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389-0115 長野県北佐久郡軽井沢町追分51-37 TEL・FAX 0267-46-3312 郵便振替 00500-7-32001

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<牧師プロフィール>

稲垣壬午(いながき・じんご)

1942年東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科(新約聖書神学専攻)卒業後、倉敷教会、琴浦教会、緑野教会、大津教会、翠ヶ丘教会の牧会を経て、2002年4月より軽井沢追分教会に着任。以後、当教会の宗教法人設立に尽力し、組織整備や地域伝道に力を注いでいる。

常に社会における弱者に視点を置いた活動を続けており、当教会着任後もカルト宗教脱会者を支援するNPOの運営にも携るなど、狭義の「教会」内にとどまらない活動を行っている。

また、地域の牧師や住民とともに「軽井沢9条の会」を立ち上げ、憲法九条の改憲の動きに強く反対し、平和を希求する立場を貫いている。顔写真では一見穏やかそうに見えるが、権力に対する反骨精神は並々ならぬものがある。礼拝堂の中の背広姿より作業服と長靴で軽トラを運転する姿が様になる牧師。

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e-mail : jingo@tama.net

天声JINGO アーカイヴ

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2016.10.2「すべてに時ありー欧州研修の旅報告1」

 

確か2014年の12月頃だったと思う。先輩(埼玉和光教会牧師)から2016年9月にアウシュビッツへ行かないかとの誘いを受けた。その時は妻彩子が療養中であったが、相当に回復の兆しを見せていた時だったので、2年先には行けるかもしれないとの期待もあり承知した。しかし、翌春から妻の容態は急変して、夏にあっけなく召天した。

だが、旅行の日程が、彼女の召天後一年を経て落ち着いた頃であったことが幸いした。しかも私一人の参加ではすまないのが先輩の誘いである。いつものことなのだが、ツアーを成立させるために他に何人かを勧誘することが必須であった。なかなか見つからなかったが、琴浦教会時代(倉敷市)の関係者2名が応じてくれた。その結果、最低催行人数15名のところを添乗員も入れて17名となりツアーが成立した。その中には出発1週間前に『信徒の友8月号』の宣伝を見て参加した人もいた。まさにギリギリのところで成立したのである。しかしこのツアーの成立のためにめにはまだ秘話があった。それはリーダーである三浦牧師のことだ。彼もこのツアーの計画時に、妻君の体の調子が悪くなり始めていたのだ。しかも次第に介護の度が深まり、目を離せない状態にまでなってしまわれた。そしてこの春彼は、牧師引退という一大決心をされ、老人施設に入居し妻君のお世話に身を投じたのであった。そして、このツアーに出発するにあたり彼は、まず妻君を西宮に住む義姉のところへ預けに行き、その足でツアーに参加、帰国後すぐに迎えに行かれたのである。ツアー中も妻君と預け先への彼の心配は、尽きなかった事と思う。

さて、彼のことをこのように無断で暴露したことに、彼は戸惑う違いないが、私はどうしてもこのことを告白しないでは、このツアーの報告を続けることが出来ないと思ったのである。このツアーの上には、私にも神の特別な配慮が置かれていたということと、かくの如くすべての参加者の上に、神の熱い眼が注がれていたということに感謝を捧げつつ、旅を振り返り、報告を続けたいと思うのである。

 

2016.10.16「欧州研修の旅報告2—ショパン—」

 

9 月12日〜22日までポーランドとチェコの旅に出た。このツアーの主眼は、第二次世界大戦の負の歴史、特にドイツのナチズムによる傷跡をどのように受け止めているかを検証することであった。その他ショパンやパイプオルガンの演奏会も楽しみであった。全てをこのコラムで報告することは難しいので、特にアウシュビッツ強制収容所跡で問われたこと、「お前は何者なのだ」という観点から旅を思い起こし、現在の私たちとの対話のような形で報告したいと思う。

日本からポーランド航空の直行便で約10時間のフライトの後ワルシャワ空港に12日午後降り立った。なんとこの空港の正式の名前はワルシャワ・ショパン空港である。着いたその足でワルシャワ市内観光が始まり14日までワルシャワ観光が続いたが、ショパン関係の博物館や記念碑、郊外の生家など、ワルシャワ大学もショパン関係だったし、食堂までがショパンがよく友人と一緒に食べに来たという店だった。ポーランド紙幣の20ズオッティには彼の肖像画が描かれている。ショパンがいかにポーランドにとって重要な役割を果たしてきたか、ワルシャワ大学の日本語学科卒業の現地ガイドのバシャ嬢は流暢な日本語で詳しく語ってくれた。私にとってそれは初めて聞くショパンの生涯であった。前期ロマン派音楽を代表し、ピアノの詩人とも言われているショパンだが、1830年の蜂起の時(ロシアの侵略時)彼はポーランドには帰れなかったが、むしろ「祖国から離れたところから祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民学派詩人へと成長した」(ウィキペディア)とあるように熱烈な愛国者であったとのこと。祖国への思いは彼の作品にも大きく反映していたのではないだろうか。14日の夜ある小さな食堂のような画廊のような店で、30〜40人位しか入れないショパンのミニコンサートに行った。店の壁にはナチの統治時代を思わせる暗いポスターのような不気味な絵が貼られていた。演奏者は若い女性で、よく耳にするノクターンやプレリュード、ポロネーズなどであったが、演奏はかなり激しく、当ツアーのご婦人たちは、あんな絵が貼ってあり、演奏ももっと優しく弾いて欲しかったとの感想が多かった。ピアノ演奏そのものへの評価はさておき、私は、一昨日以来ガイドのバシャさんの言葉が頭にこびりついていたので、きっとこの店と演奏者は、ロシアの支配下にあったワルシャワを思うショパンの心情を反映させようとしていたのではないかと感じたので、そう彼女たちに告げた。果たしてそうだったのか、違ったのか?言葉が通じればピアニストに直に尋ねることができたのだが、演奏会にはバシャ嬢が同行していなかったのが残念であった。

 

2016.10.23「欧州研修の旅報告3—負の歴史を大切に—」

 

ポーランドのワルシャワ観光から旅は始まった。結構足早にあちらこちらと回ったので、写してきた写真の整理に難儀している。最初に印象付けられたのはショパンであったが、次はガイドのバシャ嬢が、初日に泊まった郊外のホテルから市内への約1時間バスの中で講義してくれた、ポーランド系ユダヤ人の歴史であった。なんとワルシャワは、ニューヨークに次いで世界で2番目にユダヤ人が多い所だそうだ。中世から現代までの1,000年間、ナチスによる迫害や、1943年のワルシャワゲットー(ユダヤ人地区)蜂起、戦後共産党政権下での抑圧の歴史などである。そのゲットー跡と、そこに2013年4月に設立された「ポーランド・ユダヤ人歴史博物館」がある、残念ながら博物館には入れなかった。

考えてみれば、我が日本にもディアスポラに相当する他民族の歴史と今があるではないか。ユダヤ人ディアスポラとはちょっとちがうが在日朝鮮人の歴史だ。1923年(T.12)の関東大震災時の「朝鮮人大虐殺」などもある。そのような負の歴史を記憶する作業は、個人的にはあったとしても、社会全体で取り組む姿勢にはまだほど遠い。そこに精神文化の醸造、教育の根幹と使命があると思うのである。日本政府は代々証拠隠滅をしている。「従軍慰安婦」問題も、中国における「南京大虐殺」も無かったことにしようとするばかりで、実に嘆かわしい。しかし、民間レベルでの記録の収集、検証、記念碑建立などが静かに継承されていることは救いである。身近なところでは、長野の松代大本営跡入り口に建立された「朝鮮人犠牲者追悼記念碑」や、埼玉県嵐山にある丸木美術館(原爆の図)の駐車場の奥にある1912年関東大震災時の朝鮮人大虐殺で犠牲になった方々を慰霊する記念碑(多分丸木夫妻が建立)を確認することができる。松代大本営跡は国の史跡指定の対象として文化庁が調査を実施し、戦争の愚かさや残酷さを考える場として訪れる人々は少なくない。これを保存し語り継いでいく地元住民と市民団体、高校生などの活動も出てきた。朝鮮人強制労働者の狩り出しや、慰安所問題なども絡んでいる。これらの問題には長野本郷教会員である塩入隆さんが深く関わっておられる。そこには主の十字架の姿も映っているはずである。

 

2016.10.30「欧州研修の旅報告4—アウシュビッツ(1)—」

 

3.11大津波によって石巻市大川小学校の児童74名が行方不明になった。そのうち23名の遺族が小学校の過失を裁判で訴えていたが、先週26日に仙台地裁判決でその過失が認められた。そのことに関して、27日信濃毎日新聞のコラム「余禄」の最後の言葉が響いた。「次女を失った元中学校教師佐藤敏郎さんは『小さな命の意味を考える会』のホームページに書いている。小さな命を真ん中に社会や学校を考え直せばその先にあの子らの笑顔があると信じている。」と結ばれていた。主イエスの言葉そのものではないか(マルコ9:33〜37)。「主イエスのことば」は現在でも世界中あますことなくどこでも響き渡っているのだ。

さて欧州旅行だが、9月15日〜16日とポーランドの旧首都クラクフを見学し(旧市街、聖マリア教会、ヴァヴェル城、旧ユダヤ人街、シンドラーの工場)、17日(土)朝オシフィエンチム(アウシュビッツ=独語)へ向かった。私はこの旅行までに中谷剛著「アウシュヴィッツ博物館案内」(凱風社)を読んで予習していた。著者の中谷さんは1991年からポーランドに居住し、同博物館の公式通訳であり、日本語での唯一の公式ガイドをされている。幸いにも彼が我々のガイドであった。ここでは1940年当初はポーランド人が中心に収容された。その後ソ連兵、ジプシー、その他の国々からの収容者が増えた。1942年からは「ユダヤ人問題の最終的解決」の一環として、ドイツ占領下のユダヤ人系市民を大量虐殺する場と化した。28カ国約110万人が虐殺されたが、1945年1月ソ連軍によって解放。1947年ポーランド政府により保存が決定。博物館を設立しナチスの蛮行の爪痕をポーランド政府は責任をもって保存管理していくことを選択した。それ以来ここは世界中の人々の巡礼の場となった。門には「Arbelt Macht Frei」(働けば自由になる)という表札が当時のまま掲げてあった。大量殺戮の場に実際に立ち、証拠の品々の山を目の当たりにするのは、写真や説明を読むのとは大違いである。アンネ・フランクも姉のマルゴと一緒に一時収容されていた。戦前の長崎で聖母の騎士会を創設した、日本とは深い縁のあるマクシミリアン・コルベ神父が「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)という主イエスの言葉にならって、身代わりとなって銃殺刑で死んだ終焉の場でもある。

この場に立ち、中谷さんの説明する言葉とその顔つきの前で私は一切の言葉を失っていた。次回は言葉を失ったところで聞こえてきた主の言葉をいくつか紹介しよう。

 

2016.11.6「欧州研修の旅報告5—アウシュビッツ(2)—」

 

先週この欄で、「小さないのち」について書いたが、2日には千葉で登校中の小学生の集団にトラックが突っ込み、4名が重軽傷を負った。先月28日には横浜で87歳の男性の運転する軽トラが、集団登校の列に突っ込み、1名死亡6名重軽傷という事故があった。いずれも犠牲者は「小さないのち」である。わが追分の旧中山道も横浜の街中の狭い道路よりは広いが、それでも集団登校の小学生が歩いている時には細心の注意を払って運転せねばならない。「小さないのち」にとっては歩きにくく危険が一杯だ。ハイテクの便利な車社会だが、実は「小さないのち」を端に追いやり、排除している現実そのものが、そこにあるのが我々の社会である。「小さないのち」はアウシュビッツを理解する上では重要なキーワードでもあった。

アウシュビッツで短時間ではあったが、中谷ガイドの見学者への眼差しの奥には、切なる問いかけがピンとはった糸のような緊張感を伴って放たれていたように強く感じた。

アウシュビッツの収容棟群は「整然」と並んでいた。またほとんど跡形もなく消失してはいたが、広大なところに見渡す限りの収容棟跡のあるビルケナウ(アウシュビッツ第二収容所)にも、その「整然」さが見て取れた。中谷さんはドイツの「良心」がそうなさしめたのだと言われた。何故そのドイツ人がそこまで残酷になれたのだという質問に対して彼は、即座にヒットラーはドイツ人ではなく実はオーストラリア人であり、アンネはユダヤ人ではなくオランダ人であった、単純に人種問題としてはいけないと言及された。中谷さんは人の残虐性は人種ではなく「品位」の問題だと言われた。「品位」とは個人的ではなく「社会的」な教育によって養われるもので、「公共性」をもっていなければならないものだというのだ。「公共性」とは、私の受け止め方では、普遍的な価値をもった人間性だ。例えば日本人はどうだろうか?1923年の関東大震災の時、戒厳令下において軍や警察、扇動された自警団が、「朝鮮人が暴動を起こす」等の中傷誹謗に扇動され、関東を中心に全国的に大虐殺を繰り広げた事や南京大虐殺、そして現在の在日朝鮮人へのヘイトスピーチなどに言及され、あなた方(多分中谷さん自身も含めて)はこのこととどう向き合っているのかと鋭く切り返された問いが、聞く者一同を覆い包んだ。我々は、人間としての「品位」を身につけるためにどのような教育を受け、かつ教育をしてきたのだろうか。一連の小学生の交通事故に浮き彫りにされてきたのは「小さないのち」を粗末にする社会教育の姿ではないだろうか。

 

2016.11.13「欧州研修の旅報告6—アウシュビッツ(3)—」

 

ポーランドという国について、私はレフ・ワレサの「連帯」の国という位の認識しかなかった。今回は首都ワルシャワと旧首都クラクフという二つの町しか訪ねなかったので、全体を体感できなかったが、ポーランドという語彙はもともと「平原」という意味を持つだけあって、ワルシャワからクラクフ、そしてチェコへの移動中も山は一切見当たらなかった。日本の5分の4ほどの国土だが、全体が平原で約3,800万人の人口であれば、街づくりも畑や牧場などもほんとうにゆったりとできるものだと思った。ポーランドの人たちとの交流は、ほとんどないツアーだったので、ガイドのバシャ嬢を通しての印象が主なものになるが、その説明はし難い。ショパン、キューリ夫人、コペルニクスなどもポーランド人であったことは、今まで特に意識にはなかったので、今回あらためて認識した次第だ。アウシュビッツにしても、その背景と歴史は実に複雑で、多様な理解が必要であり、一言で言い難いことばかりであった。新改訂版『アウシュビッツ博物館案内』(中谷剛著/凱風社)があるので、ご希望の方にはお貸します。

 それにしても、アウシュビッツ博物館への入場は、独特な雰囲気に呑まれるとでもいうのか特別なものがあった。他の様々な博物館では大概ワクワクした期待感をもって入場するのだが、ここではそうはいかない。人間の極限的な狂気の世界に触れることへの躊躇とでもいうのか。ガイドの中谷さんは、彼が最初に感じた事を「強制収容所の跡地で感じた死の気配は強烈だった。果てしなく広大な土地を歩いていると、背中に無数の魂がかぶさってくるような錯覚さえ感じた。」(「アウシュビッツ博物館案内」10頁)と書いておられたが、そんな雰囲気であっただろうか。 ビルケナウの第二収容所は広大な野外の見学だったが、実に大勢の人々が世界各地からやってきていることがよくわかった。しかし心なしか皆黒っぽい服装で寡黙であった。明るい黄色いウインドブレーカーをまとっていた私と真っ赤なウインドブレーカーの甘楽教会の藤牧師は、皆からここにはふさわしくない服装だと冷やかされた。

ポーランド語で覚えられたのは一言だけ、「ありがとう」(ヂエンクウイエン)だ。この言葉は実に発音しにくく覚えられない代物であったのが、日本語の発音で通じたことは驚きであった。「19円」と言えば十分伝わったのだ。

 

2016.11.27「欧州研修の旅報告7—アウシュビッツ(4)—」

 

米国大統領選で、今月8日共和党のトランプ氏が、僅差ではあったが予想に大きく反して当選した。白人優先主義、国益第一主義を標榜し、彼の過激な差別意識まるだしの選挙演説の数々から、彼の当選は無いと世界中が思っていただけに、結果に対して多かれ少なかれ世界中がパニック状態に巻き込まれた。私も何故?何故?と信じられない結果だった。考えてみれば日本でも同じような現象は繰り返されてきた。例えば過去に都知事選で石原氏が当選した時には、東京都民は何を考えているのだ?障碍者差別意識丸出しの彼を?といぶかったものだ。衝撃を受けてから一ヶ月を経て世界は大分落ち着きを取り戻し、彼と付き合っていくしかないと腹をくくり、彼の出方を待っているように見える。私が一番気になるのは、すでに世界中に民族主義的な風潮が蔓延していることだ。日本も現在の政権の姿勢はその代表的なものではないだろうか。民族主義とは排外主義に繋がっている。政府は現在、憲法改定に向けて拍車をかけている。自民党の憲法改正草案を見ると、国家権力の暴走を食い止めるための立憲主義が否定され、国家が国民を縛るためのものにしようとしていることが一目瞭然である。それは、例えば憲法第13条では「個=個人」の尊厳が否定され「人=公人」と一般化するような改正案である。「個人」は「天賦の恩寵」であるという人権思想の根底が覆されようとしているところに大きな問題を感じる。

アウシュビッツにおけるナチの所業は実におぞましい限りである。しかしナチズムにおけるユダヤ人撲滅の大虐殺に至ったプロセスには、ヨーロッパ中が大きな責任を負っていたのだという反省がある。それはダーウィニズムといって、所謂ダーウィンの進化論に基づく科学的な思想とその手法が通奏低音として受け容れられていたからである。それらは日本においても「優生保護法」となり、ハンセン病患者の長きにわたる「隔離政策」に具現化した歴史がある。そこにはあきらかに主イエス・キリストの「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)という「天賦の恩寵」とは、まったく逆の発想となっていて、そこには反キリスト的不信仰の極みがあったのである。

「個の尊重」は、決して身勝手な他人はどうでもいいという誤った個人主義ではない。「個の尊重」は主イエスが、「善いサマリヤ人」のたとえ話(ルカ10章25〜37節)で、レビ記と申命記を引用しながら<主なる神を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。>と教えているように、三位一体的愛の精神に結ばれていくように、主によって促されているところに「天賦の恩寵」たる所以があることを、わたしたちはしっかりと押さえたい。

 

2016.12.11「欧州研修の旅報告8—チェコへ—」

 

先週アドベント第2主日は、恒例のアンサンブルS.D.G.(Soli Deo Grolia=神に栄光あれ)による礼拝コンサート。横山正子姉のオルガン奏楽と伴奏、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ファゴットによるアンサンブル演奏と伴奏、三塚夫妻によるカンタータ歌唱は、私のつたない宣教をはるかに超える祈りと賛美の感動を与えてくれた至福の1時間45分であった。最前列で食い入るように小さい女児2名が聴き入っていた姿が印象的だった。

しかし、日常の社会に目を向けると闇が一段と深まっていく事件や事柄に気分は一転重くなる。南スーダンPKOに派遣されている自衛隊に「駆けつけ警護」という任務を与えたことは明らかに憲法9条違反の暴挙、カジノ法案も衆院通過、東日本大震災原発事故で自主避難した転校生を生徒や教師が“菌”呼ばわりする悪質ないじめが横行するなどの報道etc.のためだ。

アウシュビッツを9月17日(土)昼過ぎに発って一路チェコのブルノへ。出発してまもなく藤牧師(甘楽教会)の印象深いメッセージをいただいた。テキストはエレミヤ記6 章16節『主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」』。メッセージは『奇跡のいのち』という絵本からのもので、一人の幼児が強制収容所への貨物列車の中から途中で母親に列車の外に放り捨てられた。生き延びたその子はのちに、母は私を死から生へと放り出したのだと受けとめたという話し。神自らがこの世の歴史に歩まれている道を、各々の人生の道に見出し、その道を選び生きようではないかとの趣旨であったと思う。アウシュビッツ&ビルケナウ見学で一同相当落ち込んでいた気持ちに明るさを取り戻したようだった。先週の聖書を学ぶ会で読んだイザヤ書45章は、主は「光」のみなならず「闇」をも支配される主であると学んだ。「わたしはあなたの前を行き、山々を平にし 青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。」(2〜3)。主なる神はどんなに深い「闇」であってもそこに「宝」を用意してくれているというイザヤの預言である。

そうこうするうちに国境を超える。しかし緩やかな田園の続く丘陵地帯で、国境がどこであったのか見極められなかった。途中昼食をとり、17:30ブルノのホテルに到着。翌日市内見学。チェコ共和国は大きく分けるとボヘミヤとモラヴィアの地域によりなるが、ブルノは後者の中心都市で9〜10世紀頃からの文化遺産が破壊されず数多く残されている。チェコ第二の都市を半日の見学ではもったいなかったとの感が強かった。14:30首都プラハへ出発。バスで約三時間の道のりであった。

 

2016.12.18「欧州研修の旅報告9—プラハ—」

 

13日午後名護市案部に問題のオスプレイが墜落した。同日夜には普天間米軍飛行場に胴体着陸する事故もあったとのこと。軽井沢9条の会では、今月13日の町議会に、同機が佐久・軽井沢で訓練をしないように、総理や衆参議長宛に要望を出すことを請願し、総務常任委員会で可決されたところである。これらの事故で、依然としてかなりの高率な同機の危険性が証明された訳だ。日本の主権が及ばない安全保障条約のあるうちは、まだ占領地同然だと思う。

さて欧州研修の旅はいよいよ18日夕方チェコの首都プラハ入りした。19日(月)、プラハもカレル4世が皇帝となった14世紀中半ば、神聖ローマ帝国の首都として栄華を極めた都市で、現在の町の基礎はその当時に造られたものというから歴史が詰め込めらたような所であった。その上建築の町といわれているように、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、アールヌーボー、現代、キュビズムとあらゆる時代の様式が入り混ざっているのだから、建築様式の勉強までしていかないと、いくら説明を聞いてもしっちゃかめっちゃか。旧市街などを約1日半で見ようというのだから勿体無い話。そのほとんどは、プラハ城やカレル橋や聖堂など名所ばかりなので日本語の観光案内書をご覧いただくとして、今日は教会にとって重要な人物を紹介しよう。それはヤン・フス(1370頃〜1415.7.6)である。旧市街広場にチェコ人の誇りである宗教改革者の大きな像があった。ルターなど中世の宗教改革の先駆者である。本職はカレル大学総長。民衆に分かりやすい説法で語り幅広い支持を得ていた。当時のカトリック教会の堕落(聖職者の土地所有、聖餐その他の秘蹟、教皇至上権等)を糾弾したため、コンスタンツ公会議で異端として火刑に処せられた。チェコの民衆はフス派を立ち上げ、以後カトリック教会と対立を深め1419年〜36年のフス戦争へと至った。現在チェコはカトリックが圧倒的だが、それはナチとの関連でドイツのプロテスタントを警戒してのことからの選択だそうだ。しかし現在も聖ミクラーシュ教会など生きたフス派の教会がある。聖ニコラス教会も現在フス派が使用しているそうだ。フス派は信徒も聖餐でブドー酒を、免罪符も廃止、勝手に聖書をチェコ語に訳し挿絵も入れたそうだ。100年後にマルチン・ルターが生まれた。今日の我々の教会もこの系譜につながっている。私はフス像の周りを丹念に見て回った。この像はフス没後500年に造られ、周りにはフス派の戦士たちや国家再生の意味を込めた彼の母の像が彫られていた。夜は聖フランチェス教会の、1703年製作、プラハで2番目に古いオルガンの演奏会に。曲目はバッハ、モーツアルト、ヴィヴァルディ、シューベルト、その他9作曲者と、ソプラノやヴァイオリンも入っていた。電車の音がだいぶ気になったが、至福のひと時であった。

 

2016.12.25 「メリークリスマス!欧州研修の旅報告⑩—プラハ—」

 

今月11日エジプトのカイロにあるコプト教会で大爆発があり、23〜25名が死亡、49名負傷とのテレビニュースがあった。私は1974年春にこの教会を訪問したことがある。コプトとはエジプトのキリスト信者をさす言葉で、この教会の信条はキリスト単体説(三位一体の否定)が特徴であるが、そのことより私の記憶によれば、嬰児イエスは父母とともにヘロデの嬰児虐殺から逃れてここに隠れたという伝説のある教会であったことである。イエスのエジプト逃避行は、マタイ福音書のみが領主ヘロデの幼児虐殺の手を逃れてエジプトに下ったと語っている(マタイ2:13)。マタイ福音書のクリスマスは実に悲惨である。母マリヤは聖霊によって神の子(インマヌエル)を宿したとあるが、この世は不貞の女としてしか見ないだろう。許嫁ヨセフの苦悩が偲ばれる(1:19)。予言者のインマヌエル予言(イザヤ書7:14)を信じ生涯探し求め続け、最初に礼拝したのは聖書の民ではなくて異邦人であった(マタイ2:1〜12)。今日、世界中がクリスマスを楽しく、嬉しく、暖かく、美味しく祝うのはどう理解したらよいのだろうか。もしかしたらそのように祝っていながら、実は主役を無視してはいないだろうか。或いは殺意を抱いていないだろうか。コプト教会での事件は最初のクリスマスを想起させ、人間のおぞましい罪の現実に直面させられる思いがした。クリスマスはそんな私たち罪人への救いの出来事なのだ。だから私たちは、少しは主の前に恐縮した面もちで歩み出たいものである。

聖書の民は旧約の昔から旅人であり難民であった。チェコの首都プラハにも昔からユダヤ人が多く移り住んでいた。旧市街地にユダヤ人地区と呼ばれる地区があり、かつてのユダヤ人ゲットー跡を訪ねた。ゲットーとはユダヤ人が居住を許された一画で、長い間様々な差別をキリスト教徒から受け続けて、第二次世界大戦まで続いた。特にナチス・ドイツに占領された時は、ユダヤ人が狩り集められここから強制収容所へ送られた。残ったのは僅か2,500人だったとも言われている。しかし、1270年頃に建造されたユダヤ人のシナゴークなど、多くのシナゴーグが保存されている。ユダヤ博物館には入場出来なかったが、国の負の歴史をも大切に記憶し続けている姿は、我が日本も見習って欲しいとつくづく思わされた。

 

 

2017.1.1 「2017年の幕開け!欧州研修の旅報告⑪—リデッチェ—」

 

師走(12月)には沢山の嫌なことがあった。18日には沖縄本島名護市の安部海岸でのオスプレイの墜落事故。圧倒的な住民の反対行動を、全国から機動隊を集め弾圧排除して、高江のヘリパットや辺野古の巨大陸海空軍統合基地の工事再開を27日に強行。22日に起こった糸魚川市での30時間に及ぶ大火。人的被害が少なかったものの150棟が焼失、師走のこの時期に焼け出された方々の心境は計り知れない。主の慰めと支え豊かにと祈りたい。原子炉もんじゅ廃炉決定はいいのだが、問題は山積みのままだ。その上後継の核燃料サイクルの実証炉の開発を発表している。それまでして何故? そんなに将来核武装がしたいのかと勘ぐってしまう。福島の第一原発の廃炉には22兆円、全て政府が負担(国民の負担)することが閣議決定までしている。その上徐々に原発再開をし始めている、大地震が矢継ぎ早に起こっているのに。自衛隊の海外派兵でも、武器使用(駆けつけ警護)を認めるなどを政府は強行裁決をした。「積極的平和主義」は優れて「軍国主義」と言わざるを得ない。世界に目を向けてもシリアや南スーダンの内戦やテロなどの悲惨な事件はひっきりなしだ。何か明るい出来事はないのだろうか。沖縄の北部訓練場の一部返還、安倍首相の真珠湾訪問も両手を上げて歓迎できるような代物ではない。新年に何も期待できない憂鬱な元旦である。

さて、欧州研修旅行の報告もあと僅かになったが、最後の訪問地であるプラハの郊外約20㎞、バスで一時間に位置する「リディチェ」村である。旅行案内書には一言も言及されていない村だ。この村のことを私が知ったのは、私のすぐ下の弟が2012年8月に北海道クリスチャンセンター主催の研修旅行で訪問し、その経験からの勧めてくれたからだ。当時は英語の説明パンフしかなく、帰国後に彼が翻訳したものを貰っていた。後に見つけた1973年産経新聞社出版局の『第二次世界大戦ブックス(48) 』に、この村のことが詳しく載っていたので、参考にしながら次回から数回にわたって報告しよう。新年にふさわしく希望を与えられえる訪問だったのでお楽しみに。

 

2017.1.15 「欧州研修の旅報告⑬—リデッツェ(3)—」

 

韓国・釜山での慰安婦少女像設置問題による駐韓大使の一時帰国等で緊張が高まっている。韓国政府と国民感情の衝突、両国政府の政治的非難の応酬、それに対する様々な両国メディアの論評が入り乱れている。私が強く感じるのは、政府の政治的思惑や駆け引きではなく、この問題に吹き出している韓国国民の感情には、潜在的歴史的屈辱感がくすぶっているのではないかという点である。それは現在のポーランドでも同様に国民の中に吹っ切れていない大きな傷として残っているという事を、8日夜に放映されたN響定期公演(NHK-Eテレ)で知った。デイヴィット・ジンマン指揮のポーランドのグレッキ交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」だ。ポーランドはドイツとロシアに挟まれた地理的環境の中で、一度は120年以上も地図上から消されたれ歴史をもち、その抑圧の中では母国語を話すこともできなかったという。ソプラノのヨアンナ・コショウスカは、この演奏の中であえてポーランド語で歌うことの意義を語っていた。母国語を封じられることがどんな悲しく屈辱的なことであるかと。韓国の従軍慰安婦の問題においても、日本の支配下の皇民化教育により名前を日本名に変えさせられ、母国語を禁止された苦しい歴史が消えざるトラウマとなって、今回のように政治的・経済的解決では癒しがたいうめきとして吹き出したのではないかと思うのである。

チェコのリデッツェ村もドイツ・ナチにより村そのものが消されてしまったのだ。戦争の狂気は底なしだと思う。そもそもチェコスロバキアという国は、第一次世界大戦後のオーストリア・ハンガリー帝国の解体という事態の中から誕生した国だが、誕生以来30年間常に隣国によって圧迫されてきた。さらに1938年には一部がドイツへ分離され、7ヶ月後には全てがドイツに飲み込まれ存在しなくなったというのだ。第二次世界大戦後に再興されるが、1948年に今度はソ連の衛星国となったという歴史をもつ。チェコスロバキアは二度の大戦によって翻弄されてきたが、黄金の都プラハは破壊されず無傷のまま残った。しかし痛ましい悲劇と無縁であったのではなかった。

1942年初頭には、「リディツェ村」の名前など、だれひとり知る者はいなかったと言われている。この小さな村は、欧州の大部分に吹き荒れた嵐を受けることなく静かな生活を続けていた他の数千の町や村と同じような、名もないちっぽけな村であったとのことだ。(続く)

 

2017.1.22  「欧州研修の旅報告⑭—リデッツェ(4)—」

 

次期米国大統領トランプ氏の就任式が昨朝あった。不人気率が上回る大統領なのにどうして?米国や世界はこれからどうなる?との思いが募る。昨日の軽井沢9条の会の新年会ではいろいろな分析があった。政治の世界は分からないことばかりだ。我が国の安倍政権下での通常国会も昨日開会され、どうやら安倍首相は憲法改定に並々ならない決意を持っているようで、日本の軍事体制の外堀固めに拍車がかかる懸念が増している。新しい主の年も暗雲垂れ込める現実と嫌否応無しに対面せざるを得ない。そんな中、我が教会も新年度に向けての宣教活動計画に取り組み始めた。我々はこの時代と政治情勢の中でいかなる希望の光をこの世に証詞し得るのだろうか。チェコの消されたリデッテェ村を訪ねてみてその光を見たような気がした。

8日の報告でごく簡単にこのリデッテェ村の虐殺と破壊について述べたが、ここでひとつ訂正させてもらう。「村の娘(マルスチューコバ)」と書いたが、彼女はリデッテェから北西10キロに位置するスラニーという町のバッテリー工場で働く一人の女子工員であった。彼女に宛てた一通の恋文の差し出し人が、ナチの副総裁ハイドリッヒの暗殺犯の一人と見なされたことにより端を発し始まったリディッツェ村の虐殺と徹底破壊であった。結局犯人は特定できず見つけることはできなかったのだが。この件に関する命令を出したフランク中将の記録が残っている。彼がヒトラーとの会見後に、ヒトラーの命令として(1)すべての男を射殺する。(2)すべての女を強制収容所に送る。(3)子供もすべて集め、ドイツ化できる者はドイツ国内のナチ党員の家族に預け、そのほかの者は別のところに送る。(4)村全体を焼き払い、地面まで平らにするというものであった。173人の罪もない男が処刑され、185人の婦人が強制収容所に送られた。104名の子供がドイツ各地に連れ去られた。

現在この時のリディツェ村全体が、メモリアル・パークになっているが、旅行案内などには一切挙げられていない。この旅行の最後に訪問を組み入れてもらえたのはラッキーであり、また締めくくりとして最適であったと思う。何故ここに「光」を見た思いをしたか、次週は最終報告としたい。

 

2017.1.29 「欧州研修の旅報告⑮—リディツェ(5)—」

 

15回に及んだこの報告も、今回で終わる。最後の消された村リディツェ村については5回に渡っての報告となった。当初は旅の計画になかったもので、私の要望で急遽最後に入れてもらったプログラムであったからだ。先週はこの村訪問で大きな光をみたと書いた。そのことを書いて締めくくりたい。

ナチによるこの村への完全なる破壊行為は、ナチの副総裁ハイドリッヒの暗殺計画に関わった人物の出身村ということを理由としていたのだが、そこには確たる証拠も無く、見せしめでしかなかった。ナチの「優生思想」から出発したユダヤ人撲滅などの、一連の施策の一環に取り込まれたものであったと思う。リディツェ村は跡形もなく消され更地にされたのだ。戦後、馬車でそこを通りかかった人が、馬が全く動かなくなったため、掘ってみたところ人骨が大量に出てきて発覚した。その後、生き残っていたその墓堀を手伝わされたユダヤ人囚人や、生き残った数人の村の子どもたち、さらに136戸の家屋を破壊したドイツ人労働奉仕隊などの証言により全容が明らかにされた。現在村全体が記念施設(公園)となっている。資料が保管展示されている記念館、173名の男性が埋められた場所、バラ園や104名の子どもたちの像があった。子どもたちの像は、実は当時より何歳か成長した姿にしたという。死んだ当時のままではなく、死んでも成長していく姿をイメージし、将来への希望を顕したということだ。またこの記念施設では、年間かなりの結婚式が行われているとのこと。私はこれ程までの仕打ちを受けながら、実に前向きに負の歴史をとらえていることに感動した。この公園とそこからちょっと離れたところある今のリディツェ村は、英国をはじめとする世界中の国や人々の支援により再建されたのだという。私はそこから「希望の光」が輝いているように思え、ここに来てほんとうによかったと思っている。

 

2017.2.5 「会衆主義考①」

 

1月23日(月)の関東同信伝道会研修会のテーマは「会衆主義の理念と現実」であった。同志社神学部の村上みか先生による、イングランド国教会の成立からピーリタン運動の歴史の説きおこしと、会衆主義の特質と問題についてのお話しを伺った。当教会からは7名の兄姉が参加し、当教会の現状を頭に置きながらそのルーツを学ぶことが出来たのではないかと思う。

会衆主義教会の特質を大きく2つにまとめると、(1)教会論と(2)各個教会主義である。(1)教会(エクレシア)とは、神の言葉によって召し出され、頭であるイエス・キリストへの信仰において結ばれ、契約によって一つに集められたもの。各個教会は聖霊により、教会生活や礼拝の秩序を定めることが出来る能力を持ち、他の教会や世俗的権威の介入を排する(自由自治)。教会の秩序は初代教会の実践と新約聖書の証言に基づく。教会論以外の神学をもたない。(2)の各個教会主義も、イングランドにおいては、「イングランド・ウェールス会衆派連合」の各個教会の自主独立に始まり、さらに「イングランド長老派教会」と合同して形成された「イギリス合同改革派教会」(長老主義と自主独立派が各主義は残しつつ対外的部分で合同を計る)では、信仰告白は持たないが、必要に迫られた時には新しい信仰宣言を行う事とし、その一方で会衆派と長老派の伝統的な宣言を承認した。

アメリカにおいては、各個教会の自主独立と諸教会の交わりを大切にする事が強調されて行く。会衆派は全てをキリストのみに依存する自由人であり、いかなる伝統、教義、習慣、実践、方法にも縛られないとした。しかし、必ずしも英国・米国の会衆主義の歴史的展開の中で「各個教会の自主独立」は常に機能していたとは言えず、むしろ相互関係への努力が際立っていた。 

日本における教会合同については、新島襄は「自主独立」の貫徹を求めた。一方小崎弘道は「各地にある独立の教会が協力一致、組合をなす」事を主張し、これが旧「組合教会」の名称の元となった。

会衆主義教会は近代歴史の産物として発生したものであり、近世〜近代の欧州の絶対主義王政と結びついた教会(国家教会)に反対するもの、国家権力から独立した教会を目指して形成発展したものである。

以上の事から私は、今日の日本基督教団の教会は、会衆主義の特徴である各個教会主義を「招聘制度」の中に受け継ぎ、信仰告白を、多くの旧教派が受け入れられる緩やかな聖書の要約的なものとすることによって、一定の教義や信条主義的要素が薄められ、各「規則」もあいまいにする事によって、様々な歴史的背景を持つ教会が合同して来たのだと思う。

 

2017.12 「会衆主義考②」

 

関東同信伝道会の研修会で講師の同志社神学部村上みか先生のお話しから学んだことは先週ここで報告した通りである。今後の課題については、我々に考えろということで講演が締め括られたので、実は少し物足りなかった。講演後の質疑の時に私の思いを少し述べさせてもらった。

確かに旧組合教会は日本基督教団設立によって新島襄の妥協を許さない「自主独立」を完徹する道ではなく、小崎弘道のいう各個教会の相互協力の道を選んできた。そして政府の軍事目的のために進められた否応なしの他教派との合同への道を突き進み、戦後もその路線に留まってきたわけである。私は教団設立の翌年に生まれこの教団の中で育ってきた、いわば今の教団は私の生まれた日本国のようなもので、否応無しにこれからもここが私の生きる土俵でもあるわけだ。神学校は「教会の学び」の場であると昔から言われてきた。宣教の最前線で使命に生きている各個教会の現状から、明日への教会の幻を描いて欲しいと思うという趣旨のことを発言させてもらったのである。

クリスマスにみなさんに贈った『会衆主義パンフレット③』のいう「会衆主義」とは、一教派というのではなくして、すべてのキリスト教会のルーツと、主の教会のあるべき姿を求めるものであったことは、お詠みになった方々の認めるところであると思う。現在我々の日本基督教団は、いままでにない強権主義がまかりとおっているようだ。それは北村慈郎牧師の牧師職剥奪に見られる。彼の牧する長年の教会の宣教への努力と、そこから結論付けられた教会の宣教への決断を無視しているのは、「各個教会」の権威をないがしろにし、「教職」の権威づけを聖餐式問題とからめて構築しようとしているとしか思えないのである。「万人祭司」の宗教改革の精神はどこに受け継いでいこうとしているのだろうか。また「第二次世界大戦下における日本基督教団の戦争責任の告白」を無視するような姿勢は、この世の現実における生きた信仰告白にはならないと思う。多種多様な教派的教会が合同して、とにもかくにも試行錯誤を繰り返しながら積み上げてきたものをみな破棄(歴史の否定)してはいけないと思う。伝道伝道の掛け声のもとで、沖縄教区との和解が出来ない現教団執行部の姿勢も問題だ。安倍政権の沖縄差別と同様の意識が働いていると言わざるを得ない。

ついつい過激な言い方になってしまい申しわけないが、各個教会や教区の思いを無視するようなやりかたの前にあっても、なお私たちの教会の「自由、自治、独立」の精神をもって、主の教会として生き続けたいものである。

 

2017.2.19 「サイレンス」

 

遠藤周作の『沈黙』は、17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作された歴史小説。江戸初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガルの司祭を通じて、神と信仰の意義を問い描いたものである。従来映画化は難しいと言われていたようだが、米国のM.スコセッシ監督が28年間温め映画化(英題は「サイレンス」)、佐久でも公開されたので観てきた。小説『沈黙』の初版が1966年、私が神学生時代なので、その時か?卒業してからか?一度読んだことがあるきりだった。やはり「踏み絵」の場面だがやけに印象的だったことは記憶に焼き付いていた。得てしてキリスト教の信仰上の神の「沈黙」に焦点が絞られてしまいがちだが、遠藤がこの小説で描こうとしている「沈黙」は、実はそれだけではないように思えたのである。映画では「踏み絵」を踏んでも、それだけで無罪放免となる訳ではなく、何度も「踏み絵」の試練が続いていた。踏んでも踏まなくても地獄といった感じだ。そういったなか、完全に棄教して時の権力に仕えていく司祭の姿も映画では印象的だった。いずれにしても時の権力によって弱き立場の人間は有無をいわさず黙らされ、逆らうものは抹殺され、利用できるものは完全なる隷属化が求められていく姿にこそ「サイレンス」の実態が描かれていたように思える。

この「サイレンス」という命題は、50年前の遠藤の時と同じように今も再生産されていると思う。たとえば社会問題となっている労働者の長時間労働による過労死である。政府の「働き方改革実現会議」では、残業時間の上限をすでにある大臣告示の年間360時間から、2倍の720時間等にするという案を出しているそうだ。これはまさに労働者から搾れるだけ搾り取ってポイ捨てするような、いわば国民の奴隷化政策としかいいようがない事態ではないだろうか。

そのような「サイレンス」は、映画の冒頭、湖面の霧の中を行く舟の画像に「サイレンス」そのもの、タイトルとして描かれているように思えた。この冒頭の場面は、1953年に映画化された江戸時代後期の上田秋成の読本『雨月物語り』で、霧の立ち込める湖面を小舟が音もなくいくモノクロの映像にスコセッシ監督が魅せられ影響されたという。幻想的であり美しくもあるが、ゴルゴダの丘に黙々と登っていったキリストの姿も確かに「サイレンス」の世界ではなかっただろうか。新米国大統領と我が国の総理が親しくにこやかに抱き合っている姿が、「サイレンス」の時代への新しい幕開けとならなければと祈るばかりである。

 

2017.2.26 「イスラエルの迷える羊」

 

神の「沈黙」は、人間の「沈黙」から問われる祈りにおける対話ではないかと思う。人がなんらかの力で黙らされてしまうと、その矛先を天にむける以外にないからである。映画「沈黙」の解説書中のインタビューでスコセッシ監督は、「これは歴史物語であり内面の物語です」と言っている所以がそこにあるのだと思う。天(神)は容易に口を開いてくれないが、祈る主体はそれぞれの選択肢へと誘われていく。完全なる背教、方便としての背教、殉教などだ。果たして正解は?その答えは人には出来ない相談だと思う。転んだ人も、転ばなかった人も、転んだふりをした人も、迫害し処罰した人々も、主なる神の前では等く「イスラエルの失われた羊」ではないだろうか。

先週の礼拝のテキスト (マタイ15:21〜31) の中で 悪霊に苦しめられている娘の母親とイエスとのやりとりにフォーカスを当てた。母親は悪霊から娘を解放してもらいたい一心でイエスに近づくカナンの女である。ここでのカナンは、旧約時代にイスラエルが追い出したパレスチナの住人のことで、ユダヤ人にとっては数世紀にわたって軽蔑と恐れの的であった。弟子達は「憐れんでくれ」と叫びながらいつまでもついてくる彼女を追い払おうとイエスに提言する。イエスは「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言って拒絶する。この拒絶は一体?イエスらしかぬ言葉である。しかし母親はその主の拒絶の言葉に反応している。次に母親は群衆の中から抜け出してイエスに近づき、ひれ伏し「主よ、どうかお助けください」と懇願している。明らかに母親のイエスへの姿勢が変化しているのである。それに対して主は「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と、またまた突き放すのである。母親は「しかし、子犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と応じる。ここにきてイエスはこの母親の「信仰」を絶賛している。イエスは最初からこの母親に面と向かっていたのだ。母親もイエスの拒絶(沈黙)の中に必死に言葉を聴きとり、変化を与えられ、最後には自分は「子犬」でしかないと表明するほど打ち砕かれ、なりふりかまわずひれ伏しているからである。ここに「イスラエルの失われた羊」の姿があるのだと思う。主よ、どうか「自分の目で見える。耳で聞こえる。自分の足で立って歩ける」と言い張る傲慢さから私たちを解放してあなたに集められる羊となしてくださいと祈りたい。

 

2017.3.5 「排外主義の影は」

 

 先週NHKBS-1で「ただ涙を流すのでなく“分断する世界と”アウシュビッツ」というドキュメンタリーが放映された。私は去年9月にアウシュビッツ強制収容所見学をしてきたばかりだ。強制収容所跡はポーランドの国営博物館になっていて、そこの唯一の日本人ガイド中谷剛さんが我々を案内してくれた。今回のテレビはその彼からの問いかけであった。

 中谷さんの著書『アウシュビッツ博物館案内』の序に詳しく記されているが、「ただ涙を流すのでなく〜」という言葉は、ホロコースの生き残りであり、同博物館の館長でもあったスモレンさんの言葉である。スモレンさんは涙を流す見学者に「ここで起きたことに悲しみや痛みを感じることは必要だが、どうしてこんなことが起きてしまったのか落ち着いて考えてほしい」という言葉を掛けておられた。その言葉に中谷さんもアウシュビッツでの仕事に光を見出したとのことだ。ドキュメンタリーの中で彼は、特にトランプ大統領の米国一国主義という姿勢も相まって、世界中に内向きの排外主義が蔓延してきた今、アウシュビッツの存在意義が激しく問われていると苦悩の色を顔ににじませて語っていた。それはアウシュビッツに象徴される大虐殺が、ホロコーストを始め、シンチ・ロマ、障碍者、難民などへの排外主義とその雰囲気から生まれてきた事。どのような国においても経済的行き詰まりの中から、一国主義的排外主義が一般社会に雰囲気として蔓延支配していく中で生まれてきたからだ。アウシュビッツ見学者は若者を中心に年々増え2011年には年間140万人にまで達したとの事だが、その一方で排外主義が支持されるというねじれ状態が起こっているのである。

わが日本はいかに? ヘイトスピーチに象徴される排外主義の根は深い。今マスコミが報道せざるを得なくなったようだが、森友学園への有地の不透明な払い下げ問題は根が深い。森友学園は新設する小学校の名誉校長に安倍総理夫人を据え(事件発覚で辞退)、児童にはなんと戦前の現人神、軍神であった「天皇」をたたえる「教育勅語」を暗記斉唱させようとする時代錯誤も甚だしい教育内容を標榜する学園だ。安倍首相は今国会での追求に対してなんの関係もないと強気答弁しているが、破格の払い下げ問題にも全く関係ないことがあるものかといいたくなるのも当然。自民党の憲法改正草案(2012/4/2決定)では第一条の天皇条項では、「象徴」から「元首」に。第3条に新しく「国旗及び国歌」条項を設け国旗は「日章旗」、国歌は「君が代」とし、第二項で「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」としている。第二章の「戦争の放棄」条項は「安全保障」とし、9条の二項には「国防軍」の保持を加えている。明らかに衣の下の鎧が目立ち始めた事件である。「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」をしている我々としては、排外主義の蔓延に包み込まれ、再び戦争への道を歩まぬように覚醒し続けていかねねばならないだろう。

 

2017.3.12 「偶像崇拝を」

 

 昨日は3.11、東日本大震災は歴史上の大災害と比べてもはるかに大規模なものであったことは知られているが、なんといっても「東電福島第一原発事故」は、今までの安全神話を完全に打ち砕いたのではなかったか。国と企業が嘘と方便で利益をむさぼり続けたツケが、貧しい国民に回され続けている。しかも福島第一原発の事故収束などまだまだおぼつかないところで、次々と他の原発稼働を始めている。性懲りもなく原発安全神話という偶像崇拝を捨てられない金と権力の信奉者たちが生き続けているのだ。

 福島産の農産物・海産物を嫌厭すると風評被害だと嘆かれるが、ほんとうに安全なのかどうか。被災地の人々にとってみればほんとうに気の毒なことだが、安全とする政府の基準さえ信じられない人々が多いということだろう。汚染地域では除染が済んだと次々に立ち入りが解除されているが、帰る人は少ないと報道されている。自然環境だけでなく、被災住民のコミュニティーそのものをも破壊してしまったことの罪は重い。聖書では「偶像崇拝」は、モーセの十戒でも1戒と2戒に言及されていて、最も重罪とされている。私たちも己が罪として主の受難節の今、懺悔したい。

9日の16:30頃軽井沢上空にオスプレイの轟音を短時間だが感じた。米軍が日本全国で好きなように軍事演習をしている現実が、ここ軽井沢でも実感できる事態となってきた。沖縄高江のオスプレイのヘリパットや普天間飛行場の辺野古への移転工事の強行執行、全国から機動隊が集められて反対者への容赦のないなりふり構わない暴力的弾圧が、沖縄の県民の意思を無視してまかり通っている。一方「森友学園問題」では、先週ここで批判したようにその教育方針は、敗戦以前の明治憲法における天皇の神聖政治や軍国主義を標榜するものだ。天皇の神聖化や軍国主義を補完するための「教育勅語」は、道徳主義のベールを被せられて強制的に暗唱させられてきたもので、森友学園はそれをそのまま模倣するというのだ。それを良しとし受け入れてきた与党と行政の体質の中に、そこに流れている「天皇」を崇めその名を聞くと即座に思考停止してしまう「偶像」崇拝者の姿があるように思えてしかたがない。繰り返すが、聖書のモーセの十戒においては「偶像崇拝」は最も重罪である。主イエスも、荒野でのサタンの誘惑を受けられた時に、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(マタイ4:10)といって、主なる神以外のものにひれ伏すことを退けている。

 

2017.3.19 「部落差別考」

 

 16日に東海教区部落差別問題特別委員会「部落解放かわら版」第28回人間大学報告が届いた。去年11/1に上田新参町教会で開催された集会の報告書だ。主題は「差別を乗り越える祈り」で、開会礼拝説教・主題講演・フィールドワーク報告が掲載されている。私は参加できなかったが、東海教区の今回研修会での開会礼拝説教題は「差別を乗り越える祈り」で、テキストはルカ福音書10:25〜37「善いサマリア人」のたとえ話であった。説教の趣旨は、おおざっぱなまとめで申し訳ないが、どんな人でも基本的に差別者であるという視点に立って、だからだれでも「善いサマリア人」であるキリストに寄り添っていただき、自分自身が変えられていくことによって、差別を乗り越えていこうではないか、と言うメッセージであった。それは決して間違ったメッセージではないと思うのだが、何か物足りなさを感じたのである。

 私が部落差別問題に出会ったのは、牧会に出てしばらくしてからであった(1972年頃)。それは教団教会内の部落差別を撤廃するために、教団に部落解放センターを設置すべく情宣活動をされていた神学校の先輩牧師との出会いだった。彼自身の生涯を通しての被差別経験、特に彼が青年時代に教会で受けた差別のことを聞き、大きなショックを与えられたのだ。しかし実際に被差別部落の現実に接したのは、それから17年位経た京都教区の滋賀県大津教会に赴任してからだった(1989)。彦根教会の東岡山治牧師に京都教区の部落差別問題委員会に勧誘されてからである。その委員会はまさに被差別部落に密着した活動を日常的にしていた委員会であり、やがて滋賀県の野洲教会内に教区の解放センターを設立したのであった。

 滋賀県では草津や近江八幡の被差別部落が研修の場として深い交流をもっていた。その部落は一般地区と隣接しているにもかかわらず、明らかに一般地区と分離・孤立化していた。故に私は一般地区に住んでいる自分が否応なく彼らを差別している側の人間であることを意識せざるを得なかったのである。そんななか、とにかく差別者と被差別者が出会い知り合うところから出発しようというスタンスが基本であった。ということは、日本における部落差別問題は、単に人間一人一人の内面的意識の問題として解消できない性質をもったものであると強く思わされた。日本の部落差別の歴史については、同研修会報告書の塩入隆兄の「同和教育のはじまりと今」に詳しく述べられている。差別の元凶にある、差別を生み出し増長させ利用していくこの世的権力者(国家)の常套手段的要素を見逃してはならないと思う。例えば現在沖縄の基地問題においてもそのような「差別」が深刻化しているからだ。 我が教団の現在の執行部の状況も、沖縄教区との関係において、久しく悪化をきたしたままで和解への糸口も見いだせていないのは、この差別の罠にかかっているのではないかと大いに憂うるものである。