子殺害事件犯人の少年(当時18才)の上告を斥け、死刑が確定し激論を呼んでいる。今回は最年少での死刑の妥当性の論議だ。だが私はそれ以前の「死刑」制度そのものが問われねばならいと思う。 私は「死刑」は信仰上反対の立場である。キリスト教界は明確に「死刑制度」への態度を世に示すべきではないだろうか。主イエスは、自分を十字架で殺す者の救いを神に願い息を引き取っていかれたではないか(ルカ23:34)。いかなる罪人も赦し救われる神の愛を宣教する教会の生きた「言葉」をこの世は待っているのだ。

 

2012.3.4「聖霊に導かれて」

 イエスは、その宣教活動の初めに悪魔(サタン)からの誘惑を受けるためになんと「聖霊」により荒れ野に導かれ、そこで40日40夜サタンと対峙された。その結果イエスは自分自身の立ち位置を明確にされている。

 私たちは自分自身の人生に誇りと喜びをもって生きることが出来たならどんなにすばらしい事だろうと思う。そこのところがぼやけていると、いつも不安に覆われているし、他者に責任を押し付けるばかりの、無責任で愚痴ばかりの人生となり、ほんとうにつまらないと思う。自分が何者であり、どのような信念を抱くことが出来るかはとても重要なことであることを、荒れ野でのイエスは私たちに教えてくれている。

 イエスへのサタンの誘惑は、この世の権力掌握による救世主となるか、それとも天地万物の創造主なる神と共なることによる至福への救世主であるかどうかという、イエス自身の、この世での立ち位置を明確にしている。すなわち人の幸福というものはこの世のパン(経済)を与える権力を最高の価値とし、そこを立ち位置とすることは実に魅力的な誘いである。現在の世界中が経済の立て直しを最大の課題としていることからも、決して無関心ではいられないことではある。イエスの言う「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」は、決してこの世のパンの問題を無視してはいない。それも大切だが、それと共に「神の言葉」という「霊のパン」を一緒にいただかねば、決して真の幸福は味わうことが出来ないばかりか、逆に最悪の不幸を負うことになるというメッセージなのだ。

 3.11の大震災と福島第一原発大爆発事故からのこの1年は、サタンがイエスとともに私たちを再び40日40夜という「荒れ野」へと導き、「石をパン(原子力)になるようにと命じろ」と言っているように思える。いままで、いかに「神の口から出る一つ一つの言葉」をないがしろにしてきたかは、先日報道された、福島第一原発事故の「民間による事故調査報告」によって明らかにされた。パンの供給は一見人道主義に思えるが、実はそうではなく、逆に人民の命をないがしろにし、不幸のどん底に陥れてきたかが暴かれている。

 被災地は文字通りの「荒れ野」だが、そこに、今なお主イエスが立ち給いて、わたしたちを、一番の立ち位置である「神の言葉」に置けとのメセージが響いているのではないでしょうか。

 

2012.3.11「大波に呑まれて」

 3.11東日本大震災と大津波によるあの忌まわしい被災から今日でちょうど一年を迎えた。この間、まずは旧に復するとのかけ声が響いた一年だ。 被災地における“ガンバリ”によって明るい希望に向けて歩み出している様々な姿が各マスコミによって報道されるにつけ、人間ってすばらしいなと感嘆させられる。一方仮設住宅での孤独死、衰弱死、病死などの復興から見捨てられたような暗い現実も依然としてあり、心が塞がれてしまう。愛する大切な家族を失って時間があの時で止まってしまっている人たちも多い。その上に原発事故によって、様々な困難の中に取り残されている人々の絶望や不安の現実もある。もとの生活を取り戻したいという人々の気持ちは痛い程分かる。被災地、被災者がどのような形であれ、希望への道を少しずつでも歩んでいってくれることを心から願う。

 ただ私は「復旧」という言葉にどうしてもこだわってしまうのである。旧に復することがほんとうに可能なのだろうかと。パソコンによるゲームの世界では、一旦壊されたものがすぐリセットできるのだろうが、また例えそれが可能でも、それで良いのだろうかと思うのである。

 聖書の中では波に呑まれてしまう物語が度々出てくるが、その中でもノアの洪水物語は有名である。そこでは世界中が波に呑まれてしまい滅びるが、その洪水のただ中で、ノアとその家族、地上のあらゆる植物の種子や、動物のつがいが箱船によって新天新地に導かれている(創世記6章〜8章)。そして洪水をくぐり抜けて導かれたところは新しい地であり、もとの土地ではない。また洪水ではないがヨナという人は、海に投げ込まれてしまうが、クジラに呑み込まれて吹き出されたところは、自分が一番望んでいなかった土地で、そこで生きることとなった。そこも新しい彼の生きる場となっている。

 大震災、津波、原発による被災という大波に呑み込まれたわたしたちを、主なる神は決して旧に復させる方ではない。それ以上の新天新地を用意されているのだ。

 イエスは十字架の死という大波に呑み込まれ死に服したが、以前のイエスに戻ったのではない。新しい命として甦ったのではなかったか。震災で犠牲になった方々、被災の悲しみや苦しみ困難の大波に呑まれている人々が、その大波をくぐって全く新しい人生へと主なる神が導いてくれることを信じて、これからも被災者への支援に生きたいと願うものである。

 

2012.3.18「愛の無駄遣い」

 今日私たちの日常生活において「無駄遣い」は、悪徳の最たるものではないでしょうか。「悪徳」というのは、悪い行い、道義に背いた不正な行為という意味であります。きわめて道徳的要素の強い言葉です。「道徳」というのは、その時代とその社会の秩序に適った考え方と行いということですから、必ずしも普遍的なものではありません。ですが、私たち聖書の信仰に生きる者にとっては、天地創造の主なる神による創造の秩序に反するものと軌を一にするものは普遍的な道徳として受け入れています。例えばモーセの十戒にあるような、殺すなとか盗むなといった第五戒から十戒までのようなものです(出エジプト記20:12〜17)。

主なる神の「創造の秩序」の中で最も「核」となることは、人間に吹き込んだ神の息により生きた者とされた人間そのものであることは明らかです(創世記2:7)。従って聖書は、主なる神がご自分で創造した人間をかけがえのない、ご自分の命と意志を継ぐ愛すべき存在であるという人間理解をもって始められているのです。

 そのような神の創造の秩序(人間愛)に照らし合わせ、今の私たちの社会を見回わすなら、この世の人間愛、例えば日本国憲法九条、第三章の「基本的人権条項」(11条〜40条)と、先述した聖書の人間観の一致に著しく反する社会の状態はまさに「悪徳」と言う他はない状態なのです。そしてそのような「悪徳」を排除することは、これまた著しい抵抗を覚悟せねばならないのであります。何故なら一人の人を愛し、その人権を守ろうとすることは、この世を根強く支配している価値観からすると、全くの浪費、無駄遣いにしか見えないからなのです。

 昨年の福島第一原発事故からこの一年で明らかにされてきた事は、�核エネルギーによる一極支配体制。�原発による従業員のみならず地域住民、ひいては国民一人一人の命の重さの無視。つまり国民の奴隷化の実体が浮き彫りにされてきたこと。権力と経済第一主義の世界では、人間一人の命の尊重は、全くの「無駄遣い」でしかなかったのです。

 イエス・キリストのご受難、十字架の死と復活の福音は、この世の無情な状態のただ中に届けるのが、「キリストの教会」の使命でありましょう。そしてそれは「愛の無駄遣い」という行為そのものであり、この世(自分自身も含めて)から激しく非難される行為でもあることを覚せねばならないでしょう。

 

2012.3.25「Good Friday」

 主イエス・キリストの受難日のことを英語では「Good Fridey」である。十字架の日に「Good」とは如何に。Goodは上等な、すぐれた、申し分ない、適した、望ましい、役立つ、ふさわしいなどの意味をもっている。一方英語圏の多くとドイツ、フランスなどの迷信においては不吉な日とされている(Wikipedia)。私たちは主イェス・キリストによって罪が購われ赦された日だから、喜びの良き日であるにはちがいないが、代ってこの世の罪のすべてをその身に担い、その重圧に苦しまれた主を差し置いて喜び祝うのはあまりにもあつかましいというものだろう。やはり受難週は主の苦しみを覚えて節制の日々でありたい。受難週の日程を書き出しておくので、各自聖書をひもといて祈りましょう。

4月

1日(日)エルサレム入城。イチジクの呪い。・マルコ11:1〜14

2日(月)神殿で商人を追い出す。・マルコ11:15〜19

3日(火)問答、譬え、終末の預言・マルコ11:20〜13:32

4日(水)ベタニアでの香油注ぎ、ユダの裏切り ・マルコ14:1〜11

5日(木)主の晩餐、ゲッセマネ、逮捕、裁判 ・マルコ14:12〜72

6日(金)ピラトの審問、ユダの死、十字架、埋葬 ・マルコ15:1〜47

 聖書はマルコのみ記しましたが、そこに他の福音書の平行記事の箇所も書いてあるので、他の福音書も合わせて読むと良い。

 この世の不条理な大苦難は世界各地で後を絶たない。東京都の石原知事は、昨年3.11の大地震と大津波、原発大事故を「天罰」と言って物議をかもした。何をもって「天罰」と言ったかの文脈は分からないが、人間にとって不条理な苦しみが「天罰」としかとらえきれない人々の不幸を思うのである。天変地異や人災であっても被災の艱難は、そこに十字架上で苦しみ抜く主の姿を見る時に、わたしたちの苦しみに寄り添っていてくれる主の息づかいを聞くことが出来、その息づかい(聖霊)を感じるなら、計り知れない「力」を与えられるのではないだろうかと思う。世界中からの支援やボランティアの息づかいにも主の息づかいが宿っているなら、想像も出来ないほどの苦しみにあえいでいる被災者の方々への限りない励ましとなっていることを信じるにたる証しが随所にみられるようになっているのは事実だ。