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天声JINGO アーカイブ

2010年度4月〜

2010.4.11「赦すことの難しさ」

 復活の主は弟子たちに「だれの罪でも、赦す権限と、赦さない」権限を付与している(ヨハネ福音書20:23)。この場合裁判の対象となる「罪」とは何なのか。元東海教区の会計による7,000万円の横領背任が2006年1月に判明した。教区は教会法(?)の下、彼の罪を赦し無罪放免とし、この世の法へ被害届けすら出さなかった。一方、去年の教会総会にて配られた彼からの謝罪文には「決して私の罪は赦されることはありません」という意味の言葉があった。教区が赦した「罪」と元会計の言う赦されない「罪」はどう違うのか。もし神に対する「罪」とこの世に対する「罪」は違うなら、どっちがどうなのだろうとこんがらがってしまう。新約聖書で使用されている古典ギリシャ語で「罪」は「ハマルティア」。その特徴は明白な罪の行為を示すものではなくて、諸々の「罪」の根源の「罪」の状態をさす(新約聖書のギリシャ語精解)とある。したがって、この世の、特に刑法に触れる「罪」は、それこそ「皇帝」のものとして(マルコ12:17)処理し、その上でその「罪」の根底にある「ハマルティア」の赦しを祈るべきだと私は思うのだが。人としても、一信仰者としても他者を「赦す」ということは実に難しいと思う。

 イェスの弟子に付与された罪を赦す権限にはひとつの大きな条件がある。それは「聖霊」を受けることだった。「聖霊」は「イェスの息」(ヨハネ福音書20:22)であった。超落第生の弟子たちに、この「聖霊」が付与されたのだ。そこに主の「赦し」の権限があるように思う。私の人生も超落第生だが、とにかく主イェスにひっついていれば「息」に触れることもあろう。

 

2010.4.18「異常気象」 

「3月の世界気温史上最高」平均気温が0.44度上回ったと気象庁が発表した。その為だろうか昨日はポカポカの春日と思えば今日は細雪の真冬日と目まぐるしい。世界では大震災が頻繁に起こっているのはこのような温暖化が影響しているのだろうか。自然界だけではなく、社会にも影響していると言ったら狂気の沙汰か。しかし政治経済はじめ世の中も訳が分からないことが多い。人心も乱れる一方で悲惨な事件が後を断たない。高度に巨大化した社会がガラガラと音を立てて崩れていくような音が聞こえてくるようである。これからこのような混乱と混沌の度は増していく、そのような筋道しか見えてこないところに、人心は益々刹那的に流されていくのだろうと思うとやりきれない。

どこか旧約聖書の「バベルの塔」物語や、出エジプトの民が金の子牛を鋳て偶像崇拝にふけった物語が思い出される。「バベルの塔」では、人間の知恵と技術の粋を集めてどこまでも巨大化した社会が、あの天にまでとどくような「塔」建設をしたことに象徴されているし、出エジプトにおける「金の子牛」崇拝は突然起こったものではなく、人間開放への長く辛い旅の途上で起こった人心の乱れの結果なのだ。

私の思いの中で何故かふっと旧約聖書において、歴史的にも、状況的にも関係のないようなこの二つの物語に、なにかつながりがあるように思い浮かんだ。そういえば聖書の一番初めは、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:2) であり。この混沌を支配し、秩序を与えたのが、聖書の神の「光あれ」の一言であった。神の天地創造の業はまだ続いていると思う。主イェス・キリストの十字架の死は、この世の死の世界(暗闇)に終止符をうって、光の秩序を与える創世記の「光あれ」との力強い神の声ではないだろうか。

 

2010.4.25「堀多恵姉を送る」

去る16日午後10時、堀多恵姉のご養女・菊地和世さんから、多恵姉のご召天の報を受け、堀邸に新井兄姉執事と共に急行した。11日(日)の教会定例執事会の席上に、坂井光世姉より「堀姉怪我で入院」の報が入り心配していましたが、幸い怪我の方は大丈夫との報告を受けほっとしていたところだったので、えっ!何故?との思いしきりだった。実はついその前の週にご自宅にお伺いして、ご本人から依頼のあった、教会の「葬儀に関する希望書」の説明をさせていただき、ポナペ・ワークキャンプの写真も見ていただいたばかりであったからだ。

多恵姉の葬送の儀についての打ち合わせは深夜にまで及んだ。幸いキリスト教の葬儀について、ご家族のご理解があったために、話はスムースに進めることが出来た。しかし、多恵姉ご本人に関する、より正確な情報を得るためにだいぶ時間を要した。ご家族もひとつひとつ関係者に問い合わせ、確認をされておられた。なにしろ故人の履歴や信仰暦、家族関係、愛唱聖書や讃美歌などを記入していただく「葬儀に関する希望書」は、まだ一切記入されていなかったのです。堀姉もまだまだと思われていたのでしょうね。お若くてまだまだと思われている方も、「希望書」は早めに書いておいたほうが良いですよ。

多恵姉は3月31日に『雑木林の中で』というエッセイ集を発行され、ご友人への発送作業に追われていたとのことです。「どんなに年齢を重ねていても人生に引退はない」ということを、身をもって示していただいたような気がします。人はどのような状態にあっても、生きている以上は、人生の現役者であることを自他共に深く認識しておかねばならないことなのですね。

 

2010.5.9「大入り満員」

先週の聖日は「春の礼拝コンサート」、晴天続きの大型連休只中の礼拝であった。通常週報は100枚印刷しているが、礼拝コンサ−トでは150枚刷る。しかし、今回讃美歌の印刷は120部にした。前年5月が102名の出席だったので充分と踏んだからだ。実際には127名で、礼拝堂はあふれ、ロビ−まで開放した。こんなことは私が赴任して以来のことであった。こんなところにも気象異変が生じたのかといぶかる程の出来事であった。それにしても礼拝に沢山の方が出席してもらえるのが嬉しいのは私だけではないだろう。しかし、沢山来た!沢山来た!とはしゃいでいる自分が、いつの間にか数の論理の虜になっていることに気付き、恥ずかしさを覚えた。というより恐ろしさを感じたというべきなのだろう。

それは、今の教団内には数の論理による宣教が横行しているからだ。「教勢不振」うれいて「伝道する教会」を鼓舞することじたいを問題としているのではない。恐ろしいのはそこに差別と切り捨てが伴われてくることだ。また、規則を盾にして秩序を求める権威主義が台頭するからだ。そこではいきおい異端を産み出し、魔女狩りをするようになる。そんな教会にはなりたくない。礼拝コンサートは、あくまで福音宣教そのものでありたい。また礼拝そのものでありたいと思い、自戒することしきりである。

 

2010.5.16「別離」

「別離」とは悲しいものであります。1961年春、私は京都にある神学校で学ぶために、友人や教会の人々に見送られて、東京駅から夜行列車に乗りました。当時名古屋と京都が先か後かも分からない未知の世界への旅立ちでした。列車が動くまではほがらかに挨拶を交わしていた私でしたが、列車が動き出してほどなく、私の目には涙が溢れていました。良かれ悪しかれ「別離」はそれ自身が悲しいのではないでしょうか。人間はなんらかの「別離」なくしては成長しないものです。子どもは必ず「親離れ」をします。

「別離」とは人間としての私たちにとって必要欠くべからざるものであるといえます。復活したイエス・キリストはしばらくお弟子たちと一緒にいましたが、やがて別れることを、ヨハネ福音書17章で、主は祈りのかたちで伝えています。今まで弟子たちは、イエスという保護者のもとで、一緒にいるだけでした。どこかに行くにしてもイエスについていくか、保護のもとにありました。イエスが「見えなくなる」と、今度は弟子たち自身でこの世に向かわねばならなくなりました。所謂巣立ちです。自立です。イエス・キリストに替わって、終末の喜び、イエス・キリストの成した「永遠の生命」である「イエス・キリスト」との交わりへと人々を招くためです。 弟子たちの集団は「教会」です。「教会」は、「イエス・キリストのからだ」ですから常に終末の喜びに向かって歩み続けるのです。「終末」は今までの生き方とはちがう新しい自立した、成人した生き方への出発を意味しています。イエス・キリストとの別離は、私たちの自立を促しているのですね。別れても主は一緒です。そのための「聖霊」を送り続けておられます。「聖霊」は他言すれば神の限りなき「愛」であります。主の別離の目的はそこにあったのです。

 

2010.5.30「霊と肉」

人間の一つの義務について使徒パウロが教えています。「肉にしたがって生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならあなたがたは生きます。」(ロマ8:12〜13) と。これは義務というより真理の法則ではないかと思います。人は「肉」によってのみ生きるのだはなく「肉」に生きながら「霊に」よって生きる存在であるということなのですから。「霊に」よって生きるということが排除されると、人間性を失う結果に陥ります。このことが真理であるとすると、人の生き様のすべてにおいても妥当します。

「霊」とは、ここでは勿論「神の霊」、「聖霊」です。霊にはもうひとつ「悪霊」があります。それは「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」とパウロは言います(ロマ8:15)。悪霊はわたしたちを「肉にしたがって生きる」ことに誘います。その行く着く先は死ということになります。

現在沖縄の普天間基地の移設問題でこの国は大揺れに揺れています。安保条約の縛りは展望の開けない梗塞感に沖縄を閉じ込めています。こうなったのは、政府が「肉にしたがって生きる」ことから一歩も出ようとしていないからではないでしょうか。この場合の「肉」は、米国にたて突くことで、経済的ダメージを受けることです。沖縄県民の人間としての悲痛な叫びが聞けないばかりか、豊かにパン(安全保障)を確保するための犠牲を更に押し付けるのは「悪霊」に身を売った生き方といえるでしょう。主の聖餐は、沖縄の苦しみを食するところにもあると思います。

 

 

2010.6.6「金と政治」

鳩山首相が就任して8ヶ月余りで退任した。その理由は「政治とカネ」問題の責任をとったものという。4日には次期首相に管直人が選ばれた。新首相は政見演説で「クリ−ンな政治」を掲げて、衆院では60�という高得票率で当選した。新政権の誕生で世の中ずいぶん変わるようなはしゃぎぶりが終日テレビの画面に絶えない。しかしどれだけ「クリ−ン」な政治が望めるのか疑わしい。というより私にはいまさらしらじらしいとの思いが先に立つ。「政治とカネ」は、古今東西どの国やその社会にあって絶えたことがないからだ。常に「カネ」に屈服する「政治」が優先されてきたのではなかったのか。しかし、真に「クリ−ンな政治」を目指す方法がひとつだけある。それはイエス・キリストに模することである。

イエスは公生涯を歩み出すにあたって、まず洗礼を受けた直後に悪魔の誘惑と闘っている。マタイ福音書4章では、悪魔の誘惑は人間のカネ(パン)と、カリスマ(自己絶対化)、政治(権力)欲を巧みにくすぐっている。それに対してイエスは「人はパンだけで生きるのものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」、「あなたの神である主を試してはならない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言って悪魔を退けるところから彼の伝道をはじめている。イエスにおいて「カネと政治」は真の神に敵対する「偶像」崇拝なのだ。

そこから脱却しない限り「クリ−ン」にはなれない。真の礼拝をする者のこの世に対する役割は大きいことを我々は肝に銘じたい。

 

2010.6.20「沖縄の心」

 私は1979年からの緑野教会時代(群馬県)から、沖縄人の山里勝一牧師を通して沖縄の歴史を学び、それ以来大津教会時代も同牧師との親交は続いていた。

山里牧師は、昔から沖縄は本土からはあからさまな差別を受けてきたことを自らの体験を通してなんども愚痴っておられた。それらの体験の一つは、彼がボリビアに宣教師として派遣されたときのもので、現地の日本人会の集会で、彼が沖縄出身だとわかるやいなや、扱いががらっと変わってしまったというものである。本土の人間には沖縄差別がしみ込んでいるということなのだ。もうひとつ私にとってショックを受けた彼の話は、沖縄の日本復帰に先駆けた1969年の沖縄キリスト教団との合同の時のものである。山里牧師は沖縄側の交渉人として、教団の委員と折衝をしたそうだが、その時の教団側の人々の彼らに対する態度が、きわめて差別的なものであったという内容の愚痴である。勿論本土の教団の人々はそんな差別をするはずはないと思っていたことだろう。しかし差別される側にとっては、なんの変哲もないちょっとした言葉遣いや態度が、堪え難い屈辱的ものになっているのだ。しみついた差別は無意識に出てしまうのだ。沖縄教区が今の教団と一定の距離を置いてぎくしゃくしているその根底にはこの「差別」が介在していると思う。

 普天間基地の「一坪反戦地主」の一人として、少しは本土の扱いがどんなに差別的かを代弁できればと思うこの頃である。

 

 

2010.6.27「違いがあってこそ」

本日は分区サンデー。教団に属する長野県の北信地区17教会の交わりの日とされている聖日だ。このイベントの内容は所謂講壇交換だ。教会の交わりは、主イェス・キリストにおける交わりである。その主にある交わりの中心は礼拝であり、更にその中心は宣教(説教)であるので、講壇交換という形がベストとされたのだと思う。牧師だけでなく信徒の方々も伴われることもある。同じ教団の教会であても、その成り立ちや、礼拝の仕方、教会のあり方はそれぞれであって、決して金太郎あめではない。この機会に日本基督教団という団体と属する各個教会について考えてみたい。

 日本基督教団は所謂一教派としての教団(教会)とは全くことなる。かつては各個教会の前進であった旧教派の歴史と伝統をもった教会が「合同」してできた教団であるからだ。「合同」は、広辞苑によれば、「二つ以上のものが一つになること」で、厳密にいえば、「二つの図形が、重ねると全く一致すること」とある。しかしわが教団の場合、字義通りの「合同教会」というとは少しニュアンスがことなると思う。英訳で教団は、The United Church of Christ in Japanと訳されている。「United」は結合した、連合したという意味だから、みなちがった者同士の集団という意味になるので、日本語で「合同」は大変に誤解を生む言葉だと思う。私は教団の内実は、歴史的に考えると「United」だと理解している。

 人は自分とはちがった顔の他者を見つめることによって自分自身を知っていくと同じように、教会も同じことが言えると思う。そこに主にある交わりの豊かさと恵みがあるのだと信じている。そこにこそ「イエスは主なり」との信仰告白の内実を見たい。

 

2010.7.4「求め、すすめる会」

 「求め、すすめる会」第3回全国総会に出席しました(先週週報INFORMATION欄参照)。「求め、すすめる」の「求め」は、日本における米軍基地に出て行ってもらうことを求め、それを実行することであります。 沖縄の現状は、日本本土とアメリカに隷属を強いられていることでありますから、沖縄の教会にとりましても、この現状を無視しての宣教はあり得ないのであります。まさにバビロン捕囚からの解放の希望を語った予言者的働きであると思います。この沖縄教区の宣教の姿勢こそ本土の教会に理解してもらいたいことであり、沖縄県民の被征服者としての歴史的呻きでもあるのです。この呻きに呼応し続けようとしている本土の教会、教区や個人の集いが「求め、すすめる会」なのです。今回の全国総会では、岩国、神奈川、奥羽、新潟、徳之島など教会や教区の基地問題と取り組んでいる教会、教区、個人の働きが報告されました。

 今回たまたま分区サンデーと重なった故に私は初めて出席がかないました。50名余の参加者のうち半数くらいは旧知の人々で、ほとんど数年ぶりの再会でした。基地問題だけでなく、野宿者支援、核燃料処理問題、被災者生活支援・長田センターなどの活動をしている教会や個人も多く集っていました。

 このような社会的ステージで直接民衆の苦悩、悲劇に出会い、共存することを目指す教会の生の姿は、「罪人」とされていた、病人、心身障害者、職的被差別者、無産者、奴隷など社会の周辺部を渡り歩いたイエス・キリストを彷彿とさせられましたし、沖縄教区の宣教への視座は、実は本土のわたしたちの教会の視座でもあるということを強く思わされました。

 

2010.7.25「アメージング・グレイス」

聖書において「恵み」とは、神が人間とのあいだに築かれた人格的関係を示す表現であります。旧約聖書のヘブル語には「ヘーン、ヘセド」の2語があり、どちらも恵み、慈しみと訳されています。どのような恵みであり慈しみなのかというと、「人の罪と、過ちを赦す」(出エジプト記34:6〜7)ことであります。また、神はイスラエルを愛し、ご自分の民として選ばれました。その選びはこの「恵み」に基づくものであります。神の人の罪への赦しは、神自らが罪人との和解に臨まれることによって実現します(イザヤ書30:18、48:9、ミカ書7:18、19)。

新約聖書のギリシャ語で恵みは「カリス」で、イエス・キリストの十字架によって、旧約のヘーン、ヘセドの徹底化がなされています。イエス・キリストの十字架の死と復活は、イエス・キリストご自身の集大成ですから、ここにおいての神の「恵み」はイエス・キリストご自身であり、「福音」そのものであるのです。

人は創り主なる神の前ではすべて罪人であります。創り主と被造者との関係を無視したり、否定したり、忘れたりするからです。そこでは人間自らが自分を見失った状態におかれ、さまざまな苦悩や不幸に苛まれるのです。イエス・キリストの十字架の死は、人間の神否定の極みを象徴しています。

神の恵みの先行は、主イェスの「見失った羊」「放蕩息子」(ルカ福音書15章)のたとえ話に明らかです。この神のアメージンググレイス(驚くべき恵み)に私たちはどう応えらよいのでしょうか。

 

2010.9.5「約束の地」

中東和平直接交渉が再開されたとのニュース。聖書の主な舞台となったパレスチナでの現在の情勢は一番気になることだ。それにしても聖書の舞台がなぜパレスチナとなったのだろう。

ヨルダン川西岸地区と東エルサレムの不当とも思える強行な入植政策の正当性を、イスラエルは、それは「約束の地」だからと主張している。第二次世界大戦でドイツのナチによるユダヤ人虐殺は世界の同情を促し、1948年には国連承認のもと現在のイスラエル国家がこの「約束の地」に樹立した。

「約束の地」とは、新旧約聖書の主要テーマなのだ。その約束はアブラハムにした神の約束で(創世記12章、17章)、彼の子孫が多く与えられること、カナン(パレスチナの古代名)の土地が約束の地として与えられるというものだ。

アブラハムがカナンにたどり着いたときには、カナン人といわれていたいくつかの民族が先住していた。ペリシテ人やフェニキアなど6〜7の部族がイスラエルに征服された。だから現在のパレスチナ問題は旧約聖書の時代的背景を無視することは出来ないのだ。

何世紀にもわたって神の「約束の地」は醜い「紛争の地」であった。人間の憎しみ争うこのような罪の現実が、どうして神の約束した新天地なのだろうか。私たちは聖書の約束と歴史の現実を率直に受け止めねばならない時に来ていると思う。神の「約束の地」は問題だらけの「紛争の地」であったということを。醜い憎しみ争いの現実を受け止め、そこで主の平和を祈り求め、平和を造り出していく努力を怠らず一歩一歩進めて行く場所、そこが「約束の地」だということを。

 

2010.9.12「9.11に想う」

9月11日は、2001年9月11日のアメリカ・ニューヨークにあった世界貿易センタービルが、イスラム原理主義者らによる同時多発テロにより、乗っ取られた旅客機ごと突っ込まれて全壊し、多くの犠牲者を出した事件のあった日だ。9年前相模原にいた私は、牧師館でテレビを見ていた私の子どもたちの叫び声に促されて画面に目をやった、ちょうどその時に2機目の飛行機が画面では奥のセンタービルに突っ込むところであった。その後にビルが崩壊し、ものすごい粉塵が通りを襲ってくる場面をリアルタイムで目撃した。まるで映画を見ているような感覚であった。

アメリカにとって領土が直接犯されたのは、69年前に日本によるハワイ,オアフ島の真珠湾攻撃が記憶に鮮明だが、本土の中心部で、しかもアメリカによる世界の経済支配の象徴たる世界貿易センターへの破壊はアメリカの威信に、癒しがたい深い傷を負わせたものだった。テロルは決して赦されるものではない。しかし自爆テロルは単なるテロルではない。「窮鼠猫を噛む」という言葉があるが、単にそうでもないところに大きな溝がありそうだ。

9.11を「国際コーラン焼却デー」にしようとする動きがアメリカの一部右派キリスト教会で起こっているが、その溝の超えがたさを覚えさせられる。これは聖戦だ、十字軍だと当時のブッシュ大統領は叫びアフガニスタン攻撃を始めていまだに戦い続けている。そこには「聖戦」の履き違いと、信仰の政治利用があると言わざるを得ない。何故なら、主の十字架上での戦いは、敵への無条件の赦しであり、徹底した非暴力であるからだ。

 

2010.9.26「信仰なき世界の末」

まず最初に「信仰」とは何か。旧約聖書ではアブラハムの信仰が代表される。それは神の約束を確信して待望するものである(創世記15:6、22:1)。しかし神の民イスラエルの歴史は神への背信(罪)の歴史であった(アモス4:6〜11)。

新約聖書では、イエス・キリストが信仰の対象である。つまりイエス・キリストが人間をその罪(神への背信行為)から救うために、十字架から復活のプロセスにおいて神の意志、愛を完全に示した。そのことを信じ受け入れることだ(使徒言行録2:36 、4:4 、8:12)。

信じる神がどのような神かを説明し、論証することは不可能である。人が誰かを「愛する」ということと同じだと思う。その愛のすべてを完全に観る事も論証することもできないが、確かに「愛して」いると信じることが出来るから結婚も出来るのだ。男女が愛し合い結婚できるのはまさに「信仰」の出来事なのだ。

このことは人間世界のすべての営みにあてはまる原理であると思う。

信濃毎日新聞の「地球人間模様78」に、元日本人紅衛兵西沢なぽりさんの山西省での柿渋生産に携わる記事が掲載されていた。彼は今の高度成長経済下の中国を批判して、�思想の欠如�拝金主義�ナショナリズムを挙げて語っている。いずれの項目も「信仰」なき人間の行き着く先だ。日本もかつてはそうであって今もこれをひきずっている。

 キリストは、徹底して富と権力を退け(マタイ41〜11)、民族主義を批判(律法主義)、最も小さい者を中心とする世界という思想を明確に示している。信仰なき世界は所詮テロルの世界でしかないことを肝に銘じたい。