| HOME | プロフィール | 教会の歩み | 礼拝案内 | 牧師館 | 結婚式 | その他の活動 | インフォメーション |

DH000025

389-0115 長野県北佐久郡軽井沢町追分51-37 TEL・FAX 0267-46-3312 郵便振替 00500-7-32001

牧師館へようこそ

<牧師プロフィール>

稲垣壬午(いながき・じんご)

1942年東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科(新約聖書神学専攻)卒業後、倉敷教会、琴浦教会、緑野教会、大津教会、翠ヶ丘教会の牧会を経て、2002年4月より軽井沢追分教会に着任。以後、当教会の宗教法人設立に尽力し、組織整備や地域伝道に力を注いでいる。

常に社会における弱者に視点を置いた活動を続けており、当教会着任後もカルト宗教脱会者を支援するNPOの運営にも携るなど、狭義の「教会」内にとどまらない活動を行っている。

また、地域の牧師や住民とともに「軽井沢9条の会」を立ち上げ、憲法九条の改憲の動きに強く反対し、平和を希求する立場を貫いている。顔写真では一見穏やかそうに見えるが、権力に対する反骨精神は並々ならぬものがある。礼拝堂の中の背広姿より作業服と長靴で軽トラを運転する姿が様になる牧師。

IMG0377
e-mail : jingo@tama.net

天声JINGO アーカイヴ

▶2009年4月〜   ▶2009年10月〜   ▶2010年4月〜  ▶2010年10月〜  ▶2011年4月〜  ▶2011年10月〜

▶2012年4月〜   ▶2012年10月〜   ▶2013年4月〜  ▶2013年10月〜  ▶2014年4月〜  ▶2014年10月〜

▶2015年4月〜   ▶2015年10月〜   ▶2016年4月〜  ▶2016年10月〜  ▶2017年4月〜  ▶2017年10月〜

2018.4.1「主イエスの栄光は」(先週の宣教から)

 

主イエスのエルサレム入城は「子ろば」に乗っての入城というパフォーマンスを図っている。そこにはイエス自身が誰であるかの決定的な自己顕示があるのであった。「〜まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて連れて来なさい。もし、だれかが『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります。』と言いなさい。」(マルコ11:2〜3)。

「ろば」は柔和・平和を、「子ろば」はまだ使役に使えない無価値さを象徴。縛られているのは不自由を象徴している。主は、この世で最も小さくされ、無価値とされ、束縛されている人々を、ご自分のために「お入り用」と招き、実際に自分の栄光への道へと用いられるのだ。この主の「栄光」の姿は、新しい創造主の姿でもある。旧約聖書で創造主は最初に、混沌として闇が深淵の面にあったところに「光あれ」と言って「光」を創造されている(創1:1〜3) 。主イエスは、エルサレム入城の前に、物乞いの盲人の目を癒して光を与えられているが、それはまさしく新しい天地創造の業なのである。死という闇の世界が復活という光に覆われることの伏線となっていて、新約の時代の幕開けなのだ。それが、主イエスの「子ろば」のパフォーマンスだ。

 それなのに、弟子たちや人々の「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」との歓呼には、依然としてこの世の最高権力者へのイメージがこびりついているのであったが、その証拠に、次の瞬間にはその期待が裏切られて、弟子たちは裏切り逃げ隠れ、人々は殺人犯のバラバを許してイエスを十字架へと叫んだのである(マルコ15:6〜13)。この世の権力という「栄光」の魅力はあなどれない。その権力が、どんなに嘘をついても、真実を隠しても、小さく、弱く、貧しい人々を差別し、傷つけ、殺していてもである。そのようなこの世の権力による自身への死の仕打ちをも、したたかに逆手にとる主イエスのパフォーマンスは十字架の死と復活という信じられない出来事へと続くのだ。

 

2018.4.8「原罪とは?」

 

先週金曜日の聖書を学ぶ会では、人間の「原罪」ということが論議されましたので、そのことを考えてみました。聖書では、唯一にして絶対者としての神を「主」と言っています。また神の子であり神と同等のものとしてナザレのイエスを「主」と呼んでいます。モーセの十戒前文は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と述べられ、一戒で「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」とあります。

聖書の神は、自分以外のものを「主」とすることを最も嫌われているのです。神は自分が創造した人間すべてに、ご自分以外のものに心を寄せることを「偶像」崇拝として、避けることを第一の戒めとしているのです。この戒めに背くことが「罪」なのであります。「偶像」とは木や石を刻んで神として拝むことだけではありません。今自分の心を奪ってしまう事柄すべてが「偶像」なのであります。ですから、主イエスを誘惑したサタンの提示している、拝金主義や権力志向、名誉欲など(マタイ4章)をはじめ、自尊心や、あらゆる欲望の虜、いわば己の腹を第一とする生き方すべてが「偶像」崇拝とされ、主なる神への重大な「罪」となるのですから、この「主なる神」の前では誰一人「罪」の無い人間はいなくなることになりましょう。「原罪」とはそういった人間存在そのもののあり方が、創世記のアダムとイブの禁断の木の実をとって食べ神の園を追われた物語に込められているのだと思います。そんな人間のそのような「罪」が赦され、解放され、自由になるためには、まず己のそのような「罪」を認める必要があるのではないでしょうか。イースターでは2名の受洗者が与えられましたが、洗礼は「罪の悔い改め」が唯一の条件にされている所以でありましょう。主イエスがサタンの誘惑を全て退けたのち、サタンに「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(マタイ4:10)と申命記6:13を引用して諭しています。そうかぁ〜、サタンは自分だったのかぁ〜。おまえそんなこと今頃気ぃついたんかぁ〜。えへへ〜。イエス様すんません〜。

 

2018.4.15「竜と獣」

 

先月17〜18日の朝日新聞の調査による内閣支持率は31%で、この5年間で最低だとのこと。不支持率も48%と上がったと報道があった。私はそれでも、まだ31%も支持者がいるのかと不思議でしかたないのだ。現在の衆院予算員会では与野党から森友・加計問題で次から次へと疑惑の種が出てきて、集中砲火をあび死に体同然だからだ。それでもしぶとく息をしている姿は、黙示録に出てくる竜(黙12章)や獣(黙13章)を想起するのであった。

「黙示」とはこの世に対して隠されている神のことばとわざが、明らかに示されることを意味しているが、これが書かれたのはローマの皇帝ドミティアヌスの時代(AD90年代)、皇帝崇拝の強要下の迫害時代であった。皇帝崇拝は、イギリスから北アフリカに至る大ローマ帝国を統一するために義務づけられたのである。

特に13章に登場する一匹の獣は、七つの頭の一つが傷つけられ死んだと思われていたが、その傷も治って出てきたので、全地はこの獣に従った(3〜4)というものだ。一方敗戦後の日本の姿は、黙示録12章に登場する「一人の女」のようであると想起するのであった。それは新憲法の下、戦争を二度としない平和主義と、一人の人権を最大限に尊重する人権思想と、民主主義という衣をまとった女の姿である。ところが竜があらわれて女を食べてしまおうとしたが、竜は天使たちにより、地上に投げ落とされてしまう。それでも女とのせめぎ合いに明け暮れていたようだ(黙12:13〜17)。これはまさに日本の戦後新憲法下での、護憲派と自主憲法制定派とのせめぎ合いにそのまま当てはまるのではないだろうか。海から上って来た二匹の獣は、強力な力をもつ国粋主義かつ歴史修正主義的な目的を掲げている「日本会議」に似ている。日本を代表する財界、政界、学界、宗教界などがメンバーだから想像を絶する超巨大竜だ。この竜に操られる獣は、安倍政権の国粋主義、軍国主義が一匹の獣で、もう一匹の獣は、宗教右派で、成長の家、神道系の宗教団体等である。また文化人なども多く名を連ねている。それらは「日本会議の正体:青木理著—平凡社新書」に詳しい。さて、そのような現代日本社会に、私たちはどんな神の黙示を聴きとっているだろうか。

 

2018.4.22「難民イエス」

 

20日朝、ノルウェーのキリスト教会が「イエスは難民でした」という一文で始まる声明を出し、世界中の国に難民に対して国境を開きホスピタリティーをもって受け入れようと呼びかけた、と言うニュースが私の携帯に転送されて来た。送り主は、「ノルウェーの難民対策の過酷さ故に出された今回の声明だが、日本はそれに輪をかけた酷さだ」と嘆いていた。確かに、毎日の新聞紙上を眺めても、あまりにも「人権」感覚に乏しいと言わざるを得ない記事で満ち溢れているではないか。最近の記事から人権問題を考えてみよう。

第一には、優生保護法のもと障害者らが不妊手術を強制された問題が大きな波紋を呼んでいる記事である。優生思想は1883年に英国の学者が提唱、これにより1907年に米国で「断種法」が実施され、1933年にナチス・ドイツでは「遺伝病子孫予防法」が制定され、ホロコーストとへと突き進んだ。日本でも1940年に「国民優生法」が制定されたが、手術の強制は認めていなかった。そして「優生保護法」が制定されたのは、なんと戦後新憲法施行後の1948年で、強制不妊手術が次第に拡大していったようだ。その実態調査が始まっている。これはむしろ人類の大罪ともいうべきものだろう。

次は、一連のセクハラ、パワハラ問題。特に人の上に立つ国会議員や官僚によるものが目立つ。権力者の下の者への嫌がらせというだけでなく、そこには性差別の実態が浮き彫りにされている。財務省の財務事務次官の女性記者への長年にわたるセクハラが告発され辞任に追い込まれたが、その事実を否定している記事に驚愕させられた。なぜなら相手の人権・人格への意識が全くゼロだからだ。それをかばう財務大臣の言葉に顕れた意識も同質である。牧師館のリビングに、かわいいゆりかごで夢みているあかちゃんの絵がかけてある。作者は、新人として就職して間もなく上司からのセクハラを受けた乙女だ。それ以来彼女はショックから抜け出ることができず、一生家に閉じこもったままになった。彼女の描いたものを私はその父親から頂いたのだ。「難民イエス」だからこそ、人権を無視される人々の気持ちへと寄り添い、「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と宣言されているのだ。この主に従い倣うものでありたい。

 

2018.4.29「一つの命を」

 

米国映画「シンドラーのリスト」を久しぶりにテレビで見た。ナチスによるユダヤ人大量虐殺から、多くのユダヤ人を救った男。ナチ党員で実業家、軍需産業にユダヤ人を雇い大儲けをした社交的で女好きなオスカー・シンドラーが、人として次第にユダヤ人を助けたいと思い始め、最後はすべてを投げ打って一人でも多くの人を助けようと奮闘するという実話に基づいた映画だ。今回見直して一番印象に残ったシーンは、ドイツの無条件降伏によって解放されたユダヤ人たちが、戦犯として追われる立場になったシンドラーとの別れの場面である。彼に助けられたユダヤ人たちが、自分たちの金歯を抜き出して溶かし、指輪を作って、シンドラーへ感謝の餞別として渡すシーンだ。指輪には「一つの生命を救う者が世界を救える」と書かれてあった。シンドラーは、もっと救えたのに、もっと努力したら何人も救えただろうと悔い泣きじゃくる。しかし1,100人以上が救われたのだ。この映画に続いて、日本の敗戦により、満州に取り残され捨て置かれた日本人を救うために、危険をおかして日本に戻り政府やGHQを動かし、占領軍に引き上げ船を出させて150万人を超える引き揚げを実現させた男たちの話の再放送も見た。外交官杉原千畝が第二次世界大戦中リトアニアで、約6,000人にビザを発給し続けた映画も廃れず放映され続けている。このような映画の再放送が続くのは何故なのかと思うに、そこにはこの国の社会のやむにやまれぬ要請があるのではないだろうか。嘘に塗り固められた政府や官僚による政治の世界が露わになり、パワハラ、セクハラがそこに重なる。言い逃れの出来ない危機的状況の中にあっても、なりふりかまわず軍国主義社会への執念でもある憲法改正や、労働者に過重労働を強いる働き方法案、賭博を金儲けの手段としようとするカジノ法案の作成に腐心している政府の姿勢の中には、「ひとつの生命」への配慮は微塵もないばかりか、多くの命を犠牲にしてやまなかったあのナチの蛮行の姿が重なる。一方シンドラーたちには、もっとも小さい者を中心に置く社会が天の国の姿であると説き(マタイ18:1〜5)、一匹の迷い出た羊をどこまでも探し求める主イエス・キリストの姿(マタイ18:10〜14)が重なる。

 

42018.5.13「忖度」

 

もう流行遅れかもしれないが「忖度」なる言葉が、モリカケ問題で改めて世にデビューした。「忖」も「度」も「はかる」意。他人の心の中をおしはかること。推察。」と広辞苑にある。上司の思いをいちいち指図されなくとも下の者が「忖度」して事を進めていくことが出来ればすばらしい社会が生まれることだろう。その意味では素晴らしい言葉だと思う。

しかるに「森友学園問題」では、安倍総理夫人の関わりから総理自身の息がかかっていることは誰の目にも明らかである。「加計学園問題」でも、首相案件であることが明確にされた。しかし今までこれらの問題には一切関わりないという総理の顔色や発言から「忖度」して、官僚たちが証拠となる文章の改ざんをした。その改ざんがまた暴かれたにも関わらず、先日の麻生財務大臣は「改ざんなんか誰でもしている、たいしたことない」と涼しい顔をして言ってのけている。権力者とはどこまでずる賢く、汚く、とてつもない厚顔なのか。ついでに言えば、「セクハラ罪という罪はない」とまでいって、セクハラを肯定し、同僚をかばう姿勢は、どうみても人間業とは思えない。そんな上司の思いを「忖度」した下の者たちに責任を押し付け切り捨てる権力者の姿が、これ程までに顕にされたことはない。それなのに彼らをその地位から引きずり下ろせない。国家権力とはそれほど強大なものであることを改めて思い知らされるのである。昔の主人様と奴隷の関係が、国家と国民の関係にどんどんスライドしてきているようで恐ろしい。

話を「忖度」に戻そう。実は聖書で主が「忖度」することを求めている箇所がある。4/29の宣教テキスト(ヨハネ15:12)で話したことだが、復活の主が弟子たちに残していった遺言は「互いに愛し合いなさい」であった、そしてその愛し方は、「私があなたがたを愛したように」であった。家庭、学校、会社、職場、教会、いかなる場であっても、人々との関わりにおいて、いつも主ならどう言うか、どうするかを「忖度」しなさいということだと思う。そうすれば素晴らしい実り、真の自由と平和を得ることが出来るのだ。「忖度」する相手を間違えないよう気をつけたい。

 

20118.5.20「心に刻まれた言葉」

 

聖霊降臨日はギリシャ語では「ペンテコステ」。ペンテコステとは第50日目という意味で、もともとはヘブル民族がエジプトでの長い奴隷生活から解放されて、50日目にシナイ山で律法が与えられたことを記念する祭であった。彼らはエジプト脱出時の「過越」を国民の誕生の時とし、ペンテコステを彼らの信仰(宗教)の誕生日としてきた。神の戒めは石に刻まれたが、キリスト教会では、ペンテコステ、聖霊降臨は神の言葉が「心に刻まれた」日としたということだそうだ。まさに旧約に対して新約の時代の始まりであり、キリスト教会の誕生日ともいわれている所以がそこにあるのだ。

さて、「心に刻まれた言葉」とはどうことなのだろうか。私は今月3日の「憲法記念日」に、9条の会で軽トラパレードをしたことは既に述べたが、その日の午後は佐久平の公園で佐久の9条の会の結集に参加し、その後佐久教育会館で「コスタリカの奇跡」という映画を鑑賞した。中南米の小国コスタリカは、1948年に軍隊を廃止、軍事費を社会福祉に充て国民の幸福度を最大化する道を選んだ。その「コスタリカの奇跡」に迫ったドキュメンタリーである。私が驚愕したのは、日本で言えば憲法9条にあたる彼らの憲法を、コスタリカの民一人一人が「心に刻んで」日常生活を営んでいる姿であった。何かを「心に刻む」と言うと、マイナーなイメージでは寝ても冷めてもその痛みで苛まれるということであろうが、ここではその痛みがメジャーなものとされているのである。言い換えれば、モーセの十戒が「石に刻まれた」もの、現代風に言えば、「紙に書かれた」ものである。憲法9条が「紙に書かれた」ものであるだけでは平和にはならないことは、今私たちが思い知らせているところである。コスタリカは何故世界一の幸福度を獲得できたのだろうか。彼らに聖霊降臨があったとしか思えない。だからコスタリカの奇跡と言われているのだ。私たちに出来ることはひたすら「聖霊よ來りたまえ」と祈り、その輪を広げて行くことだろう。

 

2018.5.27「北信分区総会考」

 

13日に我が東海教区北信分区総会が開催された。その席上当教会の新井議員が意見を述べた。教会援助金の積立271万円をそのまま繰り越すのではなく、必要としている教会へ支出したらどうかと。分区長は、援助金は申請制なので、教会が求めていないのに分区が勝手に増額することはできない、また大災害や牧師の大病など緊急時のために必要であると答えた。私は教団の最も大切な機能は各個教会の宣教への支援だと信じている。新井議員は、災害時などはその都度募金すればよい事で、互助は互助として充実させた方がよいと意見を述べた。全くそのとおりだと思った。私は関東教区時代(1979〜89)には教職互助制度「ナルドの壺運動」立ち上げた。また京都教区時代(1989〜96)にも教区の教職互助「デナリオン運動」立ち上げにも関わったが、そのいずれの互助精神も、大きく強く持てる教会が小さく弱く貧しい教会を手助けするのではなくて、すべての教会の宣教の業は、己の教会の業としてとらえ、「共に献げ共に受ける」という精神に徹することを基調としている。

先週金曜の「聖書を学ぶ会」は、ロマ書15章に入ったところだ。そこは「わたしたち強いものは、強くないものの弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」と書き出している。「強い者」というのは、あくまでキリストに倣う者であることが前提となっていることを知った。つまりキリストは神と同等で最も「強い者」であるのに、十字架上の姿は最も「弱い者」の姿だということだ。聖句は更に「自分の満足を求めるべきではありません。」と続く。解説書には、弱い者とはその「弱さ」を全面的に引き受けて責任を持つことだと解説されていた。これは信仰者としての個人倫理としても、教会同志の連帯においても妥当する真理、キリストに倣う者の究極の姿であると信じて堅いものである。我が教団・教区・分区もそのことのみを基調としてもらいたいものである。もちろん我々教会の会員・教友ともどもにお互い同士の人間関係のあり方としても心すべきことであることはいうまでもないだろう。

 

2018.6.3「霊の法則」

 

表題は先週聖日礼拝の宣教題だ。今回は先週の宣教の要約を述べよう。使徒パウロはローマ書8:12〜18で、「神の霊によって導かれるものはみな神の子なのです。」とのべている。ローマの教会には、ユダヤ人と異邦人がいた。生まれた時から聖書の知識や生活訓練を教えられてきたユダヤ人達は、後からきた異邦人に対して自分たちの方が優れていると先輩風を吹かせたり、食物規定のことで深刻な差別があった(ロマ14:1〜3)。そのことを憂いたパウロが一生懸命になって、どうにかして両者を立て教会の秩序(平和)を取り戻そうとしているのがこの手紙だ。今の我々も信仰理解の違い、信仰生活のあり方などで優劣がつけられたり、年功序列のような意識が入り込んだりする。その他、人間関係での感情的衝突による混乱や分裂の危機が生じ、傷つけあって疲弊してしまうことがある。そのことは避けられない人間の性でもあろう。そんな我々に対しパウロはローマ書で、違う立場や主張を受け入れつつ、教会人が他の社会での人間関係と決定的に違うところのものを示して、そこで共存していこうではないかと言うのである。そこでは信仰者は「肉に従って死ぬより、霊によって体の仕業を断って生きる」者とされているかどうかが問われている。「霊」によって神の子とされ生きるためには、祈り方が重要だとパウロは言う。つまり「アッパ、父よ」と祈っているかどうかだ。その祈りは「お父ちゃん」と泣きつくような祈りなのだ。もう自分の考えや行動ではどうにもならなくなり、お父ちゃんのいうことに従うしかないと言う必死さが伴っている祈りだと思う。主イエスのゲッセマネでの祈りがそうなのだ(マルコ14:32〜36)。その結果十字架への道が示され、もはや十字架は不条理ではなくなり、神の子のとるべき道とされたのだ。何のためにか?言うまでも無くあなたを最愛の子と認め生かすためであったのでは? この「キリスト・イエスに倣って」という信仰者の基本姿勢をいつも確認し合う教会生活でありたい。

 

2018.6.17「霊の法則」

 

先週の聖日は花の日・こどもの日賛美礼拝、重ねてこの教会で結婚式を挙げた方々のホームカミング・デイだったが、宣教は「悪霊」に取り憑かれて墓場で暴れている男を主イエスが癒した話しであった。この聖書を虫眼鏡として今の社会を覗くと、「悪霊」がうようよと活動している姿が見えてくる。日曜の朝刊で、9日の午後9時過ぎ,東海道新幹線の中で、22歳の男が屶をふりまわし、一人が死亡し2人が怪我を負った事件が報道されたばかりだが、この犯人は気持がむしゃくしゃしていて、殺傷した相手はだれでもよかったということだ。私はこの犯人に取り付いた「悪霊」を見た気がしたのである。

その理由は、主イエスが「悪霊」に取り憑かれて暴れている男に近づいた時に、その男がイエスに神の子を感じて近づくなと拒絶し、名を尋ねられて彼は「レギオン」と答えている。「レギオン」とは大勢という意味だそうだ。つまりこの男を苦しめているのは、大勢の人々ということになるのだ。社会からも家族からも理解されないばかりか、自分自身も自分で受け入れられてないのだ。

新幹線での事件の犯人は「俺は人と違う、生きている価値がない。」と言っている。そのように彼を追い込んでいった社会の非人間性が「悪霊」の正体だと思う。そして「悪霊」に支配された社会は、「人間性」を取り戻そうとする「神の子」の存在をどこまでも拒絶するのである(マルコ5:6〜7)。私はこの「悪霊」の本質は「人間性」の否定だから、その行き着く先は殺人なのだと思う。特に社会の権力者たちによる非人道性は、最近はセクハラ、パワハラ問題などに顕著だが、戦争への志向性に最も顕著だと思う。拝金至上主義にもそれが際立っている。主が悪霊を豚の群れに追いやり、二千匹の豚が犠牲になった損失の方が、一人の救いより大切で、主は町から追い出されているからである(マルコ5:17)。

先週礼拝で、9組の親子への祝福式を挙げたが、あらゆる「悪霊」を退けた(マタイ4:1〜11)主イエスに聴従することにより、人間性豊かな人へと子育てができるように祈り続けたい。

 

2018.6.24「信仰義認の学びを終えて」

 

金曜日午後、聖書を学ぶ会ではローマの信徒への手紙を読み終えた。著者パウロの最後の言葉は祝祷であった。「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」(15:33)。この祝祷にパウロが長々と難解な論議を通して言おうとしてきた万感の思いが込められていることを知った。それは彼がいくら言葉で説明しても分かってもらえない、もどかしい思いからでもあったのだろうが、彼の回心の出来事が全てであったのだ。彼にとって、復活の主の啓示(使徒言行録9章)は、彼の今までの信仰の全否定であり、彼の人生の破滅を意味していた。「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」(同9:9)。「三日三晩」とは、ヨナの徴(ヨナ書2:1)であり、主が十字架の死後陰府に降っていた時と符号する。その彼が、彼が敵としていたクリスチャンの親分である主によって赦され、今度は主の宣教者とされたのだ。ここに「神の義」の出来事が起こったのだ。パウロにとって「神の義」は、自分のとんでもない罪が無条件に赦されことによる感謝と喜びの人生を生き抜くにほかならなかった。

さて、話を「祝祷」に戻そう。「平和の源である神」。「平和」はギリシャ語では「エイレーネー」で、旧約聖書の「シャローム」の意味する「安否、無事、安心」に、主の十字架の赦しという意味が加わった挨拶の言葉である。これは神の側からの「一方的な赦し」によるものであることはいうまでもない。パウロのこの祝祷には、かつては迫害者であり、今度は教会の有力な指導者パウロとして、権威を押し付けて来るのではないかというローマの教会のユダヤ人信者たちの彼に対する誤解を解くための懇願(ロマ15:30)が込められている。「アーメン」はやはり新約聖書のギリシャ語では「はっきり言っておく」という慣用句として使用されているが、黙示録(3:14)では主イエスのことを「アーメン」と呼んでいる。

私たちは、気がつくと「自己義認」の自分、裏返せば「他者否定」という呪いの祈りに明け暮れてはいまいか、よくよく自己吟味をせねばと教えられたのである。

 

2018.7.1「未来は今なんだ」

 

「私は、今を生きている。そして、これからも生きていく。一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。なぜなら、未来は、この瞬間の延長線上にあるからだ。つまり、未来は、今なんだ。」

1945年6月23日は旧日本軍の組織的戦闘終結の日だ。激しい地上戦で県民の4人に1人が亡くなり、日米の軍人たち合わせ20万人以上の人々が犠牲になった。先の一節は、敗戦後73年の沖縄慰霊の日で中学3年の相良倫子さんが朗読した「平和の詩」の最後の部分だ。この詩の中で「生きる」という言葉が繰り返されている。その言葉には、沖縄が負った深い「傷の疼き」が通奏低音のように響いていることに私の心は痛んだ。彼女はまだ生まれていなかった昔のことなのに、確かに若い彼女の心に深い傷の疼きが、彼女が今生きているという実感と共に宿っていることに驚いた。沖縄では日常的な米軍による事故や事件により傷が癒えない。普天間基地の辺野古への移転というより、新たなる強大な総合的軍事基地建設を目の前にし、そのことによる沖縄の負担への重圧をも感じとっているのだ。少女は、祖父母や両親や学校などから沖縄戦のことを聞かされてきただけではなく、確かに心の疼きまでも継承しているのだ。それは沖縄自身が現在も負っている痛みだからなのだ。だがその痛み疼きが、彼女をして今生きていることのすばらしさを “未来は今なんだ”と歌い上げさせているのではないだろうか。まさに「永遠の命」に生かされている人の姿である。彼女が聖書を知っているのかどうかは分からないが、たとえ聖書を知らなくとも、人間本来の想いと生きかたを持ち得ていることは間違いないと思う。それに比べて安倍首相の米軍基地を肯定する「平和」への誓いの言葉の何としらじらしい挨拶であることか。

主よ、どうにかして彼らにあなたの智慧をお与えくださいと祈るばかりだが、我々はもっともっと沖縄の痛みと疼きに寄り添わねば、人としての心が失われ、壊れ続けねばならないだろう。

 

2018.7.15「肉なるもの」

 

4日から私は排尿に激痛を伴い、コントロール出来なくなるというからだの故障に突然見舞われた。従来から自然治癒をモットーとする故、私の中では病院へ行く選択肢は皆無であった。そのまま日常の営みを続けた。しかし激痛は四六時中襲ってきていた。6日の夜だったろうか息苦しいので熱を計ってみたら38度5分はあった。4日からずっとあったのだろう。実は聖霊に満たされてという気分だったのだが、熱に浮かされていただけだったのだ。どうりで自分の言うことなすこと変なことばかりであったが、外の世界でも大変な事は次々と起こっていた。6日朝オウムの死刑囚の死刑執行が実施されたとのニュースにショックを受けた。ショックとは、この事件の解明が何もされていない現時点で何故? 安倍の支持率UP狙い? 昼前M姉より法務大臣の会見開始の報がありテレビを見るが、続く記者会見で記者たちが何も質問しない、これまた奇々怪々な光景、一体なにがどうなっているの? 続いてM姉がネットからの情報として、なんと議員宿舎での首相や法務大臣も出席しての大宴会の写真が送られてきた。この翌日に法務大臣が、「慎重に慎重を期して決断したと」疲れ果てたような顔つきをしていたとばっかり思っていたら酒宴疲れだったのだ。豪雨被災への首相の対応も上面だけにしか響かない。内外のそのような痛みを抱えながら8日の創立記念賛美礼拝を迎えることになった。奏楽者ご夫妻は前日の夜来られて練習されたのだが、なんとお茶の用意、食事の準備など何もしていなかった事に気づき、大変な迷惑をかけしてしまった。日曜の朝娘に引っ張られ病院に行ったが待ちくたびれてキャンセル。9日不思議と熱は平熱に下がり、痛みもだいぶ和らいでいたが、朝一番で主治医に診てもらった。診断は前立腺肥大と感染症であった。一週間分の薬をもらい、飲み始めた結果、11日にはほぼ痛みはなくなり、コントロールもできるようになった。創立記念礼拝の宣教題「肉なるもの」の呻きから救いの出来事が始まったとのメッセージへ、やはり「聖霊」の充満が導いてくれたのだろう。

 

2018.7.22「信濃村教会にて」

 

先週の日曜礼拝奉仕はダブルヘッダーであった。毎年6月最後の日曜が指定席の分区の交換講壇(相手の教会との相互交換ではない)なのだが、今回は私の都合でこの日になってしまった。今回遣わされたのは信濃村教会。当教会から高橋直之兄と共に、8:30分追分を出発。追分から丁度距離にして100�なので、高速道路でゆっくり行っても余裕で間に合うはずが、連休の只中の渋滞で8分遅刻。なんと礼拝には避暑で野尻湖にこられている宣教師の方々をはじめ大勢の出席者があったが、おおらかに到着を待っていてくれた。信濃村教会は創設65年の歴史がある。開拓が始まった当初の清水敬三牧師の「辺境通信」は、当時緑野教会にいた私の手元にも届いていて、清水牧師ご自身教会に来ていただいたこともあった。その後の影山牧師とは、当時安中教会牧師をしていた故井殿園牧師を通じて何度かお会いし、牧会の難しさをお聞きしていた。そしてこの春まで私の長男稲垣真実が12年間牧師としてお世話になったことへの謝辞なども含めての挨拶からはじめて、合同教会である日本キリスト教団に属する教会であることの意義について、つまり招聘制度を基盤とする各個教会主義である以上、お互いに自主独立の精神による主体性を磨きながら宣教する教会でありたいと。「個」の確立があってこそ真の意味での連帯がなし得るという趣旨の宣教(説教)をさせていただいた。聖書は、当教会の宣教と同じコリント(二)6章1〜10で、教会の力として掲げる唯一の武器は「義」の武器のみであることを取り次いだ。「義」とは主の一方的な赦しによって与えられる神の愛による恵みであり、いかなる人間であっても、なくてはならない神の大切な宝として生かされることであること。

礼拝後教会の庭の木陰での昼食会には手作りのチラシ寿司で、地の物を工夫した数々のトッピング、実に楽しいひと時であったが、20分くらいで食い逃げし、急いでとって返したが、当教会の礼拝にはギリギリ鐘の音とともにかろうじて講壇上に駆けあがった次第であった。フルに用いてくださった神様ありがとう。

 

2018.9.2「同信伝道会考1」

 

久しぶりの天声JINGOである。今夏はいろいろなこと(平和の問題、社会的問題等)があったので、何を書くか選択に悩んだ結果、やはり一番ホットな出来事、先週参加してきた「全国同信伝道会神学協議会」で考えさせられ感じ確認したことを、時代の問題とも絡めて何回かに渡って書かせてもらうことにした。

まず、協議会の内容に入る前にみなさんに知っておいて頂きたいことは、「同信伝道会」とはどういうものなのかと言う事である。「同信」とは同じ信仰にたつ教会と信者の集まりという意味で、具体的には会衆主義教会の伝統にある教会と人々の、ボランタリーなフェロシップによる集団なのだ。会衆主義の伝統を受け継いで設立された同志社の出身牧師や信徒が中心となった旧組合教会の伝統を継承した教会、信徒によるものである。また同時に、様々な旧教派の伝統を引き継ぐ教会と信者のフェロシップでもある。実に教派を超えた多様性をもっているのだ。この会衆主義は、現在の合同教会である「日本基督教団」の牧師の招聘制に受け継がれている。それは「各個教会」の主体性を最も重んじているからである。他の表現をもって説明するなら、信条や規則は持っていても、それに縛られない。教職も専門職としての一定の役割はもっているが、決して上の権威ではなく、神の前では同じ平信徒(宗教改革の万人祭司思想)として、宣教上の問題等が生じた時には、まず「聖書」に聞き、祈り、話し合って解決するという姿勢をもつ教会なのである。「会衆派」については、同信伝道会が研究しまとめた3巻のブックレットがあるので、それを参照されたい。この「同信伝道会」はボランタリーなフェロシップによると言ったが、かつては何時誰が何処で決めたのかはっきりしないまま奇特な方々が引っ張っていた時代もあった。しかし、現在は二年に一度のこの協議会の最後に総会が開かれ、民主的な運営となっている。「同信伝道会」の一番の使命は牧師の人事のお世話だ。次回から、メイン講師である退職間近な神学部教師の原誠さんの講演を中心に、考察したことを書かせてもらう。

 

208.9.9「同信伝道会考2」

 

日本列島は猛暑、豪雨、台風のオンパレードの挙句、超大型台風21号の爪痕の大きさに心を痛めるも、間髪を入れずに6日未明北海道を震源とする広範囲に及ぶ大地震に見舞われ散々である。被災者の方々には言葉もない。災害の起こるたびに、政府機関の長たちは人命第一人命第一と叫んでいるが、今の人間社会における様々な人権侵害、人権無視などによって、苦しみや悲しみに閉ざされている人々のあることを思うと空々しく聞こえてならない。

先週この欄で、わが日本基督(キリスト)教団の良いところは「個」の尊重であり、それが具体的に示されているのが教会の教職の招聘制度であると、神学協議会の原誠講師の講演でも指摘されていたことを述べた。それは「各個」教会の総会を最高決議機関として尊重していることを高く評価したものだ。教職の招聘のみならず、各個教会の宣教活動全般に渡って言えることで、「合同教会」である教団は「各個」教会の宣教活動をサポートする機関であるということなのだ。さて「個」の尊重は言うまでもなく、「この世で最も小さくされている存在を中心におくところに神の国が近いこと、あるいは神の国そのものである」ことは、各福音書を通して示されている。主の教会はそのことを言うだけでなく実践して行く責務を負っている点に、最大の使命があるのだ。驚くべきことに、我が国ではそのことを最高法規である憲法に明記しているのである。憲法第3章「国民の権利及び義務」第13条に「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とある。こんなすばらしいものをわたしたちの社会は持っているのである。

実際には、この精神とは真逆状態が今の我々の社会ではないだろうか。軍事最優先施策然り、福祉や教育の施策の貧さ然りである。この社会の中で「個人」=「最も弱く貧しい存在」を尊重することの意義を説き、実践(寄り添い)していく教会(信仰者)でありたい。